15
残暑続く晩夏の夜、未明。知多半島の夜気は心地良く、海から吹きつける風が肌を優しく撫でる。
彦七郎と一益は、緒川城を音もなく抜け出し、波打ち際に沿って北上していた。目指すは、今川の最前線、村木砦。
波音に紛れ、磯の岩陰から一人の男が姿を現した。
「……お待ちしておりました」
梁田政綱である。かつて山口教吉として信長に挑み、敗北の淵で彦七郎に拾われ、死んだことにして名を変えた男は今や、駿河の情勢を肌で知る、織田家の「目」となっていた。
「政綱、首尾はどうだ」
彦七郎の問いに、政綱は苦渋を滲ませて答える。
「芳しくありません。知多の付け根、寺本城の花井氏はすでに今川へ寝返りました。もはや陸路は完全に遮断されたとお考えください」
「……他の国衆は?」
「親父の切腹が尾張中に響いております。皆、寝返れば山口の二の舞、耐えられなくば信長の怒りを買うと、震えながら日和見を決め込んでおりますな。……ただ、今川の勢いも『永遠』ではないかもしれません」
政綱は声を潜めた。
「軍師・太原雪斎。あの怪僧の知略はいよいよ冴え渡っておりますが……傍目にも分かるほど体力が落ちております。今の輝きは、蝋燭が消える直前の一瞬の強光に似ている。義元も焦っているのでしょう。だからこそ、この村木砦を無理にでも急造させたのではと……」
三人は、砦を見下ろす北側の小高い藪の中に身を潜めた。
眼下には、完成したばかりの村木砦が、月明かりの中に黒々と横たわっている。
「……見てください。あれが今川の『最新』です」
政綱が指し示す。
砦は海へ突き出すように配置され、背後を海に預けた馬蹄形の構造。
正面となる南側には、底が見えぬほど巨大で深い堀が口を開けている。一度落ちれば、上からの狙い撃ちは免れない。
東は大手門、西に搦手。それぞれが独立した防御区画となっており、隙がない。
砦の要所には三箇所の狭間が設けられ、そこから弓が常に外を睨んでいる。
「……鉄壁だな。正面から行けば、織田の兵はあの甕堀で全滅するぞ」
一益が舌打ちする。
だが、彦七郎の目は二つの策が浮かんでいた。
「一益、あの狭間を鉄砲で狙えるか」
「そりゃ拙者であれば朝飯前でさぁ。」
「ふむ、難易度的にはどうだ?今の織田鉄砲衆に出来るか?」
「それは……多少訓練が必要かと……」
もう一つ、彦七郎は砦の背後、海に面した北側の断崖を凝視する。
「……一益。南、東、西。どこも『これでもか』というほど厳重だ。だが、北はどうだ?」
「北は要害……切り立った崖です。船を寄せる場所すらありません」
「逆だ。あそこは『崖があるから攻めてこない』と設計者が過信している。東や西に比べれば、石垣も柵も一段低い。……いいか。狭間を鉄砲で牽制している隙に船団をあそこにぶつける。崖の下に船を捨て、船団を足場にして崖を登る。敵が南の正面に気を取られている隙に、この北の背後から食らいつくんだ」
砦からは、今川兵の話し声や、焚き火の爆ぜる音が微かに聞こえてくる。
完成したばかりの達成感と、今川の威光を背負った兵たちの士気は高い。だが、彦七郎には見えていた。その油断の隙間を、湿った海風が通り抜けていくのが。
「後はそうだな……政綱、攻める数日前から、近隣の村々に指示し、極上の酒を今川の将兵に振る舞わせる。……雪斎がどれほど鋭くとも、前線の雑兵までその緊張を維持させることはできん」
「承知いたしました。……『織田は来ない。来ても冬の海は渡れない』。そう思わせたまま、最期を迎えさせましょう」
彦七郎は、最後に一度だけ村木砦を振り返り、闇の中へと姿を消した。
九歳の瞳には、すでに陥落する砦の未来が映っていた。
「兄上、村木砦を見てまいりました。あれは力攻めでは、我が軍の半分が甕堀の底に沈みます」
那古野城の一室。彦七郎は、滝川一益に描かせた正確な縄張図を広げた。
「狙うは、海に面した北の断崖。冬の嵐が吹く日……今川の兵が『こんな日に船は来ない』と酒を飲んでいる隙に、崖を登って背後から食らいつきます」
信長は地図を凝視し、不敵に嗤った。
「よかろう。だが、冬の伊勢湾の波は荒く、風は刃だ。崖は凍る。……策があっても、兵が動けねば意味がないぞ」
「策は、すでに打っております」
彦七郎が津島の商人や熱田の職人に発注したのは、大量の「柿渋」を染み込ませた厚手の麻布だった。
「柿渋を何度も塗り重ねれば、布は硬く、水を弾く。さらにその下に真綿を詰めれば、海風の中でも体温を奪われませぬ」
当時の防具は鉄や革が主で、濡れれば重く、冷たくなる。彦七郎が考案した「防水防寒特製外套」は、冬の渡海作戦における兵の生存率を飛躍的に高める、時代を先取りした秘密兵器であった。ただ兵が動く度にバリバリと音を立てるのは背に腹はかえられぬ難点だった。
城の裏手では、橋本一巴の指導による苛烈な訓練が始まった。これまでの「一斉射撃」ではなく、砦の狭間を正確に射抜く「狙撃」の重視。鉄砲上手を数人選抜し、残りの兵は素早く銃を掃除し、火薬と弾を込める、いわゆる「分業制」により、鉄砲の弱点である連射性を補う仕組みだ。
火縄銃の爆音と白煙が立ち込める中、信長が苛立ちを露わに歩み寄ってきた。
「彦七! まどろっこしい真似をさせるな。俺が直々に陣頭に立ち、連射の号令をかければ済むことだ。三段でも四段でも、弾の嵐を浴びせて正面からねじ伏せてくれる!」
信長は、自ら銃を取り、兵たちの先頭で叫びたいという衝動を抑えきれない。だが、彦七郎は一歩も引かず、兄を制した。
「なりませぬ。兄上が直々に銃を取り、突撃の気配を見せれば、家臣たちはどうなるかお分かりですか?」
「……勇み立つに決まっている。俺の背を見て、死狂いで敵陣へ駆け込むわ!」
「それがいけないのです」
彦七郎の声は、冷めていた。
「兄上が前線で輝けば輝くほど、兵たちは冷静さを失います。手柄を焦り、号令を待たず、あの深い『甕堀』に向かって泥沼の突撃を繰り返すでしょう。……この戦で必要なのは、命知らずの勇気ではなく、息を殺して指先を動かす『寸分狂いのない冷徹さ』なのです」
彦七郎は、兵たちが台に銃を固定し、標的を狙う様子を指し示した。
「今回の主役は、兄上でも足軽大将でもありません。橋本殿が鍛えたこの『狙撃手』たちです。彼らが狭間を潰し、敵を釘付けにしている間に、静かに崖を登る。……兄上の出番は、城内に火が回り、仕上げの首切りが必要になった時だけで十分です」
信長は銃身を強く掴み、己の「戦の本能」を噛み殺した。自分が熱源になれば、作戦が壊れる。九歳の弟は、信長という個性が「軍」という機構を狂わせることを看破したのだ。
「……ふん。俺を飾り物にしておけと言うか。爺のようなことをぬかしおって」
吐き捨てるように言った信長だが、口元には笑みが浮かんでいた。
「よかろう。村木の門が開くまでは、俺は『うつけ』らしく奥で退屈そうにしておいてやる。……ただし! 弾が外れる毎に彦七、わしの拳骨をくれてやるから楽しみにしておけ!」
「……っ。望むところです!」
彦七郎は、青ざめながらも不敵に強がるのだった。
熱田の港では、一益の叱咤が響いていた。船を並べ、そこから石垣や崖に見立てた壁を登る、終わりのない反復訓練。
「船から崖へ! この速さが、勝敗を決める!」
その様子を、平手政秀は複雑な表情で見つめていた。九歳の童子が、古き良き武士の戦法を塗り替えようとしている。
(……これはもはや、私の知る『戦』ではない。ならば、私は私の戦をせねばならぬな)
天文二十二年、秋の終わり。政秀は決死の覚悟で美濃へと向かった。
稲葉山城で対峙した斎藤道三は、上座から冷笑を浮かべていた。
政秀が切り出したのは、前代未聞の提案だった。
「我が殿が今川の牙を抜く間……那古野城の留守、美濃の兵をもって守護していただきたい。殿の留守中、良からぬ野心を抱く身内共を、入道殿の『重石』で封じていただきたいのです」
道三の側近たちがざわついた。他国の城に軍を駐留させるなど、乗っ取ってくれと言っているようなものだ。
「……平手よ。正気か? 儂を那古野に入れれば、そのまま城を飲み込んでしまうぞ。蝮に卵の番をさせるようなものだ」
「それでも構いませぬ」
政秀は顔を上げ、道三を真っ直ぐに見据えた。
「我が殿は、貴殿を信じておられます。己を認めた男が、そのような小利に走る器ではないと。……そして彦七郎様も仰せでした。『毒を制するには、より強い毒が必要だ』と」
道三の眉がピクリと動いた。
「……彦七郎、か。あの童子がそう言ったか」
道三は、正徳寺で見た信長の異様さと、その影で冷徹な目をしていた幼き弟の姿を思い出した。あの兄弟は、これまでの「武士の理屈」を壊そうとしている。
「……面白い。平手よ、貴様はその兄弟の未来に、己の命を張るつもりか」
「……この平手、もはや長くはございませぬ。我が殿のうつけを止められず、彦七郎様の奇策に振り回される毎日。なればこそ、最後に織田の『新しき理』が勝つのを見てみたい。……入道殿、どうか!」
政秀は畳に額を擦りつけた。
沈黙が流れる。道三は扇子を膝で叩き、やがて太い声で笑い出した。
「よかろう。婿殿に伝えろ。『蝮が留守を守ってやる。安心して知多で暴れてこい』とな。……騒ぐネズミがいれば、美濃衆が掃除してやるわ」
その言葉が落ちた瞬間、平手政秀は全身の力が抜け、安堵の溜息を漏らした。
畳に押し当てた額の先、自身の指先が激しく震えている。命を削り、魂を削って引き出した道三の快諾。それは、信長と彦七郎という二人の「風雲児」の背中を守るための、老将が最後に見せた執念の勝利であった。
尾張の冬は、もうすぐそこまで来ていた。




