14
那古野城の深夜、蝋燭の火が小さく爆ぜた。
彦七郎は、滝川一益が運んできた小さな文箱を開いた。中には、細く丸められた書状が一本。
差出人は梁田政綱。かつて山口教吉として信長に挑み、敗北し、今川に殺されそうになったところを彦七郎に拾われ、死んだことにして名を変えた男だ。彼は今、今川家の懐深く、駿河の闇に沈み、織田家の「目」となっていた。
文には、今川義元が軍師・太原雪斎と共に築き上げた「怪物的な国家」の正体が記されていた。
『……雪斎が動いております。「今川仮名目録追加」二十一カ条が制定されました。もはや駿河において室町幕府の法など過去の遺物。義元は「自らの力で領国を統治する」と天下に宣言しました。寄親寄子の紐帯を法で縛り、数万の兵を寸分の狂いなく動かす「鋼の組織」が完成しつつあります。さらに武田・北条との同盟も間近。知多半島を起点に、今川の巨体が尾張を飲み込もうとしております』
「寄親寄子による軍事体系の完成、そして幕府権威からの完全な独立か……。義元は道三殿とは別の次元で、この乱世を終わらせる仕組みを作り上げているな」
彦七郎は文を焼き捨て、一益を振り返った。
「一益。政綱に、駿河側から見える『寝返りそうな国衆』の一覧を作らせろ。そしてお前は、尾張から駿河に裏切っても、決して信用されず、やがて殺されることを巷説として吹聴せよ。……山口父子のあの惨めな末路を、奴らの脳裏に焼き付けるんだ」
一益は暗がりで口角を上げた。
「へへっ。絶望を植え付けるってわけですね。承知しました」
翌朝、彦七郎は信長の居室を訪れた。
「兄上。東の海から巨大な影が迫っています。梁田政綱という、私が駿河に放っている『目』からの報告です」
「梁田、だと?」
不審そうに眉を寄せる信長に、彦七郎は淡々と嘘を混ぜる。
「ええ、金で飼っている野伏上がりですが、有能な男です。……その梁田によれば、知多の村木砦が完成間近。これが成れば、知多は今川に呑まれ、尾張は海を失います。また、水野を見捨てれば織田弾正忠家は頼りなしと裏切り者が続出する恐れさえあります。いつでも知多へ飛べるよう、準備が必要です」
そこへ、呼び出された平手政秀が姿を見せた。
「殿、知多へ兵を向ければ、尾張の背後はがら空きになります! 清洲の織田信友、そして末森の信行様を支持する連中が、この那古野を放っておくはずがありませぬ!」
政秀の指摘は尤もであった。那古野を空にすれば、内側から食い破られる。だが信長は、不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「ならば、蝮を呼べ。道三に援軍を乞い、俺が東へ向かう間、この那古野の留守を美濃の兵に守らせるのだ」
「な、正気でございますか!? 虎を庭に入れて留守を頼むなど……!」
「虎じゃなくて蝮な。道三は俺を認めた。その心底を試す。美濃の兵が那古野に居座れば、信行を担ぐ連中も迂闊には動けまい。毒を制するには毒よ」
政秀は激しく反対したが、他に妙案はなかった。道三という巨大な「重石」を置く。それが信長の選んだ、薄氷の上の賭けであった。
「……兄上、私は一足先に知多へ向かいます。敵の陣容をこの目で確かめ、どう撃退するか策を練ってまいります」
彦七郎の申し出に、政秀が割って入った。
「なりませぬ! 今や知多は敵地も同然。彦七様のような御方が行かれるなど、あまりに危うい!」
彦七郎は、九歳の子供とは思えぬ冷徹な瞳を老将に向けた。
「平手殿……。『戦は始める前に決まっている。どれだけ準備を積むかが重要だ』。そう教えてくれたのは、貴方ではありませんでしたか?」
「そ、それは……理屈では左様ですが、現実というものは……」
政秀がゴニョゴニョと口籠もるのを、信長は愉快そうに嗤った。
「ハハハ! 爺、自分の吐いた言葉にやられたな! ……よし、行け彦七。その濁った目で、村木の急所を暴いてこい」
信長は急に視線を一益へ向けると、射抜くような眼光で睨みつけた。
「一益。……もし、彦七に傷一つでも付けてみろ。その時は、貴様の首を刎ねる。……分かったな」
その声には、冗談の欠片もなかった。一益は背筋に冷たい刃を当てられたような緊張感の中、静かに、しかし深く頭を下げた。
「……命に代えましても」
平手政秀の屋敷に戻った彦七郎は、自室の畳の上に知多半島の地図を広げた。隣には、すでに旅装を整え終えた滝川一益が控えている。
「やはり陸路で行きますか? 陸なら、いざという時に拙者の脚で殿を担いで逃げ切れますが」
一益の問いに、彦七郎は小さく首を振った。
「いや、海路を使おう。地形を見れば一目瞭然だ。知多の付け根にある寺本城……ここが陥れば知多半島には物理的な『蓋』がされる。今川がこれを放置するはずがない。そうなれば、兄上が村木を叩く経路は海路しか残らない。その下見も兼ねてな」
一益は感心したように、細い顎を撫でた。
「大殿の進軍経路の確認ですか。……となると、熱田の商船に下働きとして潜り込むのが無難かと。海には長島願証寺と結託し、蟹江を中心に跋扈する服部党がいます。織田の縁者と知れば、極楽往生させてやるとばかりに食いついてきますぜ。……殿、その覚悟、ありますか?」
「望むところよ。不確定要素との遭遇も、計算の内だ。……一益、兄上に水野信元殿宛ての紹介状を書いてもらった。『うつけの弟が遊びに行くから、適当に飯でも食わせてやってくれ』とな。これなら誰も疑うまい」
数日後。熱田の港を出た商船には、泥にまみれた麻布を纏った彦七郎と一益の姿があった。
九歳の彦七郎は慣れない手つきで甲板を掃き、一益は無愛想に荷を運ぶ。懸念していた服部党の舟も、荒れ狂う野分も、この日は現れなかった。
海は鏡のように凪ぎ、抜けるような晴天の下、船は滑るように南下していく。
「……拍子抜けだな、一益。もっと障害だらけの航海になるかと思っていたが」
「滅多なことをおっしゃいますな。平穏こそ、旅の最上の仕様にございますよ」
潮風に吹かれながら、彦七郎は海岸線を凝視した。のんびりとした旅路とは裏腹に、その脳内では、間もなく視界に入るであろう「村木」の絶望の要塞をどう陥落させるか、休みなく回っていた。
緒川城の門前、一益の声が響いた。
「開門を願う。拙者、織田弾正忠家家臣、滝川と申す者。当主より書状を届けに参った」
門番は不審げにこちらを伺い、「少々お待ちを」と奥へ消えた。四半時ほど待たされ、ようやく重い門が開く。
旅装を解き、衣服を改めた彦七郎は、城主・水野信元との面会に臨んだ。信元は書状を一読し、眉をひそめる。
「……三郎殿の弟御が遊びに行くゆえ、よろしく頼む、と。一益殿、そちらの童子が?」
「左様。こちらは当主が舎弟、織田彦七郎にございます」
「彦七郎です。兄上より『ご当地を見てこい』と申し付けられました。お邪魔いたします」
九歳の童子の挨拶に、信元は毒気を抜かれたような顔をした。だが、その直後、彦七郎の口から滑り出したのは、冷徹な戦局分析であった。
「信元殿。知多の空気は、今や火薬の匂いがいたします。村木砦……あれは単なる砦ではなく、水野家を、ひいては尾張の海を窒息させるための結び目です。今、那古野は内紛で身動きが取れませぬが、兄上は必ず援軍を出します。それまでは、どうか耐え忍んでいただきたい」
信元は目を丸くした。侮っていた童子が、水野家が最も欲していた「援軍」の約束を確信を持って告げたからだ。
「……援軍はいつ頃と仰せで? 我らも無限に耐えられるわけではござらん」
「長くとも一年はかかりますまい。年内には次なる報せを届けさせましょう」
信元は、試すように身を乗り出した。
「……もし、我らがその前に今川へつくとお考えになったことは?」
彦七郎は、ふっと視線を外した。窓の向こう、遠い空を見るような虚ろな目で、静かにつぶやく。
「……鳴海の山口父子の末路、ご存知でしょう? 織田を裏切り、城を手土産に今川へ降った。なのに、結局は信用されず、罪をでっち上げられて切腹させられた。……あれ、めちゃくちゃ痛いですよね。お腹を切るのって」
その幼い声に、信元の背筋に凍りつくような怖気が走った。脅しではない。この子供は、裏切った先に待つ「確実な死」を、ただの計算結果として述べているのだ。
彦七郎は一益に目配せし、地図を信元の前に広げさせた。
「今川は、村木に最新の築城術を注ぎ込んでいる。だが、どれほど完璧な『仕様』の城にも、必ず設計上の穴があるはず。信元殿、案内人は不要です。我らで勝手に見て回ります」
「なっ、護衛もなしにか!?」
「不要です。私の後ろにいるこの男が、何とかしますので」
一益が、音もなくかき消えた。
「……左様。水野殿の御心配には及びませぬ」
信元が驚愕して振り返った時には、一益はすでにその背後に立ち、影に溶け込んでいた。
信元は戦慄し、ようやく理解した。目の前の九歳の子供と、その影に潜む忍びこそが、織田信長が放った最も鋭利な「楔」であることを。




