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異聞天下布武~夢を見た信興、天下に足掻く~  作者: 松本ジョー


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13

 正徳寺の門前に到着した織田の軍勢は、静まり返る境内に異様な威圧感を振りまいていた。


 道三が潜んでいた小屋の前を通り過ぎる際、信長は一度もその方向に目を向けなかったが、その不敵な背中は「すべて見えているぞ」と語っているかのようであった。


 寺の控室に入った信長は、それまでの「うつけ」の皮を脱ぎ捨てるように、手早く、しかし厳かに身を整え始めた。平手政秀が涙を浮かべて用意し、帰蝶が細部まで目を配った装束が、信長の肢体を包んでいく。


 一方、会見の座で待ち構える斎藤道三は、内心の動揺を押し殺していた。先ほど街道で見たあの「うつけ」をどう料理してやるか。鼻先で笑い飛ばしてやるか、あるいは容赦なく格の違いを見せつけるか。道三はあえて自らも略装で臨むことで、娘婿を軽んじる姿勢を誇示していたのである。


 だが、その目論見は、襖が開かれた瞬間に音を立てて崩れ去った。


 正徳寺に入り、信長が正装に着替えて現れた瞬間、道三は絶句した。


 髪を整え、侍烏帽子をかぶり、萌黄色の直垂に長袴姿。それはどこから見ても非の打ち所のない、凛々しき大名の姿であった。


 道三は見くびっていたのだ。「うつけ」のまま現れれば、自分も略装で応じて恥をかかせてやろうと。


 さらに道三は、信長を威圧するため、廊下に屈強な武者たちをズラリと並べていた。平服とはいえ、一騎当千の荒くれどもが殺気を放つその間を、信長は平然と、目もくれずに通り抜けた。


 「うつけ」の仮面を脱ぎ捨てた信長の堂々たる威厳に、蝮が圧倒されていた。


「こちらが斎藤山城守でございます。」


「で、あるか」


 斎藤道三を紹介する言葉に信長が短く応える。彦七郎はそれを見て口角を上げ、会見が形式的な儀礼に入った隙を見計らい、「寺の空気が悪い」とふらりと席を立った。


 寺の裏手へ回ると、木陰で美濃兵たちが不穏な密談を交わしていた。


「道三様は冷酷すぎる。あれでは家臣がついていけぬ」


「高政様こそが土岐の血を継ぐ正統な主だ。あの方こそが美濃を導くべきよ」


 そこへ、一人の若武者が割って入り、兵たちを厳しく諌めた。


「不敬である! 慎め!」


 明智十兵衛光秀だった。だが、彦七郎の記憶にある姿とは違い、だいぶ若い。


 兵たちは表面上黙ったものの、その反感の灯までは消えていない。


 彦七郎は影からその様子を観察し、小さく息を吐いた。


(あれは明智十兵衛か……。後に足利将軍家と織田家、二つの主君を同時に戴き、その狭間で身を削るようにして苦労する男。だが、今の彼はまだ、主家・斎藤家の行く末を憂うだけの、生真面目な若武者か。あの融通の利かぬ潔癖さは、美濃の濁流にも、我ら織田の異端さにも、到底馴染めはしまい)


 彦七郎は声を掛けることを諦め、光秀の後ろ姿を冷ややかに見送った。滝川一益と目配せを交わすと、彦七郎は気配を消し、何食わぬ顔で織田の家臣たちが控える列へと戻っていった。


 会見は道三と信長が酒を酌み交わし、最後に湯漬けを食して幕を閉じた。


 帰路を行く織田の軍勢は、行きよりも心なしか足取りが軽い。供回りの兵たちの間では、正装を解き、再び「うつけ」の格好に戻った信長の堂々たる振る舞いが、早くも武勇伝として語られ始めていた。


 西日さす街道を馬で進みながら、彦七郎は隣を行く信長に静かに語りかけた。


「兄上。此度の会見で、道三という男の限界が見えましたな。奴は『国』を奪う術には長けていても、『民』を、そして『人心』を統べる術を知らぬ」


 信長が不敵に笑い、馬の歩みを緩める。


「ほう、その心は?」


「『大義名分』の欠如です。道三は恩ある土岐氏を力で追い落とした。それは乱世の理に見えますが、大義なき簒奪は、周囲に『次は自分が奴を追い落としても良い』という口実を与えてしまう。だから美濃の連中は奴を敬わず、ただ恐れているだけなのです」


 彦七郎は、尾張の現状に引き寄せて言葉を継いだ。


「先日の萱津の戦いを思い出してください。あれは織田大和守が、兄上の追い落としを企み、先に手を出してきた。だからこそ、我らが奴らを叩き潰したのは正当な『返り討ち』であり、非はあちらにあると誰もが認めざるを得なかった。この『先に仕掛けられた』という事実があるからこそ、民も国衆も納得し、これからの戦いについても不満が出ないのです。これがもし、我らから何の理由もなく清洲を襲えば、それはただの強奪であり、周囲を敵に回す地獄の始まりです」


 信長は、前方の闇を睨み据えた。


「……大義か。不自由な鎖のようなものだと思っていたがな」


「いいえ。大義とは、敵を縛り、味方を繋ぐ黄金の鎖です。兄上、いずれ尾張を完全に平らげる際、斯波家という『神輿』は最大限に利用なされませ。道三のように強引に器を割るのではなく、斯波の権威を盾に、逆らう者を『逆賊』として合法的に掃除するのです」


 彦七郎の瞳に、九歳の子供とは思えぬ冷徹な光が宿る。


「道三は古い看板を壊して憎まれましたが、兄上は古い看板の裏に『中央集権』という新たな牙を隠すのです。国衆から兵を奪い、兄上お一人が兵を養い、法で縛る。斯波を担ぎつつ、実権をすべて兄上の手元に集める……。誰もが『兄上の命に従うことが正義だ』と思い込まされる状況を創り上げるのです」


 信長は、しばし沈黙した。そして、喉の奥で獣のような笑い声を漏らした。


「クク……面白い。マムシは己を強く見せようとして孤立したが、俺は『正義』という衣を纏って、その下ですべてを飲み干してやろう。斯波も国衆も、俺の舞台の上で踊る駒に過ぎぬということか」


「左様。逆らう者は、大義の名の下に根絶やしにする。……兄上の新時代に、中途半端な慈悲は無用でございます」


 二人の兄弟の笑い声が、暮れなずむ街道に響き渡った。


 その街道を塞ぐようにして、一人の屈強な武士が跪いていた。


「……おお、森三左衛門殿ではありませんか」


 彦七郎が声をかけると、その武士、森三左衛門可成は、岩のような肩を震わせて深く頭を下げた。彼は美濃の蓮台に拠点を置く有力者。父・信秀の代から密かに尾張と誼を通じていた森家の次代である。


「弾正忠家の皆様方、お久しゅうございます。……先ほど、寺の門前で織田様の御姿を拝見いたしました。……あのような『うつけ』、見たことがございませぬ。まさに、天下を呑む構え。胸のすく思いでした」


 可成の目は、本物を見つけた喜びで輝いていた。彼は美濃で斎藤家の宿老・長井道利に仕えていたが、その度量の狭さに嫌気がさし、主を求めて彷徨っていたのだ。


「三左衛門殿。わざわざここまで出向いたということは、美濃を見限リましたか?」


 彦七郎が問いかけると、可成は力強く頷いた。


「美濃はもはや、親子で食らい合う地獄。あのような澱んだ場所で槍を腐らせたくはございませぬ。……織田様! 私の槍、この三間半の朱槍の列に加えさせてはいただけませぬか!」


 彦七郎は隣の信長に目配せをする。


「兄上、この者は槍を握らせれば右に出る者はおらぬ『攻めの三左』。父上の代から、父の可行殿と共に我が家に誼を通じている知己です。……今ここで召し抱えねば、後で必ず後悔いたしますぞ」


 信長は、鞍の上でかじっていた餅を放り投げ、ニヤリと笑った。


「お前がそこまで言う男だ、間違いなかろう。……三左! その槍、俺が預かる。これからは美濃ではなく、俺の前を走れ」


「ははっ! 命に替えましても!」


 可成の声が街道に響き渡った。後の織田家にとって欠かせぬ重臣が、ついにその運命を織田信長に預けた瞬間であった。


 やがて夕闇が迫る頃、殿から戻った一益が愉悦の色を浮かべて報告した。


「殿、彦七様。蝮のじじい、とんでもねぇ土産を置いていきやがりました。側近にこう言ったそうで。『我が子らは、あのうつけの門前に馬を繋ぐことになるだろう』と」


 信長が喉を鳴らして笑う。だが、彦七郎は冷徹にその先の破滅を見通していた。


「それを聞いた高政殿は怒り心頭だったそうですぜ」


「ククク、やっちゃいましたね、兄上。ちょっと蝮には刺激が強すぎたみたいで…あのオヤジ、家臣の前で実の息子を完膚なきまでに叩き潰したわけだ。ただでさえ斎藤道三は人気がないようです。それに高政殿の出自に対する噂。これで美濃は完全に割れますね。いや、割れるどころか、兄上、道三殿は遠からず、その息子に攻め殺されるかもしれませんよ……」


 彦七郎の記憶にある「長良川の戦い」。子が父を討つ、凄惨な親子喧嘩の足音が聞こえる。


「兄上、今の話を義姉上にも伝えた方がよろしいかと……義姉上にも、覚悟が必要でしょう」


 信長は、前方の尾張の空を見据えたまま、静かに口角を上げた。


「……望むところよ。蝮が枯れるなら、その後に芽吹く美濃の土、俺がまるごと飲み干してやる」


 彦七郎は兄の横顔を見ながら、闇の中に美濃の地獄が広がるのを幻視していた。


「……楽しみですね。兄上の門前に、美濃の武士がどんなツラをして馬を繋ぐのか…まっ、その前に今川をなんとかしなきゃいけませんがね…それまでは精々、この危うい同盟の利を享受しましょうよ」


 兄弟の冷たい笑い声が、暮れなずむ街道に響き渡った。

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― 新着の感想 ―
若き日の明智光秀、放浪も苦難も経験してない若侍ぷりがいいですね。 本田正信とか明智光秀とかは不遇の時期を越えないと一皮剥けた怪物にならないってのが青田買い出来ない厄介な点 滝川一益はすてにどん底にいた…
彦七は伊勢長島で逝ったから本能寺を知らない 故に明智光秀を警戒してないな
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