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正徳寺の門前に到着した織田の軍勢は、静まり返る境内に異様な威圧感を振りまいていた。
道三が潜んでいた小屋の前を通り過ぎる際、信長は一度もその方向に目を向けなかったが、その不敵な背中は「すべて見えているぞ」と語っているかのようであった。
寺の控室に入った信長は、それまでの「うつけ」の皮を脱ぎ捨てるように、手早く、しかし厳かに身を整え始めた。平手政秀が涙を浮かべて用意し、帰蝶が細部まで目を配った装束が、信長の肢体を包んでいく。
一方、会見の座で待ち構える斎藤道三は、内心の動揺を押し殺していた。先ほど街道で見たあの「うつけ」をどう料理してやるか。鼻先で笑い飛ばしてやるか、あるいは容赦なく格の違いを見せつけるか。道三はあえて自らも略装で臨むことで、娘婿を軽んじる姿勢を誇示していたのである。
だが、その目論見は、襖が開かれた瞬間に音を立てて崩れ去った。
正徳寺に入り、信長が正装に着替えて現れた瞬間、道三は絶句した。
髪を整え、侍烏帽子をかぶり、萌黄色の直垂に長袴姿。それはどこから見ても非の打ち所のない、凛々しき大名の姿であった。
道三は見くびっていたのだ。「うつけ」のまま現れれば、自分も略装で応じて恥をかかせてやろうと。
さらに道三は、信長を威圧するため、廊下に屈強な武者たちをズラリと並べていた。平服とはいえ、一騎当千の荒くれどもが殺気を放つその間を、信長は平然と、目もくれずに通り抜けた。
「うつけ」の仮面を脱ぎ捨てた信長の堂々たる威厳に、蝮が圧倒されていた。
「こちらが斎藤山城守でございます。」
「で、あるか」
斎藤道三を紹介する言葉に信長が短く応える。彦七郎はそれを見て口角を上げ、会見が形式的な儀礼に入った隙を見計らい、「寺の空気が悪い」とふらりと席を立った。
寺の裏手へ回ると、木陰で美濃兵たちが不穏な密談を交わしていた。
「道三様は冷酷すぎる。あれでは家臣がついていけぬ」
「高政様こそが土岐の血を継ぐ正統な主だ。あの方こそが美濃を導くべきよ」
そこへ、一人の若武者が割って入り、兵たちを厳しく諌めた。
「不敬である! 慎め!」
明智十兵衛光秀だった。だが、彦七郎の記憶にある姿とは違い、だいぶ若い。
兵たちは表面上黙ったものの、その反感の灯までは消えていない。
彦七郎は影からその様子を観察し、小さく息を吐いた。
(あれは明智十兵衛か……。後に足利将軍家と織田家、二つの主君を同時に戴き、その狭間で身を削るようにして苦労する男。だが、今の彼はまだ、主家・斎藤家の行く末を憂うだけの、生真面目な若武者か。あの融通の利かぬ潔癖さは、美濃の濁流にも、我ら織田の異端さにも、到底馴染めはしまい)
彦七郎は声を掛けることを諦め、光秀の後ろ姿を冷ややかに見送った。滝川一益と目配せを交わすと、彦七郎は気配を消し、何食わぬ顔で織田の家臣たちが控える列へと戻っていった。
会見は道三と信長が酒を酌み交わし、最後に湯漬けを食して幕を閉じた。
帰路を行く織田の軍勢は、行きよりも心なしか足取りが軽い。供回りの兵たちの間では、正装を解き、再び「うつけ」の格好に戻った信長の堂々たる振る舞いが、早くも武勇伝として語られ始めていた。
西日さす街道を馬で進みながら、彦七郎は隣を行く信長に静かに語りかけた。
「兄上。此度の会見で、道三という男の限界が見えましたな。奴は『国』を奪う術には長けていても、『民』を、そして『人心』を統べる術を知らぬ」
信長が不敵に笑い、馬の歩みを緩める。
「ほう、その心は?」
「『大義名分』の欠如です。道三は恩ある土岐氏を力で追い落とした。それは乱世の理に見えますが、大義なき簒奪は、周囲に『次は自分が奴を追い落としても良い』という口実を与えてしまう。だから美濃の連中は奴を敬わず、ただ恐れているだけなのです」
彦七郎は、尾張の現状に引き寄せて言葉を継いだ。
「先日の萱津の戦いを思い出してください。あれは織田大和守が、兄上の追い落としを企み、先に手を出してきた。だからこそ、我らが奴らを叩き潰したのは正当な『返り討ち』であり、非はあちらにあると誰もが認めざるを得なかった。この『先に仕掛けられた』という事実があるからこそ、民も国衆も納得し、これからの戦いについても不満が出ないのです。これがもし、我らから何の理由もなく清洲を襲えば、それはただの強奪であり、周囲を敵に回す地獄の始まりです」
信長は、前方の闇を睨み据えた。
「……大義か。不自由な鎖のようなものだと思っていたがな」
「いいえ。大義とは、敵を縛り、味方を繋ぐ黄金の鎖です。兄上、いずれ尾張を完全に平らげる際、斯波家という『神輿』は最大限に利用なされませ。道三のように強引に器を割るのではなく、斯波の権威を盾に、逆らう者を『逆賊』として合法的に掃除するのです」
彦七郎の瞳に、九歳の子供とは思えぬ冷徹な光が宿る。
「道三は古い看板を壊して憎まれましたが、兄上は古い看板の裏に『中央集権』という新たな牙を隠すのです。国衆から兵を奪い、兄上お一人が兵を養い、法で縛る。斯波を担ぎつつ、実権をすべて兄上の手元に集める……。誰もが『兄上の命に従うことが正義だ』と思い込まされる状況を創り上げるのです」
信長は、しばし沈黙した。そして、喉の奥で獣のような笑い声を漏らした。
「クク……面白い。マムシは己を強く見せようとして孤立したが、俺は『正義』という衣を纏って、その下ですべてを飲み干してやろう。斯波も国衆も、俺の舞台の上で踊る駒に過ぎぬということか」
「左様。逆らう者は、大義の名の下に根絶やしにする。……兄上の新時代に、中途半端な慈悲は無用でございます」
二人の兄弟の笑い声が、暮れなずむ街道に響き渡った。
その街道を塞ぐようにして、一人の屈強な武士が跪いていた。
「……おお、森三左衛門殿ではありませんか」
彦七郎が声をかけると、その武士、森三左衛門可成は、岩のような肩を震わせて深く頭を下げた。彼は美濃の蓮台に拠点を置く有力者。父・信秀の代から密かに尾張と誼を通じていた森家の次代である。
「弾正忠家の皆様方、お久しゅうございます。……先ほど、寺の門前で織田様の御姿を拝見いたしました。……あのような『うつけ』、見たことがございませぬ。まさに、天下を呑む構え。胸のすく思いでした」
可成の目は、本物を見つけた喜びで輝いていた。彼は美濃で斎藤家の宿老・長井道利に仕えていたが、その度量の狭さに嫌気がさし、主を求めて彷徨っていたのだ。
「三左衛門殿。わざわざここまで出向いたということは、美濃を見限リましたか?」
彦七郎が問いかけると、可成は力強く頷いた。
「美濃はもはや、親子で食らい合う地獄。あのような澱んだ場所で槍を腐らせたくはございませぬ。……織田様! 私の槍、この三間半の朱槍の列に加えさせてはいただけませぬか!」
彦七郎は隣の信長に目配せをする。
「兄上、この者は槍を握らせれば右に出る者はおらぬ『攻めの三左』。父上の代から、父の可行殿と共に我が家に誼を通じている知己です。……今ここで召し抱えねば、後で必ず後悔いたしますぞ」
信長は、鞍の上でかじっていた餅を放り投げ、ニヤリと笑った。
「お前がそこまで言う男だ、間違いなかろう。……三左! その槍、俺が預かる。これからは美濃ではなく、俺の前を走れ」
「ははっ! 命に替えましても!」
可成の声が街道に響き渡った。後の織田家にとって欠かせぬ重臣が、ついにその運命を織田信長に預けた瞬間であった。
やがて夕闇が迫る頃、殿から戻った一益が愉悦の色を浮かべて報告した。
「殿、彦七様。蝮のじじい、とんでもねぇ土産を置いていきやがりました。側近にこう言ったそうで。『我が子らは、あのうつけの門前に馬を繋ぐことになるだろう』と」
信長が喉を鳴らして笑う。だが、彦七郎は冷徹にその先の破滅を見通していた。
「それを聞いた高政殿は怒り心頭だったそうですぜ」
「ククク、やっちゃいましたね、兄上。ちょっと蝮には刺激が強すぎたみたいで…あのオヤジ、家臣の前で実の息子を完膚なきまでに叩き潰したわけだ。ただでさえ斎藤道三は人気がないようです。それに高政殿の出自に対する噂。これで美濃は完全に割れますね。いや、割れるどころか、兄上、道三殿は遠からず、その息子に攻め殺されるかもしれませんよ……」
彦七郎の記憶にある「長良川の戦い」。子が父を討つ、凄惨な親子喧嘩の足音が聞こえる。
「兄上、今の話を義姉上にも伝えた方がよろしいかと……義姉上にも、覚悟が必要でしょう」
信長は、前方の尾張の空を見据えたまま、静かに口角を上げた。
「……望むところよ。蝮が枯れるなら、その後に芽吹く美濃の土、俺がまるごと飲み干してやる」
彦七郎は兄の横顔を見ながら、闇の中に美濃の地獄が広がるのを幻視していた。
「……楽しみですね。兄上の門前に、美濃の武士がどんなツラをして馬を繋ぐのか…まっ、その前に今川をなんとかしなきゃいけませんがね…それまでは精々、この危うい同盟の利を享受しましょうよ」
兄弟の冷たい笑い声が、暮れなずむ街道に響き渡った。




