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異聞天下布武~夢を見た信興、天下に足掻く~  作者: 松本ジョー


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 天文二十二年、春。美濃の「蝮」こと斎藤道三から、娘婿・織田三郎信長へ会見の打診が届いた。


 場所は、美濃と尾張の国境にほど近い富田の正徳寺。


 そこは両国の中間地点であるだけでなく、古くから両国の守護より免税の特権を与えられた「不入の地」、すなわち、いずれの勢力も公には手を出せぬ中立地帯であった。互いに喉元に刃を突きつけ合う緊張状態の中、その聖域だけが、唯一、殺生を禁じられた対話の場として残されていたのである。


 さて、この斎藤道三という男は言わずと知れた乱世の梟雄である。道三の父・長井新左衛門尉の代から、僧侶、油売り、そして武士へと身分を替え、美濃の有力者へと食い込んできた「親子二代」にわたる執念の国盗り物語。その結晶が、今の道三であった。


 主君を追放し、恩人を裏切り、毒を盛り、親子二代の時間をかけて美濃という国を丸ごと胃袋に収めた男。「下剋上」という言葉を体現するその生き様は、隣国尾張の者たちからも蛇蝎のごとく嫌われ、同時に、底の知れぬ深淵のごとく恐れられていた。


美濃を拠点にしていたため、尾張の織田信秀から絶え間ない侵攻を受けたがそれを悉く跳ね返し、逆に尾張を窺う姿勢まで見せた。その際は平手政秀の機転により信秀の嫡子、信長が娘である帰蝶を娶ることで一応の決着となった。


 そんな道三からの会見要請。それを「面倒だ」の一言で切り捨てようとする信長を前に、平手政秀は自室で一人、割れんばかりの頭を抱えていた。


「……ああ、殿。また、また左様な……。これでは弾正忠家は美濃に呑まれるか、あるいは孤立して果てるのを待つばかりではないか」


 政秀は、たまたま廊下を通りかかった彦七郎を見つけるなり、救いを求めるようにその裾を掴んだ。


「彦七様! お願いにございます。貴方様から殿に、此度の会見の重要性をお説きくだされ! あれは尾張の未来を左右する一大事にございまして……」


 だが、九歳になった彦七郎は、必死な宿老の姿に眉一つ動かさない。


 彦七郎の目には、数年後に血に染まるであろう長良川の光景が、歴史の必然として浮かんでいた。


 外交がどう転ぼうが、いずれ美濃は内側から腐り、俺たちはその残骸を奪い合うことになる、避けられぬ『歴史の潮流』を前に、今さら一喜一憂しても始まらぬというのが、彼の本音であった。


「あ~、はいはい。そう熱くなるな。兄上の機嫌が悪くなるだけだぞ」


「彦七様!」


「俺に言わせるより、もっと適任がいるだろう。女にしか言えぬこともある……。じゃあな」


 彦七郎は素気なくあしらうと、ひらひらと手を振って去っていった。その背中を見送りながら、政秀は「どいつもこいつも……」と、白髪頭を掻きむしり、再び頭を抱え直すしかなかった。


 万策尽きた政秀は、本来ならば重臣といえども立ち入るべきではない、信長の私生活の場「奥」へと向かった。通常、当主の許可なく奥の女性と対面するのは御法度に近いが、政秀は取次ぎの女房に拝み倒し、帰蝶が庭先を眺める縁側へと、異例の直訴を試みた。


 御簾越しに現れた帰蝶は、政秀のやつれた顔立ちを一目で察し、鈴を転がすような声で笑った。


「平手殿、顔が酷いわ。殿がまたうつけな振る舞いでもされたのでしょう?」


「……奥方様。もはや、貴女様だけが頼りにございます」


 政秀が涙ながらに事の次第を説くと、帰蝶は少しの間沈黙した。彼女の瞳には、父・道三の狙いと、夫・信長の意地、その双方が冷徹に見えていた。


「わかりました。父は、ただ娘婿の顔を見たいわけでも後ろ盾になろうというわけでもないでしょう。尾張を喰らうか、共に歩むかを見極めようとしています。……殿に、その『果し合い』を避けるのは織田の名に傷がつくと伝えておきましょう」


 帰蝶の理知的な説得を受け、信長は「フン、帰蝶も爺と同じことを言う」と吐き捨てた。理屈ではわかっている。だが、美濃の威光を借りる形になることに、彼の本能的な自尊心が納得を拒んでいた。


 信長は、側で寝転んで兵法書に目を通していた彦七郎を蹴飛ばした。


「……彦七。お前はどう思う。爺や帰蝶、どいつもこいつも『行け』とやかましい。だが俺は、あのマムシに会って頭を下げるような真似は、死んでも御免だ」


 彦七郎はむっくりと起き上がり、読みかけの兵法書を傍らに置き、信長の顔をまじまじと見つめた。


「同盟の利や頭を下げるかどうかなど、どうでもよろしゅうございます。……私が気になるのは、日の本随一の梟雄、斎藤道三という男が、どれほどの『格』を持って存在しているかです」


「格、だと?」


「ええ。美濃の蝮、そして彼を取り巻く連中がどんなツラをして、何を企んでいるのか。……兄上、今のうちに『本物の怪物』がどういうものか、品定めをしておくべきでしょう。死にかけの蝮なら、わざわざ頭を下げる必要もありません。踏み潰す算段を立てに行けばよいのです」


 信長はその言葉を聞くなり、一瞬の静寂のあと、腹を抱えて大笑いした。


「アッハハハ! 相手の首を獲るより先に、格付けをしに行こうか! 面白い。さすがは俺の弟だ。ならお前も来い、彦七! その濁った目で、蝮の肚を暴いてみせろ!」


 こうして、信長の心に「外交」ではなく「視察」という新たな火が灯り、歴史的な正徳寺会見への同行が決定したのである。


 その準備は平手政秀と帰蝶により進められた。ただ、道三を油断させ、かつ度肝を抜くための「演出」については、彦七郎が政秀を説得して策を練らせた。


 「平手殿、兄上のうつけ姿は今や尾張の名物だ。ならば、その『名物』を美濃のジジイにたっぷり見せつけてやろうじゃないか」


 彦七郎の言葉に、政秀は苦笑しながらも、それが最善の揺さぶりになると悟ったのだ。


 行軍当日。信長はいつもの通り、赤い紐で結んだ茶筅髷に、袖をぶった切った湯帷子、虎の皮の半袴を着用し、馬の上で片膝を鞍に乗せ、不敵に餅をかじりながら揺られていた。


 一方で彦七郎は、公家風の「水干」を粋に着こなし、小さめの馬に揺られていた。うつけの兄と、涼しげな弟。その対比がまた、周囲の目を引いた。


 行軍の列には、三百の長槍隊と二百挺の鉄砲隊が並ぶ。長槍隊の槍は三間半、この日のために朱色で塗り直された特注品である。当時の常識を遥かに超えたその長さは、それだけで美濃兵を威圧した。


 鉄砲隊の中には、九歳となった半左衛門の姿もあった。重い筒を付き人に持たせながらも、要所では自ら銃身を保持し、鋭い眼光を崩さない。


「泣かなきゃいいがな」


 彦七郎のからかいに、半左衛門は無言で、しかし力強く頷いた。


 美濃へ向かう街道。


「父上は道中の小屋にでも潜んで、あなたを覗き見るはずよ」


 帰蝶の予言通り、一益が影のように現れ、信長と彦七郎に耳打ちした。


「前方の小屋に気配。蝮が隙間から覗いていますぜ」


 彦七郎は「姉上様の言う通りだ」とニヤリとし、信長はあえて「うつけ」の格好を強調した。乱れた髪、片肌脱ぎの異様な風体。信長は道三の視線を嘲笑うかのように、悠然とその前を通り過ぎていった。小屋の中で、道三がその異形の行列、特に信長の堂々たる歩みと、見たこともない長さの槍、そして異様な数の鉄砲隊に戦慄しているとも知らずに。


 潜伏していた小屋の隙間からその光景を覗き見ていた斎藤道三は、流れる冷や汗を拭うことすら忘れていた。


 朱色に煌めく三間半の長槍が森のように連なり、見たこともない数の鉄砲が春の陽光を鈍く跳ね返している。そしてその中心にいるのは、天下の法も、戦の常識も、この「蝮」の眼力すらも嘲笑うかのように餅をかじる若き異形。


(……あれが、織田信長か)


 道三の胸に、かつてない戦慄と、得体の知れぬ高揚が同時に込み上げる。隣を行く幼き少年が、小屋の方向を一瞬だけ冷徹に見据えたような気がして、道三は思わず息を止めた。


 行列が巻き上げる土煙は、そのまま美濃の空を覆う暗雲となるか、あるいは旧態依然とした乱世を掃き清める烈風となるのか。


 正徳寺は、もうすぐそこであった。


 美濃の巨魁と、尾張の異端。歴史を揺るがす宿命の対峙まで、あと、半刻。

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