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異聞天下布武~夢を見た信興、天下に足掻く~  作者: 松本ジョー


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 その日、那古野の空に突き抜けるような爆音が轟いた。


 織田三郎信長が鉄砲を見せてやると弟である彦七郎と半左衛門、平手政秀等を伴い、師範・橋本一巴と共に、鉄砲の試射会を催した。


 ――カッ、バァァァァァァァン!!


 乾いた音が響き、信長が「これぞ天下を動かす道具よ!」と快哉を叫ぶ。その横で、異変が起きた。


「ぎゃあぁぁぁ!」


 短い悲鳴。半左衛門が白目を剥いて倒れ伏したのだ。単なる驚きではない。その震え方は、まるで魂がその肉体から、今この場から、命を投げ捨ててでも逃げ出そうとしているかのようだった。


 白目を剥き、意識を失った半左衛門は、すぐさま平手政秀の屋敷へと運び込まれた。


「……うう、あ……が……彦七……」


 寝台で激しくうなされる半左衛門。その手は何かを振り払うように宙を掻き、指先は真っ白に震えている。傍らで見守る彦七郎は、その異常な怯え方に確信を持った。


(これは単なる驚きではない。魂に刻まれた、根源的な恐怖だ……)


 彦七郎は、部屋の隅に潜む影に声をかけた。


「一益。……末森へ行くぞ。八郎に会わねばならぬ」


「末森ですかい? あそこは今や信行様の牙城。見つかれば『うつけの弟が刺客に来た』と騒がれ、命はありやせんぜ」


「構わん。案内してくれ」


 夜。彦七郎と一益は、那古野から東へ二里弱、織田信行の居城・末森城へと忍び寄った。この城にはもう一人の弟・八郎が暮らしている。だが、八郎はあの「夢」が醒めた時から自室に引きこもり、家族ですらその顔を見ることは稀だった。


「……ここからは、あっしの歩法に合わせてくだせぇ。呼吸は浅く、意識は指先に」


 一益の囁きと共に、二人は闇に溶け込んだ。見張りの兵が松明を持って通り過ぎる、その僅かな影の隙間をすり抜けていく。壁を背にする彦七郎の耳元で、心臓の鼓動がうるさいほどに響く。


(見つかれば終わりだ。だが、確かめなければならない。なぜ半左衛門があの音であれほど壊れたのか。八郎だったら、絶対に知っている……!)


 城の最奥、湿った闇と沈香の匂いが立ち込める八郎の部屋。彦七郎が音もなく忍び込むと、膝を抱えて座っていた弟・八郎が、感情の抜け落ちた声で語りかけてきた。


「……彦七。どうした、お前。この城に立ち入るなと勘十郎兄上に言われたんだろ?」


 八郎は顔を上げず、暗闇に溶け込んだまま問いかける。


「ああ。だから滝川一益に頼んで忍んできた」


「滝川一益……。おま……まあいい」


 八郎は、恐らく滝川一益が何者で、今後どのような活躍をするかを知っているのだろう。だが、何かを言いかけて諦めたようだ。八郎がこちらを一瞥する。その瞳は、八歳とは思えぬほど濁り、淀んでいた。彦七郎は八郎の前に腰を下ろし、まっすぐにその瞳を見つめた。


「ああ、半左衛門が鉄砲の音を聞いておかしくなった。……おそらく、『果心の夢』が影響しているのだろう? 俺が死んだ後、半左衛門がどうなったのかを聞かなければと思ってな。八郎、頼む、教えてくれ……」


 果心の夢。前世の、いや、これから起きる未来の記憶という呪い。八郎の身体が微かに震え、部屋の空気が重くなったかのような錯覚を覚えた。


「……ああ、お前が一向門徒共に殺されてからのことか。思い出したくもないが、そうもいくまい。いいだろう。あの日あの時、何があったのか。何故あいつが果心の夢から醒めても何も覚えていないのか。わしの考えも含めて教えてやろう」


 八郎は虚空を見つめ、掠れた声で笑った。


「……お前が長島で自害に追い込まれた後、半左衛門は、壊れたんだ。……いや、鬼になったというべきか。半左衛門は三郎兄上と共に、彦七を殺した門徒どもを一人残らず根絶やしにする策を練った。二度の敗戦を経て、三度目の戦いで長島の周りを巨大な船団で覆い尽くし、兵糧攻めを敢行したんだ。……城内から聞こえる赤子の泣き声も、死を待つ者の呪詛も、半左衛門には届いていなかった」


 その凄惨な光景が、彦七郎の脳裏に逆流してくる。


「門徒共が弱り切ったところで、ようやく降伏を認める。……だが、それは罠だった。退去していく者共に、半左衛門と兄上は非情の鉄砲を喰らわせ、殲滅しようとしたんだ。約束を違え、背中から撃ち抜く……それはもう、戦じゃなかった。


 でも、門徒たちの怒りは、半左衛門の予想を超えていた。騙し討ちに遭った彼らは、死を覚悟して裸になり、文字通り鬼となって織田勢に襲い掛かってきたんだ」


 八郎の声が、激しく震え始めた。


「乱戦の最中だった。鉄砲を持った一人の門徒が、至近距離から……半左衛門は、眉間を打ち抜かれて死んだ……恐らく走馬灯を見る暇もなかった。だからあいつは、果心の夢から醒めても何も覚えていないんだ……」


 八郎は自分の眉間を強く押さえ、嗚咽を堪えるように言葉を絞り出した。


 彦七郎は悟った。あの音は、半左衛門にとって『人生が終わった瞬間の音』なのだ。自分の死が、弟の魂まで壊していたという事実に、彦七郎は激しい後悔と怒りを燃やした。


(……二度と、あの真っ直ぐな瞳を濁らせてなるものか)


 那古野城、深夜。潜入から戻った彦七郎を待っていたのは、暗がりのなかで一人、黙々と刀の手入れをしていた信長だった。


 信長は、白く粉を吹いた刀身を懐紙でゆっくりと、しかし力強く拭っている。懐紙が鋼と擦れる乾いた音だけが、闇の中に冷たく響く。拭い去られた後の刀身は、月光を鋭く撥ね返し、まるで生き物のような冷徹な輝きを放っていた。


「……夜歩きが過ぎるな、彦七。一益を連れて末森へ行ったそうだな。俺の首を信行に届ける相談でもしてきたか?」


 低く、地を這うような殺気。彦七郎は静かに膝をつき、兄の目を真っ正面から見据えた。


「……兄上の『矛』が、錆びていたからです」


「何だと?」


「半左衛門のことです。あの鉄砲の音で腰を抜かした弟を、兄上は使い物にならぬ廃物とお捨てになりますか?」


 信長は鼻で笑った。


「戦場で動けぬ者は、兵ですらなかろう」


「左様。なれば、私はその原因を突き止め、治さねばならぬと考えました。末森には、半左衛門と同じく『心を閉ざした』八郎がおります。二人の怯え方はあまりに似ていた……。私は、末森の淀んだ空気が弟たちを蝕んでいるのではないかと疑い、その目で確かめて参ったのです」


 彦七郎はあえて「夢」には触れず、末森の環境のせいにした。


「末森に潜む『うしろ向きな呪い』が、弟たちの魂を縛っております。それを解くには、まず半左衛門自身が己の恐怖の正体に立ち向かわねばなりませぬ。兄上、私はあ奴の心に『一筋の火を灯して』参りました。あ奴は今、その火を絶やさぬよう、必死に己の呪いと戦っております。あとは自らの意志でその闇を食い破ってみせるかどうか……。私は、半左衛門なら必ずやってくれると信じております。その時こそ、半左衛門は兄上の最強の撃ち手になりますよ」


 信長は手入れし終えた刀を鞘に収め、ドサリと床に置いた。


「……フン。死に損ないの弟を治してどうする。余計な手間にしかなるまい」


「いいえ。『恐怖を知る者』こそが、最も冷徹に引き金を引ける。私はそう確信しております」


 信長はしばし黙り込み、やがて短く「下がれ」と告げた。その声に宿っていた刺すような殺気は、既に消えていた。


 数日後。目を覚ました半左衛門は、真っ青な顔のまま、鉄砲師範・橋本一巴の前に座り込んでいた。


「……弟子に、してください」


「断る。鉄砲の音に腰を抜かすような軟弱者は、子供の遊びにでも興じていろ」


 一巴の冷たい拒絶。半左衛門は板敷きに額を擦りつけた。体はまだ震えているが、言葉には執念が宿る。


「兄上や彦七は凄いが、俺は意気地なしだ! だが……このままでは、兄上の、そして彦七の足手まといになる……! それだけは、死んでも嫌なんだ! 音が怖いなら……その音を出す側になるしかないんだ! この恐怖を乗り越えたとき、俺は、誰よりも確実に敵を仕留める男になる!」


 一巴は、少年の瞳の奥に潜む「何か」に気づき、言葉を失った。


「……よし。わかった、だが、音が鳴る前に逃げ出せば、即座に叩き出すぞ」


 那古野城の裏手にある稽古場。連日の残暑と、硝煙の臭い。


 半左衛門の手は限界を超えていた。指の皮は破れ、血が滲む。重い鉄砲を支える左腕は、鉛のように感覚がない。


(……怖い。やっぱり、怖い……)


 火縄がじりじりと燃える音。それが、前世の記憶――雨の長島で眉間を貫かれた瞬間の前触れと重なり、銃口が小刻みに震える。


「……ええい、腰が引けているぞ! 何が撃てる!」


 一巴の竹刀が背を打つ。泥に這いつくばりながら、嗚咽が漏れそうになる。


(俺は、やっぱり駄目なのか……?)


 その時、視界の端に、じっとこちらを見つめる彦七郎の姿があった。彦七郎は何も言わない。だが、その瞳は静かに語りかけていた。


(――お前は、出来る、必ず……)


「……彦七。そうだ、俺は誓ったんだ。彦七や兄上の足手まといにはならないと!」


 半左衛門は泥だらけの顔を上げた。瞳から、怯えの色が消えかけていた。


「……師匠。次は、弾を。実弾を、撃たせてください」


 一巴は眉をひそめたが、重い鉛玉を一つ放って寄こした。


 火薬を筒口から流し込む。鉛玉を押し込み、朔杖で突き固める。コン、コン、という音が鼓動と重なる。火蓋を切り、燃えさかる火縄を火挟みに設置する。二十間先の的を見据える。視界が狭まる。


(来る。あの音が、来る……!)


 前世の死の記憶が、津波のように押し寄せる。逃げ出したい衝動を奥歯が砕けるほどに噛み締め、引き金を絞った。


 ――ドォォォォン!!


 これまでで最も大きく、重い轟音。凄まじい反動。目の前を覆う真っ白な硝煙。やがて風が煙を運び去った時、半左衛門はまだ立っていた。


 二十間先の木の板。その中心から指二本分ほどずれた位置に、真新しい穴が空いていた。


「……あ……あたっ……?」


 当たった。自分が放った弾が。理解した瞬間、膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。だが、その顔はもう恐怖に歪んではいない。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、半左衛門は笑った。


「は、はは……。彦七……俺、撃てたよ……。俺は、撃つ側になれたんだ……!」


 遠くから見ていた彦七郎は、深く安堵の息を吐き出した。弟の瞳から呪縛という濁りが消え、「撃ち手」の冷徹な光が宿り始めていた。


(……よくやった、半左衛門。お前はもう、誰にも負けない)


 彦七郎は、一巴に目配せをして一礼すると、静かにその場を立ち去った。


 弟が自力で乗り越えたこの瞬間を、彼だけのものにしてやるために。

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あとは一向宗と出会った時に平静を保てるか、だの
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