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天文二十一年八月、陽光の照りつける昼下がりのことだった。
那古野城の庭で、彦七郎が三間半の長槍の扱いに頭を悩ませていた時、滝川一益が音もなく傍らに現れた。その顔には、いつもの余裕の笑みが消えている。
「殿、一大事でさ。清洲の坂井大膳らが動きました。深田・松葉の両城を急襲。叔父の織田信次様を人質に取ったとの報せです」
彦七郎は即座に槍を置き、顔を上げた。
「……来たか」
八歳の体には過酷な真夏の熱気だが、彦七郎の頭脳は、冷徹に、そして急速に回転を始める。
「一益、兄上は?」
「おそらく、これから知らせが入るかと……」
「よし。兄上に伝えるぞ! 一益は更に情報を集め、敵の数と布陣の確度を高めるよう指示しておけ。平手殿にも声をかけい!」
彦七郎は平手政秀、滝川一益と共にすぐさま信長のもとへ向かった。信長はすでに一報を掴んでいたのか、小具足姿で地図を広げている。周囲では側近たちが慌ただしく走り回っていた。
「兄上。報せは聞きました。清洲勢の奇襲、早急に叩かねばなりませぬな」
「彦七か。見ての通りだ。明朝、夜明けと共に撃って出る」
「兄上。この戦、私が『腹』を支えます。今から津島へ行き、商人を動かして兵糧の工面と、戦後の炊き出しの段取りを整えて参りましょう。空腹では士気が保てませぬ」
信長は、初めて弟の顔をまじまじと見た。不敵な笑みがその口元に浮かぶ。
「……ほう。戦う前から勝った後の飯の心配か。負け戦になったら、その握り飯が最後のご馳走になるぞ?」
「勝つための兵站です。兄上は、後ろを気にせず、前だけを見て槍を振るってください。……それから兄上、決戦の地はどこに?」
「……そうだな、萱津原あたりか」
「承知! ではその辺りで商人どもに中食を用意させましょう。この暑さです、飲み物と塩も十分に持たせます」
そう言い残すと、彦七郎は一益を伴って疾風のごとく城を飛び出した。
馬を飛ばして辿り着いた、織田家の経済的生命線・津島。
有力商人たちが集まる会合所に、滝川一益と彦七郎が足を踏み入れた。
商人たちは、泥のついた旅装束の一益と、その横に立つ幼い彦七郎を不審げに見つめる。一益はあえて柄の悪い笑みを浮かべ、ドカリと上座に近い位置に腰を下ろした。
「……さて、旦那衆。挨拶抜きで本題といこうじゃねぇか」
一益が凄みを利かせ、清洲勢の奇襲と、明朝の信長出陣を淡々と告げる。
「明日の昼までに、握り飯二千人分。それに水瓶と梅干し、塩、薪……それら一式を萱津原まで運んでもらう。……それも、今すぐ取り掛かってもらいてぇ」
商人たちの間にざわめきが広がる。
「一益様、それは無理な相談です。二千人分を今から、しかも戦場まで運べなどと……。誰がその代金を払うのですか?」
「そうですよ。負ければすべて無駄になる。我らも商売、確かな保証がなければ……」
商人たちが「これだから武士は」と言いたげな顔で難色を示し始めたその時。
それまで一益の横で静かに控えていた彦七郎が、一歩前へ出た。
八歳の少年の澄んだ、しかし底知れぬ深さを持った瞳が商人たちを射抜く。
「……保証なら、この俺がしよう」
幼子の声とは思えぬ響きに、商人たちが一瞬口を閉ざす。彦七郎は商人一人一人の顔をゆっくりと見渡し、静かに、しかし断定的に告げた。
「この度の戦に勝てば、尾張下四郡の覇権は我が弾正忠家が握る。――この意味、商人のお主たちならわかるな?」
商人たちの顔色が、一瞬で変わった。
下四郡の覇権。それは、清洲の「守護代」という権威が消え、信長が名実ともに尾張半国の主となることを意味する。流通の壁がなくなり、新たな秩序が生まれる。その「勝ち馬」に今、握り飯一つで乗れるというのか。
「……これは買い上げではない。織田の未来への『投資』だ。乗るか、それとも清洲と共に朽ちるか。今、ここで決めろ」
沈黙が流れる。一益が横でニヤリと口角を上げた。
やがて、一番の老商人が深く頭を下げた。
「……承知いたしました。若君の仰せ、確かに。……野郎ども! すぐに釜を上げろ! 蔵を開け! 刻限までに萱津へ届けるぞ!」
怒涛のような勢いで動き出す商人たち。
その様子を見届けながら、一益は彦七郎の耳元で囁いた。
「……殿、お見事。あっしも、あのジジイ共のあんな青い顔、初めて見ましたぜ」
「一益、褒めるのは勝ってからだ。……行くぞ、那古野へ戻る」
翌朝、まだ夜も明けきらぬ払暁。
那古野城の門が開き、信長率いる軍勢が朝靄を切り裂いて出陣した。
同時に、末森城の織田信行方も急ぎ兵を出していた。叔父・信次を見殺しにすれば、「弾正忠家の嫡流」としての面目が立たず、一族の支持を失うからだ。信行方の総大将として送り出されたのは、家中きっての猛将、柴田勝家であった。
戦域を領有する織田秀敏の稲葉地城にて、信長軍、信光軍、そして信行方の柴田勝家が合流した。
軍議の席。勝家は驚愕に目を見開いた。
そこにいたのは、奇矯な格好をした「うつけ」ではない。地図を鋭く指し示し、澱みなく策を命じる一人の「指揮官」であった。
「敵は清洲城から必ず後詰を出す。二手に分かれるぞ。秀敏は松葉口へ。わしと叔父貴、それに柴田は清洲口へ向かう」
信長は平然と言い放った。
「まずは清洲口から派手に焼働きを行え。煙を上げれば、坂井大膳らは焦って清洲城から出てくる。そこを街道沿いの萱津にて野戦で叩き潰す――『後詰め決戦』だ」
勝家は、自らの主である信行の顔を思い浮かべた。
(信行様なら、今頃重臣たちの顔色を伺い、妥協点を探して議論を空転させているだろう……。だが、この男は何だ。この迷いのなさは、一体……)
勝家の胸に、得体の知れない不安と、それ以上の期待が入り混じった。
作戦は冷徹に進んだ。清洲口に到達するまでの焼働きにより上がる猛煙を見て、清洲城から坂井甚介、河尻与一率いる精鋭が出陣してきた。
八月の炎天下。両軍は萱津の地で正面から激突した。
ここで清洲勢を驚かせたのは、信長が配備した「三間半の長槍」であった。密集した槍の壁は、清洲方の騎馬武者を寄せ付けず、一方的に叩きのめしていく。
「退くな! 突き伏せよ!」
信長の咆哮が響く中、初陣の前田利家が敵陣へ一番槍を叩き込み、戦果を挙げる。
混乱する敵軍の隙を突き、下方貞清が一騎打ちにて河尻与一を突き伏せ首を得る。
勝家もまた猛牛のごとく突き進んだ。中条家忠と二人がかりで、清洲方の武将・坂井甚介を討ち取る。大将を失った清洲勢は総崩れとなり、五十余騎が討ち取られる大敗を喫した。
激戦が一段落したその時。
血と泥、そして猛烈な渇きに喘ぐ将兵たちの前に、不思議な光景が現れた。
戦場のすぐ後方に、津島の商人たちが引く荷車が次々と到着したのだ。
「御舎弟、彦七郎様のご手配だ! 皆、これを食え!」
そこには、一益が指揮する者たちが、彦七郎の指示通りに用意した「塩の効いた握り飯」と、「冷たい水瓶」があった。
「……水だ。水が五臓六腑に染みる……」
勝家もまた、具足を脱ぎ捨て、差し出された握り飯を頬張った。
この酷暑の中での激戦。水と塩分がなければ、戦を続けるのは危うかっただろう。勝家は、自分の喉を潤す水の冷たさに、織田の新しい時代の到来を確信していた。
勢いに乗った信長・信光軍は、そのまま松葉城と深田城へ迫った。後詰め軍が敗走したことを知った城兵たちは戦意を喪失し、即座に降伏。
信長はさらに清洲城の間近まで押し寄せ、見せつけるように刈田狼藉を行った。挑発されても、清洲勢はもはや城門を開ける度胸すらなかった。
夕暮れ。織田軍は夕日に向かって高らかに勝ち鬨を上げ、那古野城へと帰還した。
城門では、八歳の彦七郎が、炊き出しの煙に巻かれながら、不敵に笑う兄を迎えていた。




