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「是非もなし……」
その一言は、火の粉が舞い上がる小木江城の本丸に、虚しく、しかし重く響いた。
織田彦七郎信興は、むせ返るような煙の中で、己の運命を呪うことすら忘れていた。長島願証寺の一向一揆勢が、怒涛の如く押し寄せてきたのは、あまりに急な出来事であった。兄・信長より伊勢長島へのくさびとしてこの城の守備を任され、「何があってもここを死守し、一揆を抑え込め」と厳命されていたにもかかわらずである。
押し寄せる一揆勢を前に、防戦は限界に達していた。兄が援軍を差し向けるまでの時間を稼ぐことすら叶わなかった。そのことが、信興の心に癒えぬ傷を残す。兄の期待を裏切り、織田の名に泥を塗ったという自責の念、忸怩たる思い。それらが刃のように彼の心を削り続けていた。
しかし、先ほどの一言で信興の心境に変化が訪れた。今まで抱いていた申し訳なさも、深い無念も、そして血を吐くような後悔も、激しい炎に焼かれ、やがて透き通った諦観へと昇華されていったのである。
外では、信興の最期の時を稼ぐため、生き残った僅かな手勢が、絶望的な死闘を繰り広げている。もはや、彼の死を見届け、介錯の任を果たせる者は一人もいなかった。
信興は、ただ独りであった。
パチパチと柱の爆ぜる音だけが響く中、彼は心静かに刀を抜き、自らの腹へと突き立てた。一文字に引き裂く苦痛。それに耐え、返す刀で喉にある血脈を迷いなく断った。
噴き出した鮮血が畳を汚し、視界が急速に色を失っていく。
薄れゆく意識の底で、かつて共に笑い、野を駆けた日々が、走馬灯のように次々と駆け巡った。戦場で共に血を流した仲間たちの顔、そして何より、厳しくも弟を想ってくれた兄との別れ…温かな記憶の一つ一つを、信興は噛みしめるように反芻した。
だが、その愛おしい記憶さえも、猛火の中に溶け、城と共に灰へと帰していく。
彼の思考は、熱を帯びた夜風に吹かれ、霧散していった。
―はずだった。
「ぶはぁっ! ……はぁ、はぁっ、はぁ……っ、兄上!?」
肺が焼けるような飢餓感に襲われ、彦七郎は激しく咳き込みながら上体を起こした。
切腹したはずの腹に手をやるが、そこには裂傷もなければ、温かい血の感触もない。ただ、内側からジンジンと痺れるような、鈍い熱だけが残っていた。
困惑し、きょろきょろと周囲を見渡す。視界に飛び込んできたのは、赤々と燃える小木江城の地獄絵図ではなかった。
そこは、どこかの古びた堂であった。天井には蜘蛛の巣が張り、雨漏りの跡が黒ずんでいる。正面には、長い年月の果てに首が折れ、苔むした不気味な石仏が鎮座していた。
何より彦七郎を驚かせたのは、自分の左右で無防備に寝息を立てている二人の童の姿だった。
「いい夢は見れたかな?」
背筋に氷を押し当てられたような冷たい声がした。
人の気配など微塵もなかったはずだ。信興は弾かれたように声の主を睨みつけた。
「誰だ……っ!」
暗がりに佇んでいたのは、僧のような格好をした一人の若い男だった。
この場にそぐわぬ、涼やかで得体の知れない笑みを浮かべている。
「クックック……驚いたね。でも、いい目をしている。死線を越えてきた者にしか宿らない、鋭い眼光だ」
男は優雅に一歩前へ出ると、どこからともなく取り出した扇子を弄んだ。
「私はね、『驚き』を求めて諸国を歩く、ただの旅人さ。昼間は雲の形を変えて遊び、夜は誰かの夢の中にこっそりお邪魔して、その魂を覗き見る。名前かい? そうだね……『果心』とでも呼んでおくれ。まあ、明日の朝、お日様が昇る頃には忘れてしまって構わないような名だよ」
果心と名乗った男は、ふと思いついたように懐から小さな植物の種を取り出した。
彼がその種を空中に放り、手にした扇子でふわりと仰ぐ。
彦七郎が目を疑ったのは、その直後だった。
種は宙で静止したかと思うと、瞬く間に芽を吹き、茎を伸ばし、大蛇のようにのたうち回りながら成長したのである。そして、見る間に緑の葉を茂らせたかと思うと、そこには芳醇な香りを放つ、見事な桃が一つ実った。
現実離れした術を前に、彦七郎が言葉を失って固まっていると、果心はニヤリと唇を吊り上げ、その桃を差し出してきた。
「お近づきの印だ。この桃は、魂の渇きを癒やすと言われている。はい、どうぞ」
だが、彦七郎は差し出された果実を本能的に拒絶した。この男が放つ空気が、あまりにこの世のものとは思えなかったからだ。彼はプルプルと首を振り、無意識に後ずさった。
「あらら、美味しいのに。せっかくの好意を無下にするなんて」
果心が桃にふっと息を吹きかける。すると、先ほどまでの植物も桃も、一瞬にして紫色の煙となり、夜の闇に吸い込まれて消えてしまった。
彦七郎はようやく我に返り、震える声で問いかけた。
「……貴様、何者だ。なぜ、俺はここにいる。俺は確かに、小木江城で腹を切り、果てたはずだ。ここはどこだ、あの城ではないことだけはわかるが」
「ほう、やはりキミは、今見た『夢』を覚えているんだね」
果心は興味深そうに目を細め、ブツブツと独り言を漏らし始めた。
「面白い。実に面白い。私はね、歴史の観測者でもあるんだよ。今、この確固たる歴史の流れに、キミという『異物』がポツンと現れた。さて、歴史はキミという不純物を排除しようとするのか、それともキミを受け入れて、まったく新しい物語へと生まれ変わるのか……死ぬ間際に即死だったか、それとも未練を残したか、その差がこの『歪み』を生んだのかな……」
男が何を言っているのか、彦七郎にはその半分も理解できなかった。
彼は独り言を続ける果心を無視し、隣で眠る二人の童を改めて注視した。
薄暗かった堂内に月明かりが差し込み、二人の顔が露わになる。
一人は八郎信照、もう一人は半左衛門秀成。
それは、紛れもなく彦七郎の同い年の弟たちであった。しかし、信興の記憶にある彼らよりも、その身体はずっと小さく、幼い。
……いや、彼らだけではない。
弟たちに触れようとした自分自身の手を見た彦七郎は、絶句した。
その手は、かつて重い槍を振るい、血に塗れた無骨な武士の手ではない。
白く、小さく、柔らかな、まだ何の色にも染まっていない、幼き日の自分の手であった。
「お主の後、二、三年後には死んだのだろう。あちらの小僧はもうすぐ起きそうだ」
自身の姿に驚いていると、果心は、傍らで眠る秀成を顎で示した。
見れば、秀成の眉がぴくりと動き、閉じたまぶたの下で眼球が忙しなく動いている。小さな唇が「……ん、……」とかすかに震えた。
彦七郎の胸が締め付けられる。自分の死からわずか数年。自分を助けようとしてくれた、あの実直な弟もまた、一揆の炎か、あるいは別の戦場で命を落としたのか…
彦七郎は、自分の後すぐに死ぬことになるであろう弟を見たまま、震える声で問いかけた。その喉元には、先ほどまで感じていた刃の冷たさと、噴き出す血の熱さが、いまだ幻影のようにこびり付いている。
「……なぁ。あれは……あの炎と絶望は、いつか本当に起きることなのか?」
その問いは、己の運命への恐怖というよりは、これから歩む道への戦慄に近かった。もしあれが現実になるのだとすれば、自分は再び、あの地獄のような落日の城へ向かって歩んでいることになる。
果心は、手にした扇子をパサリと閉じると、口角を吊り上げて彦七郎を覗き込んだ。その瞳の奥には、星々を映したような底知れない闇がある。
「さぁ、どうかな? キミの兄上が好んで舞うというだろう? ――人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、と」
果心は、まるで歌を詠むかのように軽やかに言葉を紡ぐ。
「果たしてキミが見たものが、これから訪れる『現』なのか。それとも、露と消えるはずだった男が最後に見た『幻』に過ぎないのか……それは私にも、歴史という巨大な奔流にも分からないことさ。ただ、一つだけ確かなことがある」
果心は不意に表情を消し、冷徹なまでの静寂を纏って言い放った。
「悔いなきよう生きたもの勝ちだ、ということだね。キミには今、一度は終わった物語の『やりなおし』が与えられた。それをどう使い潰すかは、キミ次第だよ。」
突き放すような、それでいて何かを期待するような言葉を残し、果心は再び薄笑いを浮かべた。彦七郎はその言葉を咀嚼しようとするが、脳裏にはあの燃え盛る小木江城の光景が、消えない火種のように赤々と残り続けていた。
「ああ、そうそう、好きに生きた男がいたねぇ。尾張の虎、織田信秀。……この地へは物珍しい虎見物に来たのだがね。既に死相が出て、魂は半分あちら側に浸かっていたよ。もはや、ただの枯れ木だ。がっかりだよ」
果心はふわりと立ち上がると、首のない仏像の肩に飛び乗った。
「がっかりした代わりにお前達に夢を見せてみた。戯れさ……キミは特に面白い相をしていたからね。特別に、その続きを考えさせてやる時間をやったのだよ」
「待て! まだ聞きたいことが――」
「説明は面倒だ、私は次へ行く。……言っただろう? 私は驚きを集める旅人だと。キミたちがこれから、どれほど歴史を書き換え、私を驚かせてくれるか……遠くから視ているよ、お前たちの『活躍』をね」
果心の姿が陽炎のように歪んだかと思うと、一匹の鼠に変わった。
同時に、天井の穴から一羽の鷹が鋭い鳴き声と共に急降下し、鼠を掴んで夜空へと舞い上がった。
「クックック、さらばだ、異物の小僧!」
静寂が戻った古寺に、冷たい風が吹き込む。
その時、半左衛門が「う、うーん……」と大きく伸びをし、ゆっくりと目を開けた。寝ぼけ眼で辺りを見回し、最後に彦七郎と目が合う。
「……あれ、彦七? ここ、どこだっけ? ……なんだか、すっごく怖い夢を見た気がするけど……。あ、ええと……忘れちゃった」
無垢な半左衛門の言葉に、彦七郎は奥歯を噛みしめた。
忘れてしまった半左衛門。絶望に飲み込まれたまま、まだ目を覚まさない八郎。
そして、二十年分の後悔を小さな体に詰め込まれた自分。
「……是非もなし、か」
彦七郎は、かつて絶望と共に吐き捨てた言葉を、今度は別の決意を込めて呟いた。
もし果心の言った通り、自分という『異物』がこの歴史に放り込まれたのだとしたら。
彦七郎は小さく、しかし確かな力強さを持った拳を握りしめる。柔らかい子供の肌の感触。だが、その胸に宿る執念は、一度死を経験した武将そのものであった。
(今度こそ……今度こそ、へまはせぬ)
脳裏にこびりついて離れないのは、己の力不足ゆえに古木江城を灰にし、兄の天下布武の足を引っ張ってしまったという痛恨の記憶だ。
幼き彦七郎の瞳に、かつて戦を重ねたな武将の鋭い光が宿った。
歴史の歯車が、本来の音とは違う、歪で力強い音を立てて回り始めた。
「帰るぞ、半左衛門。八郎をあの戸板で運ぼう。……父上のところへ行くんだ」




