05.アドルフの困惑
ミネルヴァの父――ヴァイゼン侯爵はアドルフにとって恩人だった。
アドルフは王位継承権を持つ王族だが、軍人としての道を選んだ。
社交は得意ではなかったが、腕っ節には自信があったのが理由だ。
辺境の地では魔獣が出る。山奥から人間の住む平地へと降りて来るのだ。
軍の目的はその魔獣を狩り、人間の住む場所を守ることにあった。
ヴァイゼン侯爵は一年のほとんどを辺境の地で暮らす。
彼は軍にとって要の存在だ。
初めての戦場に出た日。アドルフは少しばかり無茶をした。
彼の存在がなければ、アドルフは既に土の下で眠っていただろう。
そんな彼はアドルフにとって第二の父のような存在だ。
特別扱いを嫌うアドルフを、他の新人と同じように扱ってくれた人でもあった。
娘のミネルヴァよりも、アドルフのほうが彼と長い時間過ごしている自信がある。
彼は酒を飲むと、いつもミネルヴァの話をしていた。
『母親に似て素直で可愛い娘なんだ。いい結婚相手を見つけてやりたいんだがなぁ』
『ヴァイゼン侯爵のお嬢さんなら、引く手あまたでしょう?』
『少し人見知りのようで、なかなかいい相手はいないらしい』
あの傷だらけの厳つい顔にくしゃりと皺を寄せて話すのだ。
ある日のことだ。
魔獣討伐の途中でヴァイゼン侯爵が怪我をした。
大した怪我ではない。腕を折る程度の怪我だ。腕を一本なくして田舎に帰る軍人も多い中では、可愛い部類に入る。
しかし、敵なしの彼には大きな衝撃だったのだろう。
見舞いに行ったアドルフにヴァイゼン侯爵は深々と頭を下げた。
『娘をもらってくれないか?』
『侯爵、突然どうしたんですか? 頭を上げてください』
『私はいつ死んでもおかしくはない。その前に娘を任せられる男を見つけておきたいと思ったんだ』
『だったら、もっと安全な場所にいる男のほうがいいでしょう?』
いつ死んでもおかしくはない身なのは、アドルフも一緒だ。
軍人として彼とともに戦っているのだから。
しかし、彼は頭を横に振った。
『大切な娘を王都のひ弱な男には任せておけん。だが、アドルフ。君なら……。いや、アドルフ殿下、どうか娘を頼めないでしょうか?』
『侯爵……』
父のように慕った男の頼みだ。
簡単に断れるわけがない。
何より、ミネルヴァに興味があった。
アドルフはヴァイゼン侯爵ほど、長く辺境の地に滞在しているわけではない。
一年のうちの四分の一、季節一つ分程度だ。しかし、社交嫌いが祟ってミネルヴァに直接会ったことはなかった。
アドルフは王族ではあるが、王位継承権の順位は低い。
その上次男で自由の身だ。結婚を急かされることもなかった。
貴族や王族の結婚など、ほとんどが政略結婚だ。アドルフ自身、恋に憧れるタイプでもない。
だから、つい頷いてしまったのだ。
『わかりました。お嬢さんがいいと言ったら、話を引き受けます』
ミネルヴァは王都で暮らす令嬢だ。
恋愛の一つや二つしていてもおかしくはない。
離れて暮らす父親が本当のことを知らない可能性もある。
たった半年の期間でトントン拍子に結婚までいったのは、アドルフも予想だにしなかったのだが。
ミネルヴァに会ったのは、顔合わせのときだ。
第一印象は「小さい」だった。並べたわけではないが、同じ年齢の令嬢よりも小さく感じる。
そんな彼女は多いな目を大きく開き、アドルフをジッと見上げていた。
猫のような丸々とした、けれど意志のある目だ。
(昔飼ったいた猫に似ているな)
名前は何だったか。思い出せない。
兄にばかり懐き、アドルフには一度も触らせないようなつれない猫だった。
いつか撫でたいと思っていたが、最後まで撫でさせてはくれなかったのを覚えている。
ヴァイゼン侯爵が「人見知り」というように、彼女の口数は少ない。
「はい」と「いいえ」そればかりだ。
緊張しているのだろうと思った。
アドルフだって緊張している。
大した覚悟もせずに決まった結婚だ。
それはミネルヴァも同じだろう。父親が持ってきた結婚だ。
無口になるのはお互いさまだろう。
顔合わせを済ませれば、あれよあれよと言う間に結婚式まで行ってしまった。
ヴァイゼン侯爵家と王族の力があれば、準備は一瞬なのだろう。目眩がするほど豪華な結婚式だったと思う。
結婚式のあとに行われた祝いのパーティーで、アドルフはミネルヴァに手を差し出した。
それは、社交嫌いのアドルフにとっては勇気のいる行為だ。
『ミネルヴァ、一曲どうだろうか?』
『気分ではないので、お断りします』
ミネルヴァはアドルフに素っ気なく返した。
初めは彼女が何を言っているのか、わからなかったほどだ。
差し出した手に彼女の手が乗ることはなかった。
どれほど落胆しただろうか。
甘い結婚生活を夢見ていたわけではない。
しかし、恩人の愛娘だ。仲よくできればと思っていた。
冷たくなる右手を見ながら、アドルフは「ビジネスライクな関係を築こう」と決めたのだ。
◇◇◇
アドルフは調査書を眺めながら、怒濤の半年間を思い出し、ため息をついた。
「『ダンスは基本的にお断り』か」
(自分だけではなかったと喜ぶべきか)
アドルフは苦笑を浮かべる。
恩人であるヴァイゼン侯爵が安心できれば、じゅうぶんではないか。
しかし、だからと言ってこのままにしていいわけがない。使用人たちも困っている。
そして「料理を一口ずつしか食べない」という彼女の抗議が長く続けば、彼女の身体にも問題が生じるだろう。
彼女は恩人の娘だ。彼女が倒れれば、ヴァイゼン侯爵に顔向けができない。
きっと、何か理由があるはずだ。
(一度きちんと話すべきだな)
アドルフは静かに立ち上がった。
ミネルヴァの部屋につくと、部屋の扉がわずかに空いていた。
扉を叩いて存在を知らせるのがいいのはわかっている。しかし、一人のときの彼女がどんなふうに過ごしているのか興味が沸いたのだ。
いつもあのつまらなさそうな顔でいるのだろうか。
アドルフはそっと部屋の中を覗いた。
(何をしているんだ……?)
ミネルヴァは窓辺の席に座っていた。
分厚い本を胸に抱いている。サリの報告でこの時間はほとんど読書をしているということは聞いてる。
しかし、彼女の視線はその分厚い本ではなく、真っ直ぐテーブルに向かっているのだ。
テーブルの上に置かれているのは紅茶とスイーツだ。
わずかに感じる甘い香り。
サリが用意した物に違いない。
(昨日はクッキー。今日はなんだ?)
皿に載っているせいか、アドルフの場所からは何かまではわからない。
しかし、彼女はまっすぐテーブルを睨みつけたまま動かなかった。
(一口食べ終えたところで突入するか)
話し合うにもタイミングが重要だ。
アドルフはジッと待った。
しかし、彼女は一向にスイーツに手をつけない。
どのくらいの時間彼女はテーブルを睨みつけていただろうか。
まるで親の仇にでも会ったような表情だ。唇を噛みしめ、眉間に皺を寄せている。
苦渋の決断でも迫られている顔に、アドルフの表情まで険しくなる。
彼女は小さく頷くと、そっと皿に手を伸ばした。手に掴んだスイーツをそのまま口へと運ぶ。
クッキーに似た色の菓子だ。
彼女はそれをかじると、大きな目をこれでもかというほど見開く。
「んんん~っ! おいしい……!」
ミネルヴァは小さな悲鳴のような声を上げると、全身を揺らした。彼女の長いスカートが揺れる。
彼女は瞳を潤ませたまま、咀嚼を繰り返す。
アドルフは幸せに浸る彼女の顔から、目が離せなかった。
上気した頬を両手で押さえる。
すると、彼女の手から離れた分厚い本が床に転がった。
ドスッと、低い音を立てる。
「あ……!」
ミネルヴァは慌てて手を伸ばす。――その瞬間だ。
アドルフはミネルヴァと目が合ってしまった。




