29.継母の日記
ミネルヴァは目を見開いた。
「このままではあなたはダメになる。私がもっといい相手を見つけてあげるわ」
肩が痛い。
けれど、その痛みよりも胸のほうが痛かった。
「いやです」
ミネルヴァは消え入るような声で言った。そして、唇を噛みしめる。
アドルフと離婚などしたくない。彼の笑顔の側が一番幸せだと感じる。
彼の側に。ずっと、ずっと側にいたいのだ。
ミネルヴァは頭を横に振った。
「いやです!」
二度目は叫ぶように言った。
ミネルヴァの声に継母は目を丸くする。
「アドルフさまの側にいられるなら、完璧じゃなくてもいいです」
「何を言っているの!?」
「笑われてもいいです。おかあさまにもっと嫌われてもいいです。だから、離婚はしません」
今まで、ミネルヴァが許されていた言葉は「はい。おかあさま」だったような気がする。
そう強要されていたわけではないが、それ以外は許されない雰囲気があった。
継母の言葉がすべてで、間違いなどあるはずがないと。
けれど、今ならわかる。
もっと、ミネルヴァは自由であっていい。ドレスもスケジュールも、全部自分で決めていいのだ。
ミネルヴァは継母を見上げた。
「おかあさまが私をきらっているのは知っています」
ミネルヴァはドレスのスカートを握りしめる。
ああ、また皺ができた。せっかくアドルフが選んでくれたドレスなのに。
「何を……言っているの? 私はあなたのことを実の娘のように思っているのよ?」
「……日記を読みました」
ミネルヴァの言葉に継母は眉根を寄せた。
日記の中を思い出して、ミネルヴァはさらに強くドレスを握りしめる。
◇◇◇
それは少し前。
アドルフと二人でヴァイゼン侯爵家の屋敷を訪問した次の日のことだ。
アドルフから差し出された日記は、継母が綴った古い日記だ。
彼女の部屋の引き出しの奥から出てきたのだという。
ミネルヴァはアドルフの隣で、その日記を開いた。
『あの子が憎い。なぜ、侯爵様の夫があの子で、私はただの侍女なの?』
あの子――これはミネルヴァの実母のことだろう。
幼いころに聞いたことがある。ミネルヴァの実母と継母は従姉妹で、継母は侍女としてヴァイゼン侯爵家に来たのだと。
日記は何ページにも渡り、『あの子』への恨み言が綴られていた。
『あの子さえ、いなければ私が侯爵夫人だったはず』
『そこに座るのはあの子ではない』
『本当なら私が彼の子を生むはずだった』
日記の字は次第に乱暴になっていく。それが、継母の心情を物語っているようで、おそろしかった。
何度も目を逸らしたくなったけれど、目を逸らすこともできない。
ここに書かれていることは、ミネルヴァの実母のこと。そして、まだ幼いミネルヴァのことだからだ。
『ああ……! 神様。ようやく私の願いを聞いてくれたのね』
『娘もあの子によく似ている。彼に似ていれば、愛せるのに。あの笑っている顔がきらい』
『捨ててしまいたいけれど、彼は娘を溺愛している』
実母が亡くなり、継母が侯爵夫人になった日。そして、娘としてミネルヴァを育て始めた日々。
継母の言葉一つ一つがミネルヴァの胸に突き刺さった。
ミネルヴァは日記を閉じ、胸を押さえる。
「おかあさまは私のことが、きらい……なのですね」
アドルフが難しい顔で頷いた。
ミネルヴァはにへらと笑う。いつもは笑わないように気をつけているのに、今は笑わないといけない気がした。
「平気です」
「平気なわけがないだろう? ずっと信じていた人だろう?」
「はい。ずっと、信じていました」
ミネルヴァのことをずっと考えてくれている優しい人だと思っていた。
「おかあさまは意地悪で、私に昔の教えを教えてくれていたのでしょうか?」
「おそらく」
「私の笑顔がきらいだから、笑わないように教えていたのですね」
ミネルヴァは眉尻を下げた。
信じていたものが全部手からこぼれていく。胸がぽっかりと空いたような気分だった。
アドルフがミネルヴァの頭を胸に抱き込む。
目の前が真っ暗になった。
アドルフの心音だけが聞こえる。
「私はおかあさまが好きでした」
「ああ」
「おかあさまの期待に応えたいと思っていました」
「そうだな。そのために頑張ってきたんだな」
「はい。でも、間違いだったんですね」
頑張っても継母はミネルヴァのことを愛してくれることはないだろう。
だって、ミネルヴァは継母の大嫌いな『あの子』の娘だから。
実母のことはほとんど覚えていない。ミネルヴァが物心つく前に病気で亡くなってしまったからだ。
だから、ミネルヴァにとって母親とは継母のことだった。けれど、継母にとってミネルヴァは憎い『あの子』の娘でしかなかったのだろう。
「難しいです」
「何がだ?」
「どうしていいかわかりません。悲しいのか、怒っているのかもわからないんです」
傷ついていないと言ったら嘘になる。
しかし、なんとなく心の奥底では気づいていたのかもしれない。
シュダルン公爵家に来てからだ。継母の教えがまったくうまく回らなくなってから。
その教えが、二百年以上も前の古いものだと知ってから。そして、シュダルン公爵家のみんなの、アドルフの優しさに触れてからだろう。
継母にきらわれているという事実を信じたくなくて、ずっと蓋をしていたのだ。
アドルフが乱暴にミネルヴァの頭を撫でる。
「全部したらいい。悲しんで、怒って。それから考えよう。ミネルヴァの未来を」
「私の未来?」
「ああ。『おかあさま』はもう他人だ。もう、君はうちの人間だろう?」
アドルフの言葉にミネルヴァは小さく頷いた。
その日、ミネルヴァはアドルフとたくさん話をした。幼いころの話、継母との思い出。
そのすべてが、継母から嫌われていることの確認になってしまうことがつらかった。
けれど、向き合わなければならないこともわかっている。
最後まで悲しんでいいのか、怒っていいのかわからなかった。
◇◇◇
ミネルヴァはゆっくりと息を吐く。そして、継母を見上げた。
「おかあさま。私はもうシュダルン公爵家の人間です。もう、ここには戻らないです」
この先はずっと、アドルフの側にいる。そう決めたのだ。
日記を読んで、継母の気持ちは理解した。まだ、彼女を嫌いになりきれてはいない。
けれど、アドルフが言っていたのだ。
『雛はそういうものだ。母親を嫌いになれない。だから、悩む必要はない』
その言葉を信じてみようと思う。
継母は小さくため息をついた。
「本当に……いやな子ね」
継母の顔が歪む。
「最近は本当に母親によく似てきたわ。その目、大きらい」
「きらわれてもいいです。今日はおかあさまにお別れを言いに来ただけですから」
ミネルヴァは深く頭を下げる。しかし、継母は許してはくれなかった。
「誰かっ! ミネルヴァを反省室に閉じ込めておきなさい!」
継母が大きな声で使用人を呼ぶ。
呼ばれてすぐ、男が二人現れた。ミネルヴァが逃げるよりも早く、男たちがミネルヴァを取り押さえる。
「離してくださいっ! 私は帰ります!」
「何を言っているの。帰るお家はここでしょう?」
継母が満面の笑みを見せた。
彼女はミネルヴァの頬を撫でる。長い爪が顎先にあたった。
「本当は自ら帰ってきてほしかったのよ? すぐに捨てられるかと思ったのに、残念だったわ」
「アドルフさまはそんなことしません」
「そうね。それもこれもあなたがちゃんと教えを守らないからでしょう?」
彼女の冷たい目に、ミネルヴァの背筋が凍った。
いつもの優しい笑みではない。
「公爵夫人? あんな古い教えしか知らないあなたが務まると思う?」
「これから頑張って覚えます」
「本を半分も覚えられなかったあなたが、新しいことを覚えられるのかしら?」
ミネルヴァは唇を噛みしめた。
「安心なさい。もっと楽な場所に嫁がせてあげる」
継母はミネルヴァの頭を撫でる。優しい母の手つきだ。しかし、アドルフとは全然違う。
彼女の手を振りほどきたかったけれど、男たちに両腕を押さえられていて身動きが取れなかった。
ミネルヴァの力では男はびくともしないのだ。
「あなたの夫はもう決めていたの。とても素敵な方よ。少し年は召しているけれど、孫のように可愛がってくれるに違いないわ」
「いりません。私にはアドルフさまがいます」
ミネルヴァは叫ぶように言った。しかし、継母にはあまり響かなかったようだ。
彼女は小さくため息をつくだけだった。
「さあ、離婚が決まるまで部屋で待っていないさい。早く連れて行って。うるさいようなら、口を塞いでもいいわ」
継母は低い声で男たちに指示を出す。
男たちは強い力でミネルヴァを持ち上げた。一人がミネルヴァの口を塞ぐ。
「んーっ!」
足をバタつかせても、叫んでも彼らは動じない。
(離婚はいやよ)
アドルフの側にいたい。公爵夫人が大変でも構わない。ミネルヴァは涙目になりながら、頭を横に振った。
すると、部屋の外が騒がしくなる。複数の使用人たちの大きな声が聞こえたと思ったら、扉が乱暴に開いた。――アドルフだ。
「妻がこちらに来ていると聞いたが……何をしている?」
彼は男たちに抱えられたミネルヴァを見て目を細めた。




