28.恋とは、恋ですか?
お腹のあたりがざわめいて、ミネルヴァはドレスのスカートをギュッと握る。
せっかくアドルフが買ってくれた綺麗なドレスに、皺ができてしまった。
「恋、ですわね」
「恋」
ミネルヴァは目を瞬かせる。
「恋とは、恋ですか?」
「そうです。アドルフ殿下のことがお好きなのでしょう?」
「はい。好きです」
アドルフは優しい。
ミネルヴァだけではない。シュダルン公爵家のみんなに優しいのだ。
不器用なミネルヴァを受け入れてくれた。
たくさんのものをミネルヴァにくれる。
(恋……)
恋という言葉は知っている。
けれど、どういうものかはよくわかっていなかった。
『夫人の嗜み全集』には「政略結婚において、恋とは不要なもの」と書かれていたのを覚えている。
なぜ不要なのかわからなかった。
今ならわかる気がする。
アドルフの側にいるだけで、心臓が騒がしくなって何も手につかなくなるのだ。
公爵夫人としての仕事がままならくなるのだから、不要と言われてもしかたない。
「アドルフ殿下に恋をされているのですね」
「そうかもしれません。……どうしましょう?」
ミネルヴァが不安いっぱいに言うと、令嬢たちは不思議そうに首を傾げる。
「夫に恋をすることに何か問題がございますか?」
「仕事が手につきません。これでは迷惑をかけてしまいます」
この恋をどうにかしないと、ずっとアドルフに迷惑をかけ続けることになるのだろう。
ミネルヴァは肩を落とす。そんなミネルヴァを見た令嬢は、笑みを浮かべた。
「大丈夫です。ずっと続くわけではありません」
「本当ですか?」
「ですから、今はこのドキドキを楽しめばいいと思います」
「楽しむ……。難しいわ。でも……がんばります」
それはとても難しいことのように感じた。ミネルヴァに楽しむ余裕はない。
けれど、いつか消えるのであれば、それを待つしかないのだろう。
ミネルヴァがテーブルの下で小さく拳を作っていると、令嬢たちがズイッと顔を近づけてきた。
「そんなことよりも、どんなときにドキドキするのですか?」
「夫人は恋をするのは初めてですか?」
「アドルフ殿下は二人きりのとき――……」
令嬢たちがミネルヴァを囲む。質問攻めにあい、ミネルヴァは目を白黒させた。
しかし、悪い気はしない。彼女たちの目は宝石のようにキラキラと輝いていただからだ。
◇◆◇
今日のお茶会はミネルヴァにとって大収穫だった。
会場から出てもほわほわとした気持ちだ。ミネルヴァは胸に手を当てる。
(恋……)
まだ、自分が恋をしているという実感はない。
しかし、令嬢たちの話を聞くと、悪いことばかりではないということだ。
何より、彼女たちとアドルフの話をするのは楽しかった。まだまだ話していたい。そんな気持ちだ。
時間が来てがっかりしたほどだ。けれど、「またお話しましょう」の一言で、ミネルヴァの胸は幸福でいっぱいだった。
(お茶会ってこんなに楽しかったのね)
いつも紅茶を飲んでみんなの話に耳を傾けるだけ。
声をかけられたら、頷くか頭を横に振るか。
令嬢たちの話はいつも、内容がわからなくてつまらなかった。けれど、今日は違う。
(アドルフさまとみんなのおかげだわ)
ミネルヴァの知らないものをいっぱい教えてくれた。
アドルフやシュダルン公爵家のみんながいなければ、ミネルヴァはずっとお茶会の隅で紅茶を飲んで終わっていたのだろう。
ミネルヴァは手に持ったケーキの箱を見つめる。
(ザッハトルテ。アドルフさま、喜んでくれるかしら?)
帰りに、「二人で食べられるように」と二つも貰ってしまった。
ザッハトルテを食べて笑うアドルフを想像して、ミネルヴァは頬を緩めた。
しかし、会場を出てすぐミネルヴァを待っていたのは、サリともう一人――ヴァイゼン侯爵の使用人だった。
使用人はミネルヴァを見つけると、深々と頭を下げる。
「ミネルヴァお嬢さま、奥さまがお呼びです」
「おかあさまが?」
胸がトクンとはねる。
これは恋とは違う。あまりよくないものだとわかる。
すかさず、サリがミネルヴァとヴァイゼン侯爵の使用人のあいだに入った。
「おそれいりますが、奥さまはお疲れです。後日日程を調節させていただきます」
「ミネルヴァお嬢さま、奥さまは早くお嬢さまにお会いしてお伝えしないといけないことがあるとおっしゃいておりました」
使用人はサリの言葉など聞き入れず、まっすぐミネルヴァに向かって言う。
「奥さま、気にせず帰りましょう。日程は殿下とご相談してからでも問題ないと思います」
「お嬢さま、奥さまはお待ちです」
サリの提案を受けるべきか。それとも、使用人とともに継母に会いに行くべきか。
ミネルヴァはケーキの箱を見つめた。
(こわい。けれど、おかあさまからずっと逃げてはいられないわ)
あの日――継母の古い日記を読んだ日から考えていたことだ。
いつか、継母と話をしないといけないと。
「サリ。これを持って先に帰っていて」
「奥さま……。行くのであれば、私もついて行きます」
「私は大丈夫。それに、二人で行ったら、アドルフさまが心配するわ」
アドルフは心配性だ。
だから、ミネルヴァとサリが予定の時間になっても帰ってこなければ、たくさんの人を使って探すかもしれない。シュダルン公爵家のみんなに迷惑をかけるのはいやだった。
サリは眉尻を下げ、渋々頷く。
ミネルヴァは一人でヴァイゼン侯爵家の馬車に乗り込んだ。
◇◇◇
ミネルヴァはヴァイゼン侯爵家の扉を潜った。
実家に帰ってきたというのに、こんなに不安でいっぱいなのはどうしてだろう。
ミネルヴァはアドルフから貰ったケープを撫でる。
アドルフはすごい。ただのケープなのに、勇気づけられているような気分になる。
継母はミネルヴァを見ると、眉根を寄せた。
「なんて格好をしているの? そんなドレスを与えた覚えはないわ」
「これは、アドルフさまに買っていただきました」
ミネルヴァにとっては宝物のようなものだ。
まだ肩のスースーは慣れないし、少し気恥ずかしい。けれど、ずっと憧れていたドレスを着ていることはいやではなかった。
このケープもお気に入りだ。
「どうして私の言うことが聞けないの? あなたには誰にも負けない素晴らしい淑女になってもらいたいのに……」
継母が深いため息をつく。そして、ミネルヴァは肩を掴んだ。
強い力にミネルヴァは眉を寄せる。
「いい? アドルフ殿下はあなたを悪い道へと導いているわ」
「そん――」
「離婚なさい」
継母の強い声が部屋に響いた。




