ここに非ず
初めての短編です。
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――目が覚めた、はずだった。
冷たい地面。夜明け前のような薄闇。目を開けた男は、天井も壁もない、どこまでも果てのない街路にいた。
「……ここは……?」
見慣れない景色が広がっていた。左右には歪なビル群。ガラスはひび割れ、壁は煤けて黒ずみ、まるで戦後の廃墟のようだった。
見上げた空には、二つの太陽が浮かんでいる。 一つは巨大で歪んだ楕円、どこか溶けかけた飴玉のようにぐにゃぐにゃと揺れている。 もう一つは細く、鋭い光を放ち、血のような赤を瞬かせていた。
それなのに、辺りはまるで深夜のように暗く、街灯だけが赤黒い光を投げかけていた。
「夢だな、これは……夢だ……」
男は独りごちて、自分の頬を叩いた。ぺちっ、ぺちっ。感触はある。だが、痛みはない。
その瞬間、全身に鳥肌が立った。
どこかで靴音が響いた。カツン……カツン……乾いた音が、夜の路地裏のようにこだまする。
男はゆっくりと振り返る。
そこには、十字路の向こうから歩いてくる人影――顔のない男たち。
スーツ姿で、整ったシルエット。それなのに、顔には表情がない。というより、顔そのものが存在していない。 真っ白に塗り潰されたマネキンのような頭部が、闇の中で不気味に浮かんでいる。
最初は一人。すぐに三人。五人……七人。どんどん増えていく。どこまでも、限りなく。
男は本能的に逃げ出した。背中に、乾いた足音が追いかけてくる。
「目を覚ませ……目を覚ませ……!」
自分に言い聞かせるように叫びながら、男は無限に広がる街を走る。
角を曲がるたび、景色が変わっていく。
道路が途中で空に向かって折れ曲がり、ビルの側面にドアが取り付けられている。壁からは腕が生えており、道行く者に手を伸ばしていた。
電柱には、逆さまに吊るされた人形が何十体もぶら下がっている。その中の一体が、ふとこちらを見たような気がした。
血のような赤い水が排水口からあふれ、男の足元を濡らす。
「夢だろ……これは、ただの夢なんだろ……!」
心臓がバクバクと跳ね上がる。呼吸が浅くなる。
曲がり角をいくつも抜け、ようやく先に扉が見えた。
自分の部屋の玄関だ。そこだけがやけに現実的で、生活感が漂っていた。
「戻れる……!」
男は駆け寄り、扉を開ける。
だが、そこにあったのは――自分の死体だった。
服も、髪型も、同じ。だが、顔がない。血まみれの首元から、何か黒いものが蠢いていた。
背筋が凍った。逃げようと振り返ると、すぐ後ろまで顔のない男たちが迫ってきていた。
彼らは、こちらを見つめるように首を傾け――声もなく、口のない顔で、笑った。
そのとき、頭の中に声が響く。
『君は死んだ』
耳元で囁かれたような錯覚。寒気が背筋を走る。
男は目をギュッとつむり、叫んだ。
「――目を、覚ませッ!」
……目を開けると、そこは自室だった。
ワンルームの部屋。見慣れた天井。机の上には昨日読みかけた漫画が積まれている。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。いつもの朝。何もおかしいことはない。
「……夢、か……?」
息を吐く。汗が冷えてシャツに張り付いている。
夢の街も、顔のない男たちも消えていた。
男はベッドからゆっくりと起き上がり、足を床につける。
その瞬間――パキッ。
何かを踏んだ感触。見ると、画鋲だった。尖った銀の針が、深く足裏に突き刺さっている。
だが――痛みは、なかった。
男は一度目を伏せた。
そして、何も言わずに、画鋲を踏みつけたまま歩き出した。