79 俺、泣く
「婚約?」
その言葉を聞いて、俺はとっさに、何を言っているのか分からなかった。
いや、分かっていた。
分かってはいたが、理解するのを心が拒否していた。
「誰がですか?」
と訊き返す。
「ミーファだ。ミーファ・メル・デーゲンと、ゼルガ公爵五男のマリス様との婚約が、この度正式に決定した」
とバルドが立って腕組したま無表情で言う。
バルドの横には相変わらず図体のでかいルッソが身を縮めて控えている。
バルドの後ろで母マリエルが気まずそうなこわばった顔で視線を下に向けている。
その横でモンマルが口をぽかんと開けている。
「はあ…」
とだけ俺は答えた。
「正式発表は、ミーファの魔剣闘士の初試合の後になる。よって、この話はそれまで、口外してはならないぞ」
「はあ…」
「お前はあの女に執心していたようだが、元々縁が無かったのだ。あの女の事は諦めろ。あれを見つけてきたお前の功績を公爵様は高く買っている。このままお前が静かに大人しくしているなら、来年の成人の儀をもって、お前を嫡男に復帰さてもいいとおっしゃっている。良かったな。王都でのお前の評判はまだ最悪だが。評判が悪いのは俺も同じだ。そんなものは気にする必要は無い。噂などというものは、しょせんは弱者の娯楽にすぎん。次の娯楽が現れたら、過去の評判など皆すぐに忘れてしまうものだ」
「はあ…」
「用件はこれだけだ。くれぐれも馬鹿な真似はするなよ」
と念を押してバルドとルッソは部屋を出て行った。
「はあ…」
頭の中が真っ白になる。
母マリエルを見る。
母マリエルは俺と目を合わせない。
(本当なのだな…)
「ちょっと、出かけてきます…」
と言って、俺は部屋を出た。
「坊ちゃん…」
とモンマルが追いかけて来るのを手で制する。
「悪いが、独りになりたい。ついてこないでくれ」
と言って屋敷から徒歩で外に出る。
門のところに騎士学校崩れの護衛のメルクが立っていた。
こいつはモンマルが忙しいときや、俺がランス湖の別邸に行くときに護衛に付けている男だ。
「坊ちゃん、お出かけですか。俺、暇なんで、護衛がてら、ついて行っていいですか?」
と、軽薄な様子でへらへらしながら言う。
その顔を俺はじっと見返す。
「バルドから、俺の動向を見張るように言われたのか?いつまで、その軽薄な演技を続ける気だ?」
と、それに答える。
「えっ、見張る?演技って?」
「分かっているぞ。お前バルドの『耳』だろ」
「えー、何を言っているのか…」
「とぼけるな。お前本当は強いだろ。わざと弱い振りをしているな。俺も以前は分からなかったが、お前と剣を交わすうちに、違和感に気付いた。お前の剣は下手過ぎるんだ。まったく上達しないのは、やり過ぎだったな」
「えー、参ったな。…俺、お役御免ですか?」
「いや、お前には感謝している。ミーファの能力の事をバルドに黙っていてくれただろう。あれでかなり時間稼ぎが出来た。あれが無かったら、早くからミーファはバルドに利用されていたに違いない。助かったよ。お前の事は黙っているから、このまま『耳』を続ければいい。お前が居なくって、代わりに変な奴に入り込まれても面倒だ。それから、今、護衛は要らない。おれは今独りになりたいんだ。付いて来るなよ。心配しなくていい。ただ、散歩に行くだけだ」
冷静を装って、背筋を伸ばして、しっかりとした足取りで俺は屋鋪を離れる。
だが、俺の目の前の世界は、色を無くしてぐにゃぐにゃに歪んでいた。
膝から崩れそうになるのを、必死に堪える。
屋敷が見えなくなってから、流しの箱車を拾って、中洲の船着き場に向かう。
箱車の中で魔術具を使い、髪色をくすんだ赤毛に変える。
自分で船を出すのが面倒だったので、渡し場で割り増し料金を払って、直接俺の船家のデッキまで小舟を付けてもらった。
船家について、そのままデッキに倒れ込んだ。
川から生ぬるい風が吹いてくる。
「あー…、あー…。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だぁー…。」
何も考えられない。
こうなることは分かっていた。
分かっていたが、受け入れられない。
感情が全てを拒否する。
「もう、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、俺はクズだ、駄目だ、生きる価値も無い。死んじまえ、お前なんか死んじまえ。このクズめ。クソ野郎。お前が生きているだけで、みんなが迷惑するんだよ。何が魔術士修行だ。それで、何をしようと思っていたんだ。ミーファの為に強くなる?ふざけるな。お前なんかより、ずっと強く賢い人たちが既にミーファを支えているんだ。お前なんかとっくの昔にお役御免になっているんだよ。陰キャで不細工なモブ野郎がモテてる気になっていたのか?身の程をわきまえろ…」
ネガティブな感情が果てしなく込み上げて来る。
「ぐわー、ぐふふふふふぅー!あの糞馬鹿女!恩を忘れやがって!裏切り者が―!あっ、今の無し!みっともねー、とことん、みっともねーな!ほんとクズ野郎だ!俺、サイテーだ!ちくしょー!くそー!嫌いだ!大っ嫌いだー!」
自分が情けなくて、俺はデッキの床に自分の頭をがんがんぶつけた。
「……………」
ひとしきり爆発したら、もう叫ぶ気力も無くなった。
床に顔面を付けて、そのままじっと何時間も動かずにいた。
「なんでこうなった…」
顔を床に付けたままおれはずるずると這いずって、二階への階段に行く。
階段をそのままずるずると這いずって登る。二階に上がり、一番奥の小部屋に向かう。
この小部屋は、ミーファが娼婦時代に寝泊まりしていた部屋だ。
半身を起こしてドアを開ける。
部屋はとても狭い。
人が住む部屋でなく、明らかに物置スペースだ。
中には人一人の横幅と同じくらいの細いベッドがある。
固い木のベッドの上には、薄いぼろ布が一枚敷いてあるだけだ。
ミーファの日常がとても酷いものだったことがよく分かる。
俺はその細いベッドによじ登る。
古びたぼろ布に顔を付ける。
ほどんど洗ったことの無いような布から、かすかにミーファの匂いがした。
「みーふぁー、みーふぁー、うー……、みーふぁー…」
目からとめどなく涙があふれて来る。
俺はそのまま、同じ姿勢でずっと夜まで泣き続けていた。
涙も枯れるほどずっと泣き続け、そのままうとうとして眠ってしまった。
深夜になって、目が覚めた。
俺はゆっくりと顔を起こす。
乾いた涙とよだれと鼻水で、顔の周りがかぴかぴになっていた。
「なんだ、このざまは?情けない…」
体を起こして、その場で胡坐をかく。
「分かっていただろ。こうなることはとっくに分かっていた。ミーファが近衛騎士団に入る前から、ヘーデン家に来た時から、いつか道が分かれるって、分かっていたはずだろ?何を嘆く?決まっていた未来が、その通りになっただけだろ?いいじゃないか。祝福してやるんだ。明るい未来にミーファが歩き出したんだ。笑顔で送ってやるんだ。お前にできるのはそれだけだ…。それだけしかないんだ」
ふらつきながらベッドを降りる。ずっと同じ姿勢でいたせいで、体の節々が痛む。
部屋を出ようとして、一度振り返る。
ミーファのベッドの上のぼろ布を手に取る。
それを、マントの様に自分の体に巻き付けて羽織る。
(この布は持って行こう。ミーファと俺をつなぐものはもう、これくらいしかないんだ…)
我ながら、未練たらしくてキモイと思う。
でも、これだけはどうか勘弁してほしいと思う。
他人が見たらただのぼろ布にしか見えないだろうから、とりあえず見た目で変態認定はされずに済むはずだ。
これが女子の腰巻とか、乳当てだったら、そうとう拙いことになっていた。
道で会う人ごとに『個人的な性癖ですからお気になさらず』と、余計な説明をしなければならないところだった。
その、ボロマントをまとって、中洲の道を船着き場へと向かう。
この中洲は不夜城なので、深夜でも明かりが煌々と道を照らし、人通りも多い。
ぼろを身に纏った若い俺は、店の使いっ走りの小僧と思われたのか、客引きも声をかけて来ない。
表通りの娼館はどこも、建物がきれいで華やかな作りをしている。
一階の通りに面した部屋は外の向けて大きく間口が開いていて、その中に美しい女たちが大勢腰掛けて客待ちをしている。
開いた間口の正面には縦に長い鉄格子がはまっていて、直接娼婦に接触は出来ないようになっている。
気に入った娼婦がいた場合は、外に待機している客引きに告げて、料金交渉をし、娼館の客となる。
冷やかしの見物人も多い。
川の渡し賃が高く、中州に来る費用だけでも馬鹿にならないので、見るだけでは損の様な気もするが、美女たちを眺めるだけで満足して帰る人間も結構いるという。
普通の飲み屋もあるので、仲間うちで誘い合って中州に訪れ、評判の人気娼婦を眺めて、その後飲み屋で朝まで飲んで帰るという楽しみ方もあるらしい。
よく考えたら、この国で美しい女性を見られる場所と言うのは限定されている。
貴族や裕福な庶民は、劇場で役者や踊り子を見られる。ある程度経済的に余裕のある庶民や、下級貴族などは、こうして中州に渡って人気娼婦を見たりする。
そして、あまり、金銭に余裕のない庶民は神殿に行く。神殿で庶民が見るのは、石材で作られた女神像だ。神殿の中庭には広い公共スペースがあって、そこは公園の様に緑もあり、誰でも自由に入って休むことが出来るようになっている。そうした公共スペースの所々に多くの神像が置かれている。その中には女神像も多くある。設置された女神像のほとんどは、薄布一枚のほぼ裸のような姿だ。豊満な双丘が惜しげも無く前にせり出し、腰の肉も溢れるほど張り出して薄布を下から持ち上げている。その作りはとてもリアルで肉感的だ。
非常に罰当たりな話だが、そうした女神像を、エロ本を見に行く感覚で鑑賞する人間も一定数いるという。石造の薄布の中を覗けないかと首を斜めにかしげて必死にのぞき込んでいる阿呆もよくいるそうだ。前世のフィギュアならスカートの中を覗く事も出来るだろうが、石材の神像にそれは無理だろう。
(そうだ、この世界でエロ本を作ったら、売れるのではないか?)
と閃いた。
勿論、大々的にエロ本を売ったら、『公序良俗に反する』とかなんとかで手が後ろに回るだろうが、信仰用の女神の絵姿として売ったらどうだろうか?
でも、その場合は神殿の人間が噛みついてきそうだ。
そう言えば、王都の飲食店には美しい看板娘のいる店も多い。
そうした看板娘は店の売上に貢献していて、大して旨くも無い店でも看板娘の力で繁盛していたりする。俺がエルだった時に、ゼスがぼやいていた事があったのを思い出した。
「すぐ向かいの肉焼き串屋が、若くてかわいい売り子の娘を雇いやがった。おかげでここ数日こっちの売上が半減してやがる。まあ、向こうの串は大して旨くもねえから、じきに客は戻って来るだろうが、しばらくは、売り上げが減っちまうな。こっちも若い娘の売り子が必要だな。おい、ナコ、お前、ちいと化粧でもしてみるか?…って、駄目か。お前は化粧以前の問題だ。態度が悪すぎるし、可愛げがねえ。せめてボン・キュッ・ボンならまだよかったんだがなぁ…、その薄っぺらい胸とケツじゃぁなあ…」
と、余計な事を言って、ナコねーちゃんに本気で頭を殴られていた。
日本の江戸時代中期には、寺社の門前に店を構えた『水茶屋』で働く美しい看板娘たちが評判になり、『看板娘ブーム』が起きたことがある。そうした人気の看板娘見たさに寺社の参詣そっちのけで、江戸の男たちが『水茶屋』店に詰めかけたそうだ。そうした『看板娘』達のブロマイドである浮世絵や、人気ランキングの『見立て番付』は飛ぶように売れたという。
この王都でも同じことは出来るのではないかと考えた。
庶民の町娘の肖像画の販売なら、お上もうるさくは言わないのではないだろうか。
と、実際にやる気も無いことを、気晴らしの現実逃避で考えながら中州の目抜き通りを歩いていく。
こういう表通りの店にはやはり美人さんが多い。
よくこれだけ美しい人間を集めたものだと、感心する。
それはまあ、それだけ食うに困って、身売りをする女性が多いという事でもある。
中には戦争捕虜や、他国から売られた奴隷も居るのだろう。
これだけ美女が一堂に揃っているのを見ると、この場所に娼婦の顔を見る為だけに訪れる人々が居るというのもうなずける。
こうした歓楽街について是非を論じられるほど、人類の歴史や文化に詳しくはない。ただ、目の前の現実を現実として受け入れて、眺めるだけだ。それは思考停止なのだろう。しかし、人類史の功罪を測るには、正直、俺の頭も知識も経験もお粗末すぎて、まるで話にならないのだ。自分の身の振り方も分からない人間が、他人の人生をあれこれ言っても仕方ない。
ミーファもあの美しさなら、本来は目抜き通りで売れっ子の娼婦として名が知れていたはずだ。それが、あの元傭兵たちに囲いこまれたせいで、川辺の底辺娼館の無名娼婦として、生活を送っていた。あのごろつきたちの管理する娼館の客になるのは正直客も勇気がいった事だろう。そのおかげ今ミーファは顔バレせずに有名人になれている。あの船家の娼婦をしていたことは糞みたいな経験で、決していい事では無いが、現在のミーファにとってプラスに働いている面も一かけらはあったようだ。
しかし、そもそもが、あの娼館に連れて来られなければもっとはるかに良かったのだ。ミーファの母も死なずに済んだはずだ。
その事で俺は、バルドとゼルガ公爵をどうしても許せない。
いつか、あいつらの息の根を止めてやると心の奥底で誓っている。
もっとも、その方法は全く思いつかないが……。
相変わらずの『心の中の口だけ番長』っぷりに我ながら情けなくなり、苦笑した。
ミーファの敷布のマントを握りしめて、彼女の存在を意識する。
(会いたい……)
と心の底からそう思った。
新市街の屋敷についたのは明け方近くだった。
薄っすらと白み始めた街の風景の中、我が屋敷の門の前で、モンマルが寂しそうな佇まいで待っていた。
そういえば最初に会った時のモンマルは、ただの門番だったのだなと感慨深く思い出した。
「また門番にでも復帰する気か?」
とからかう。
「坊ちゃん…」
とその冗談に乗ってこず、モンマルは気まずそうにしている。
「坊ちゃん、あの娘が、ミーファがこんなことになって、すいませんでした」
と俺に頭を下げる。
「ん?なんでモンマルがミーファのことで謝るんだ?」
「私はあの娘の保護者のようなものでしたから…。まさかあの娘が勝手に婚約をするなんて……。ミーファの幸せは坊ちゃんの隣にあると、あの娘も分かっていたはずなのに、なぜ…」
「やめるんだ、モンマル。私は最初からこうなると分かっていた。情けないのは私だ。お前相手に誤魔化しても仕方ないから率直に言うが、私は確かにミーファを愛している。しかし、私たちの道が分かれ行くことも分かっていた。私は淡い夢を見ていたのだ。今は夢から覚めて現実を見なければならない」
「坊ちゃん…」
「もう言うな。この話はこれで終わりだ」
と、俺はモンマルの横を通り過ぎて自分の部屋に帰った。
自分の部屋の机の上に、ミーファの魔剣闘士としてのデビュー戦のチラシが置いてある。
行けるのを楽しみにして、事前に貴族席の前売り券を買ってあった。人気の試合で、いい席は取れなかったが、一目彼女の活躍を見ておきたいと思っていた。
その思いも今は苦い感情に変わってしまった。
(どうしようか…)
胸の痛みが強くなる。
(これが最後だ。さいごにミーファの活躍を遠くから見て、それで思いを断ち切ろう)
そう決意して、そのチラシを俺は見つめ続けていた。




