36 母マリエルの独白
父が人に騙されて、領地を失ったのは、私がまだ14の時です。
それまでは、豊かでは無くても王家に連なる名門貴族の家に生まれたことに誇りをもち、日々の暮らしを送っていた私にとってそれは突然の災難のような事件でした。
それでも、すぐに貧しい暮らしを受け入れることができずに、我が家は知り合いから借財をして以前と同じ生活を送り、姉や母は貴族の舞踏会などにもいつものように顔を出していました。
そんな母と姉がある日から舞踏会に行かなくなりました。
なんでも舞踏会場である下級貴族にひどい侮辱をされたそうです。
その男は五度も再婚をしている高齢の成り上がり男爵で、普通なら我がメダス伯爵家の人間とは口もきけない身分の者です。
ベスの話では酔ったその男が、いやらしい目で姉のエリシアの体を見て、「金に困っているのだろう。この俺が持参金なしで、世話をしてやってもいいぞ。俺の愛妾になるなら、金を出してやる。今から奥の個室でどうだ?」と言いながら、なれなれしく姉の体に手を触れようとしてきたそうです。
すぐに母が怒って拒絶したという話ですが、その時、会場に居る他の貴族たちの、蔑むような、憐れむような、他人を見下す視線に母と姉は気付いてしまったと言います。
我が家の困窮は既に貴族社会では噂になって知れ渡っていたようです。
自室に籠って泣いている姉の声を扉越しに聞きながら、私はわが身の置かれた現状をその時になって初めて思い知らされたのです。
当時姉は将来を誓った恋人がいましたが、このままでは持参金も用意できないので、嫁ぐことなど夢の話です。父は姉と私の立場など考えてもくれません。
そして、お前たちは神殿に行って巫女になれと私たちに命じるのです。
一度神殿に入って巫女になると、身も心もその全てを神にささげることになるので、結婚はもう許されません。
それに母が抗議しても、父は聞きません。
一体、誰のせいでこうなったのかと父を責めたくなりなりましたが、若い娘の身では家長の決定に口をはさむことなどできません。
絶望的な気持ちで、私は当時の親友に身の上を相談しました。
その親友は私の二歳上の16歳で、姉の一つ年下です。
私が泣きながら告白すると彼女は、私に一つの話をしてくれました。
「どうしても神殿に行きたくないなら、一つだけ方法があるわ。でも、この方法は、貴族の誇りが強いあなたには無理かもしれない」
と彼女は言います。
私は藁にもすがる思いで彼女にその方法を教えてくれるように懇願しました。
彼女は気が進まない様子で、でも、わたしの懇願に応えてその方法を話してくれました。
その話を一応聞いてはみたものの、とても受け入れられる話ではありませんでした。
そして、自分でお願いして話を聞いたのに、そんな話をした彼女に私は腹を立ててしまいました。
それは、貴族の子弟の『初めて』の相手を務める、『床入り教育』の仕事です。
貴族の男性も、年頃になると皆、等しく男としての欲望を持て余すようになると言います。
それを放っておくと、家の外で悪い女に誑かされたり、悪友にそそのかされて、街の娼館で病気を貰ったり、盛り場で散財して悪い遊びを覚えてしまうなど、いろいろと困った問題を起こしてしまうことがよくあるという話です。
それを防ぐために、身柄のしっかりした貴族の子女が密かに自宅で『性の教師』として若者を導く仕事があるといいます。
自宅が不都合な場合は、仕事を斡旋する貴族の家に出向いて、そこで仕事をすることもできると彼女は説明してくれました。
通常この仕事をするのは、未亡人などの年増女が多いという話ですが、若い女性は人気があり、普通より仕事をたくさんもらえるので有利だそうです。
仕事場では身分を明かす必要が無く、仮面をして行為を行うこともできるそうです。
「どうする?」
と彼女は私に聞きます。
「あなたが無理なら、あなたのお姉さまか、お母様が働くこともできるわ」
と静かな声色で彼女は言います。
「汚らわしい!」
と思わず私は答えてしまいました。
すると彼女は小さく笑って、
「あなたならそう言うと思っていたわ。今の話は忘れて。不愉快な話をしてごめんなさいね。私も噂で聞いただけだから、良くは知らないのよ」
とその話をそこで終わらせました。
私は気まずくなって、それ以来、彼女と付き合うことは辞めてしまいました。
そして、父を隠居させてメダス伯爵家当主になった兄がゼルガ公爵様に相談したことをきっかけにして、私はヘーデン準男爵の妻になることが決まりました。
その後、ガルゼイを出産し、忙しく月日が過ぎ、何年かして、自分の時間が出来てから、私は彼女のことを思いだしました。
あんなに仲良くしていたのに、あれ以来彼女とは一度も会っていません。
彼女の家が何年か前に、新市街の外周部に転居したという話を聞きました。
私は自分が貴族で無くなっているので、身分が違ってしまった彼女に連絡をすることに気が引けて、ひそかに、『箱車』に乗って彼女の家の場所に行ってみました。
車の中から見るその家は、思ったより小さくて、驚きました。私の住む新市街の家の5分の1くらいの大きさで、こんな郊外なのに、外庭もありません。
外から見る窓は全て閉ざされていて、人が住んでいるようには見えませんでした。
訪ねるのを躊躇していると、一台の『マ荷車』が家の前で停まりました。
その車から一人の年若い青年が下りてきます。
その青年は、扉についた金属の扉叩きを不思議な調子で何回か打ち付けています。
すると、玄関の扉が開きました。
そこから顔を出したのは親友の彼女でした。
なぜか私は『箱車』の中で身を潜めてしまいました。
彼女は青年と二三言話してから彼をドアの内側に招き入れます。
そうして、彼女は私の車の方にちらりと目線を向けてから、扉を閉めました。
私はすぐに車を出して家に帰ります。
その道中、胸がドキドキして、感情の収拾がつかなくなって、何も分からなくなってしまいました。
その後、昔の知り合いに彼女の話を聞く機会があり、私は彼女の境遇を知ることになります。
私が彼女に相談をした頃、彼女の家は当主が病気で寝込んでいたそうです。
当時その話はまだ伏せられていて、当然私は何も知りません。
その後彼女の父は亡くなります。
彼女の母は、若くして病で亡くなっていて、その後嫁いできた後妻も、同じはやり病で亡くなっています。残されたのは、彼女と、歳の離れた後妻の娘だけです。
彼女は妹の面倒を見ながら生計を立てるために、屋敷を売って、小さな家に転居しました。
その家で、かつて私に話していた、『仕事』を彼女は始めました。
王都にはそう言う仕事を密かに斡旋する、顔の広い貴族の未亡人が居るのです。
彼女の事情を知って、しばらくしてから、私は彼女をお茶会に招待しました。
来てくれないかと思っていたのですが、彼女は、当日我が家に現れました。
懐かしさに、思わず抱き合い、会えなかった月日を埋めるように話が弾みます。
私が、彼女の身の上にずっと触れずにいると、彼女は不意に話を止め、
「知っているのでしょ?」
と言いました。
私がそれに答えられずにいると、
「あの日来ていたでしょ。あなたの家の『マ荷車』は見間違えないわ」
と目線を合わせずに静かに言う。
「軽蔑したでしょ?」
と彼女は続けます。
それにも私は答えられませんでした。
「私ね、あの日あなたにあんな話をしたのは、あなたも私と同じにしたかったからなの」
とさらに彼女は告白しました。
「ひどいでしょ。親友なんて言っておいて、私はこんなにひどい女なのよ」
と彼女は自嘲気味に続けます。
私の目から自然に涙がこぼれていました。
次々涙があふれてきます。
「優しいのね…」
と彼女は手巾を出してわたしの涙を拭います。
「ねえ、あなたの子供が、年頃になったら、私に任せてくれないかしら?」
と不意に言います。
その提案に驚いていると、
「ああ、任せると言ってもお相手は私では無いわよ。お母様より年上のこんな年増が相手では、気の毒ですからね。歳の離れた妹がその頃には働いていると思うから、妹に任せたいの。ねえ、いいでしょ」
と甘えるように彼女はいいました。
「ええ、いいわ。その時はお願いしますね」
と、泣きながら私は返事をしていました。
その後、私は我が家の愚痴を思う存分彼女に話しました。
息子が思うようにならないことも大げさに言って、
「やはり山賊の血が入ると駄目なのかしら?とてもあたしの子とは思えないわね」
と、心にもないことをあえて自嘲して言いました。
彼女の前で自慢話は出来なかったのです。
その私の気持ちを見抜くように彼女は、
「そんなことばかり言わなくてもいいのよ。仕方のない人ね」
と苦笑していました。
そして、あの日、息子のガルゼイがあの娘をうちに連れてきました。
痩せていて見るからに不健康なその美しい娘は、足元に跪いて卑屈なおびえた眼差しでこちらを見上げていました。
元は辺境伯家の血筋と言います。
その姿を見ていて不意に、
(ああ、この娘はもう一人の私だ…)
と思いました。
(あの親友も、私なんだ…)
と思い、その考えに思い至ると、涙があふれて止まらなくなりました。
(辛かった過去は変えられないけど、せめて今からは私にできる事を、この娘にしてあげよう。この娘は若いし、まだ手遅れでは無いわよね…)
と娘を抱きしめながら、その時、そう私は固く決意をしたのです。