29 娼館の主になる?
俺はまたなぜかバルド・リース・ヘーデン準男爵様の執務室に呼び出されて、目の前の椅子に座らされていた。
「ふんっ」
執務机の向こうで腕組みして、バルドは俺を睨む。
このランス湖畔の別邸は、俺には完全アウェーな場所なので、居心地が悪い。
「最近、鍛えているらしいな。動くのが嫌いで豚のように太っていたお前が、どういうつもりだ」
どうでもいいだろ!この脳筋グラディエーターが!
俺はお前みたいなやつが嫌いなんだよ。
押しつけがましい脳筋糞鬼畜めが。
ばーか、ばーか。
「興味の無いことを、なぜ訊くのですか?あなたの貴重な時間を奪うのは、心苦しいので、ここに私が呼ばれた理由を早くお話しください」
と言ってにこやかに慇懃無礼に微笑んでみる。
「ああそうだな。我が家が娼館をいくつか持っていることは、お前も知っているだろう」
「はあ、それが何か?」
そう、ヘーデン商会の主軸は物流業だが、他にも様々な派生事業を経営している。
そのうちの一つが娼館だ。
この王都で娼館の経営は、合法の商いとして認められている。娼婦の待遇は法で定められており、その身分は一部保証されている。法の基準に合致した娼婦は公娼となり、各自に許可証が発行される。違法な娼婦を買うと客も罰せられるので、料金交渉の際に、客は必ずこの許可証の有無を確認しなければならないとされている。
といっても、それはきれいな建前の上の話で、実際は無許可の娼館や『立ちんぼ』は多く、巡視隊の取り締まりが追い付かない状態らしい。
そして、なぜ、我がヘーデン家が娼館を経営しているかというと、戦場で兵站などの物流を担っていることに関係がある。戦と言ってもすぐに戦いが始まるわけではなく、何か月もただ睨み合っていることも少なくない。そんな時は兵団に床屋や、吟遊詩人、娼婦なども兵団に帯同ことがある。
戦が終って稼ぎ場所の無くなった娼婦たちを王都に連れ帰り、その後の身の振り方を考えてやるのもヘーデン商会の仕事だ。戦場での稼ぎを元に商店を始めて、娼婦を辞めるものも居るが、学や商才の無い者の多くはそのまま娼婦を続ける。その生活の受け皿として王都の何か所で娼館を経営する必要があった。
ただ、この世界でも娼館経営というのは、卑賤な仕事として忌み嫌われており、娼館の経営者はたいてい南方か西方出身の異民族だ。父もその大柄で骨太の体格から、北方の異民族の血が入っていると見られており、父を異民族の女衒と見下す人間も少なくない。
娼婦は募集して賃金を払って集めることもあるが、『現地調達』することもある。戦場が敵の領地の場合は、敵の領民を捕まえて『戦利品』にするのだ。
もっともこれは敵方がよほど信義にもとる、卑怯な行いをした場合の報復に限られる。なんの理由もなく見境なく敵を奴隷にしていたら、周りの国が皆敵になってしまう。
ただ、敵方の小さな村などを略奪して回ることはよくあり、あまり大規模にやらなければそのくらいは『戦場の習い』として問題にならない。その際、見目のいい女性を見繕って連れ去ったりする。
実は、今ランス湖の別邸を切り盛りしているバルドの内縁の妻は、バルドが『戦利品』として得た女性ではないかと、俺は勘ぐっている。目鼻立ちがはっきりして、肌が浅黒い野生的な美人で、顔立ちがこの国の人間とは少し違う。南方系と見られるが出自は謎に包まれていて、バルドの古参の部下もそれを話題にする事は無い
こういうのを『下種の勘ぐり』というのだが、こう思っているのはひねくれもののガルゼイ君であって、決して元日本人陰キャおやじ(享年35歳)の考えではないとだけはここで言っておく。
「今回のお前のことで、俺のあら捜しをしようと画策している連中がいてな。悪評の芽は摘んでおくようにと、ゼルガ公爵からのお達しがあった。そして、俺の所有する主だった娼館は付き合いの長い人材組合の商人に売却した」
物はいいようだ。人材組合というのはつまり奴隷商ギルドのことだ。
「それが、私とどういう関係が?」
「ランス川の中州の歓楽街は知っているな」
「はあ、それが何か?」
「ここにも小さな娼館が一つあるのだが、これが売れ残って困っていた。よって、お前にこの娼館の名義を移した」
「はあ?」
意味が分からない。
「何の冗談ですか?」
「冗談に聞こえるか?」
「あなたが冗談を言っているのを聞いたことがありません」
「そういうことだ。話はそれだけだ。下がっていいぞ」
「待ってください!もう少し説明を!」
「俺の貴重な時間を奪う気か」
「13歳の子供が娼館の所有者なんてありえないでしょ!」
「気にするな。名義だけのものだ」
「気にしますよ。それなら、あなたの部下の名義にしてください」
「俺も知らなかったのだが、あれはかなりひどい環境の娼館らしい。そんなものを部下の名義にしたら俺の良識が疑われるし、あまり他の人間の目に触れさせて内情を知られたく無いのだ。今娼館を仕切っている連中に名義を変えてもいいのだが、それで、そこのごろつき共が大手を振って好き勝手にできるようになるのも困る」
それを俺の名義にするのは、良識に反しないって言うのか?
「それならその娼館の環境を整えてから、売却すればいいでしょう」
「そんな暇はない。誰が何をやっているのか分からない場末の娼館一つに、そんな手間も金もかける価値は無い。しばらく放っておけばそこの娼婦共もじきに居なくなる。女が居なければ稼げない。稼げなくなれば自然に消滅するだろう。今捨てられるものなら捨てたいがそれができないから、お前だ。今回のことはお前の不始末のせいだ。責任を取れ。廃嫡して仕事が無くなったのだから、他のことで家に貢献しろ」
そのうちいなくなるというのはつまり劣悪な環境で皆死んでしまうという意味だろう。
本当にこいつには、人の心というものが無いのだな。あの母が毛嫌いするのもうなずける。母のマリエルは貴族至上主義で、基本的に大衆を見下しているが、育ちの良さ故か、妙なところで情に厚いところがあるのが、最近の付き合いで分かってきた。
人を人とも思わないで、ただ利用するだけのこいつのやり方には、まったくついていけないはずだ。こんな奴にガルゼイは認められようとしていたなんて実に不毛だ。
「その娼館は今誰に任せているのですか?」
「知らん。今知っているのは、その娼館が俺の名義になっていたということだけだ。何かのどさくさで女どもの何人かを、誰かに任せたらしい。多分、当時雇っていた傭兵の報酬として女を与えたのだろう。それでそいつらが娼館で食えるように、俺の名義だけ貸してやったというところだろうな。今となっては邪魔な連中だ」
「自然に消滅すると言いますが、その連中が新しく女を仕入れて娼館を続けるとは思わないんですか?」
「人の管理というのは難しいものだ。馬鹿やごろつきには無理だ。特にこの王都では街娼ですらそれなりの器量が求められる。お前が客なら栄養失調で死にそうな女を買いたいと思うか?」
「そんなものを、放っておくと私の悪評になりますよね」
「だったら何だ。子供を高所から蹴り落として殺した以上の悪評がほかにあるのか?」
「……」
「そういう事だ。分かったら帰れ」
帰れも何もここは俺の家でもあるじゃないか。
前はここから出るなと言ってたくせに、言うことが一貫しないんだよ。
と、心の中で文句を言って執務室を出る。
来客の待合室のようになっている前室から1階大広間に勢いよく出たところで、一人の女とぶつかりそうなになった。
「あ、すまない…」
と前世の感覚でつい謝る。
相手の顔を見ると、知った人間だった。
俺の腹違いの姉のエルスだ。
確か今年17になったはずだ。
こげ茶色でウェーブのかかったくせっ毛の豊かな髪を腰のあたりまで伸ばしている。
鼻筋が高く、掘りの深い黒い瞳。意志の強さを表す理知的な目。小麦色の健康そうな肌。背は俺の頭二つ分ほど高い。
昔のオランダの民族衣装のような、ゆったりとしたチェック柄のワンピースを着て、エプロンのような大きな前掛けをしている。
これは、こいつのいつもの定番スタイルで、最近はここの女どもが皆真似をして着るので、別邸で働く女どもの制服のようになっていると出入りの御者に聞いた。
主の娘が使用人と同じ恰好をしていたら、なめられて示しがつかなくなると思うが、こいつはあまり気にしていないようだ。
ぶつかりそうになったのが俺と気付いてエルスが息を飲んだ。
顔が引きつっている。
(ああ、この反応…まあ、そうだよな)
今まで俺がエルスに取ってきた態度や、暴言の数々が記憶に浮かんで来る。
言ったのは今の俺ではないと言い訳したいが、明らかに自分が言った記憶だけが残っていて、申し訳の無い気持ちになる。しかし、同時にガルゼイの腹立ちも自分の感情としてあるから、このエルスに頭を下げる気にもならない。
どんな顔をしていいのか分からず、
「えー、まーそのー、まーそのー…」
と昔の政治家のようなあいまいな物言いをしながら背を向けてその場を離脱しようとした。
「待って!」
と後ろから声がする。
エルスは声も涼やかで美しい。
この優秀な姉に勝てるところが無かったガルゼイは、その出自や血筋をあげつらって、馬鹿にすることでしか優越感を持てなかった。
彼女は俺を憎んでいるに違いない。
今なら、落ちぶれて力を失った俺にやり返すことができる。
彼女に見下されるのが怖くて、そのまま足を止めずに歩く。
右ひじを後ろから捕まれる。右の二の腕は大きなやけどの跡が残っているので、黒いサポーター状のさらしを巻いている。掴まれた拍子にそのさらしの端がほどけそうになる。
「なんだ、そんなに強く引っ張るな。何の用だ」
と後ろを振り返る。
「物置であなたのしたことを聞きました。それで、えっと、あの…」
「いい気味だと思っているのだろう」
とつい、俺の中のガルゼイが嫌味を言う。
「お前の勝ちだ。この上勝者が敗者に何を言うんだ?少しでも優しさがあるなら放っておいてくれないか。ああ、それとも、ここで俺を晒し物にするのが目的か?だったら早く済ましてくれ。これから行くところがあるんでね」
無意識にガルゼイの嫌な性格が次々表層意識に浮かんで来る。
「そんな!」
と怒りの声を上げる。
「他に用事がないなら行くぞ」
とエルスの腕を振り払って屋敷を出る。
腕の黒いさらしが解けて落ちそうになり、隙間から二の腕のやけど跡が見えた。
やけど自体は治っているが、皮膚がひどいケロイドになっている。
俺はもう一度さらしを結びなおす。やけどを人に見られるのは気にならない。むしろナコねーちゃんとのつながりを感じられて嬉しいくらいだ。ただ、他人が見て気分のいいものではないだろうから一応隠すようにしている。
(あーあ、やっちまった。また嫌われる。なんでガルゼイ君は大人しくしてくれないんだろうか。君の苛つきを他人にぶつけるのは止めたまえよ)
と呆れた心と、諦めの心境で、空を見上げた。
(今日も空が高くて青いなあ。この空の広さに比べて人間はちっぽけだなぁ…。どこかに逃げてのんびりと静かにくらしたいなあ…)
と引きこもり願望がむくむくと込み上げてくる。
それなのに…
異世界転霊してからのあれこれを思い出す。
エルに憑依してからだけでも、いろいろあった。
馬鹿なガキに階段の上から蹴落とされ、ナコねーちゃんには憎まれ、子供殺しの鬼畜と街中から非難され、廃嫡され、母に泣かれ、元傭兵にしごかれ、決闘させられ、戦場で大功を挙げろと期待され、娼館の名義人をやらされ……、
……この世界での俺の人生、『のんびり』も『静か』もどこにも、かけらもないんだけど、どゆこと?
門を出たところにモンマルが待っていた。
最近こいつは門番を辞めて、おれの剣の師匠兼護衛のような、変な立場になっている。
「行くところができた。中州の歓楽地だ」
「へえ、こんな昼間から中州に言ってどうするんですか?あそこは坊ちゃんにはまだ早いですよ」
「誰が遊びに行くと言った。糞親父にハメられた。あいつは俺のことを切り捨てにかかっている。まあ、そのことはどうでもいいが、奴の思い通りになるのは腹が立つ。何かできる事がないか、確認する必要があるんで、まずは敵情視察だ」
「そいつは穏やかでないですね。しかし、ここからだと王都の方にかなり戻らないといけないから、歩きだと時間がかかりますよ。『辻車』でも拾いますか?」
「ああそうだな、そこに駅舎があるからいくらでも『箱車』の空きはあるだろう。詳しい話は『箱車』の中で話す」
『箱車』というのは屋根付きの4人乗り客室の付いた少し程度のいいマ荷車のことだ。安い『辻マ荷車』は二人乗りの座席があるだけで屋根は無い。どちらも通常1頭のワマで引かせる。軽い分、二人乗りのマ荷車の方が目的地に着くのが速いが、スピードが出るので事故も多い。安全を考えたら、多少高くても『箱車』に乗ったほうが無難だ。
「それにしても…」
俺はモンマルの左右の腰の二振りの『逆反り湾刀』に目を向ける。
『戦場剣』なんて名前では味気が無いので、『ククリ剣』と名付けたら、こいつは納得がいかない顔で首をかしげていた。第2候補で『ファルカタ』を挙げると、『まあいいでしょう』と眉間にしわを寄せつつもぎりぎり受け入れた。
自分の命を預けてきた剣なので、名前にこだわりがあるのかもしれない。
でもそれなら『戦場剣』は無いだろう。
「だがその、ククリ…じゃなくて、ファルカタを街中で腰に差して、巡視隊に捕まらないのか?」
と言うとモンマルはにやりと笑った。
「抜かなきゃ、棒っ切れと同じですよ。鞘のままぶっ叩けばいいんです。他の連中が王都でわざわざ警棒を持つのは、軽くて楽だからです。街の外ではあんなおもちゃみたいな武器、役に立ちません」
と言う。
「そうか、それならいいけど、巡視隊に捕まるなよ」
「伊達にこの歳まで生きてませんよ」
「そういえばお前の歳を知らないな。この歳と言うがいくつなんだ」
「えー、何年か前に確か40になりました。今年は多分43だったかなぁ」
「自分の歳くらい覚えておけ」
正直43才と言われて驚いた。歳より老けて見える。50代後半くらいかと思った。
この世界の庶民は40歳を過ぎると途端に老化するようだ。
貧しい食生活で体を酷使するせいだろうか。
貴族が老けないのと対照的だ。
わが父バルドは36才だが、20代に見える。
母に至っては童顔なのもあるが29歳で20歳といっても通用する若々しさだ。
持つものと持たざる者の差は見た目にも表れるということか。
そういえば肉焼き串の庶民おやじゼスは、多分40代くらいのはずだが元気はつらつで若々しかった。
肉ばかり毎日焼いて食べているせいだろうか。
「肉なんか食い飽きたぜ。もう見たくもねえ」
とぜいたくなことを言ってゼスがぼやいていたのを思い出す。
駅舎に集まった『マ荷車』の中から、何台か交値段渉してそのうちの一台に乗り込む。
ガタゴトの石畳を走り出す。
かなり揺れるが、乗り心地はそう悪くない。
この時代でも荷車の車軸には板バネがついていて、しっかりクッションが効いている。
この世界の日用品は意外に優れモノが多い。井戸に汲み上げポンプもすでについているし、川辺で水車が穀物の脱穀をしている。
公共浴場はどの町にもあり、市民は毎日のように風呂に入る。
油脂を固めた石鹸のような物まである。
まあ、石鹸は『液状石鹸』が古代ローマでも使われていたので、近代の発明では無いし、特に珍しい物でもない。
それが、現代の恩恵の様に思われるのは、中世ヨーロッパで一度その『叡智』が失われているからだ。『暗黒時代』と呼ばれる、中世ヨーロッパでは、古代ローマの多くの英知が『焚書』などで失われてしまった。宗教的価値観から人々は風呂に入らなくなり、『不潔な人ほど心が清い』という、現代では訳の分からない『信仰』が社会を席捲してしまう。
ひー、恐ろしい。考えるだけで恐ろしい。
周りの人間全部が風呂に入らない、『お風呂キャンセル』国家に放り込まれたら、俺は悶絶して、すぐに街から逃げる。鼻をつまんで、すぐ他国に逃げ出す自信がある。
しかし、その隣の国も、またその隣の国も『お風呂キャンセル』の人しか居ないなら、どこに逃げればいいのか?
当時、文明が進んでいた、東のイスラム世界に行くしかないのだろうか?
それも日本人には異文化過ぎて、少しハードルが高い気がする。
そんな時代と世界に『異世界転霊』しなくて本当に良かった。
現代と同じ『固形石鹸』は七世紀ごろに中東の都市でイスラム教徒によって生産されたという。イスラム教徒は豚のラードが使えないので、オリーブオイルを使って石鹸を作った。そうして作られた石鹸がまたヨーロッパに伝わって、『おっ、これいいじゃん』と言う話になって、その後ヨーロッパでも普及したらしい。
うん、この世界で異世界知識で儲けてやれるんじゃないかと思った事もあるよ。
しかし、俺がこの世界で、異世界チートをやろうにも、前世で理系の技術者だったなら別だが、文系大中退の俺の半端な知識では、正直出る幕が無い。
前世の歌謡曲で作曲家になれるかもしれないが、もしそんなことで名を売って、他に転生者がいた場合、俺が転生者であることがバレバレになる。
静かで平凡で平穏な暮らしがしたいおれにとって、それは本意ではない。
なので作曲家の線も無い。
早めにこの体からおさらばするとして、次の憑依先はなるべく目立たず楽できる地味な人間にしようと心に決めている。
まあ、とにかく今は平凡な暮らしのために不安要素を潰すのが先だ。
と揺れる『箱車』の中で考えていた。




