20 母の気持ち1
次にやることは決まった。
自殺だ。
もうあと一瞬でもこの体に居たくない。
あのバルドの糞おやじは俺に生きていて欲しいようだが、それは親の愛情でなく、貴族社会でのメンツの為だけだ。あんなおやじのメンツなど俺には関係ない。
それに対して今俺が死ねば、ナコねーちゃんが喜ぶ。仇がいなくなればねーちゃんは前を向いて穏やかな日々を送れるだろう。ついでにミスラン公爵家が喜ぶのは癪に障るが、今後、ナコねーちゃんがミスラン公爵の派閥に入るなら、そちらの利益になる方がいい。
俺がいなくなれば、余計な争いが無くなり、皆収まるところに収まるのだ。
さあ、死のう、今死のう、すぐ死のう。
俺は、大ホールを階段と逆に進む。入口の大扉を出る。入口守る護衛がそれを止めようとする。
「屋敷から出られては困ります」
最近入ったばかりの、若い護衛でおどおどしている。屋敷の外門には不審者を排除する屈強な門番が数人配置されるが、中の屋敷の入り口は比較的安全なので、慣れない新人に任されることが多いのだ。
これなら押せば行けるな。
「なんだ、ちょっと屋敷の周りを散歩することもできないのか?俺は怪我人だぞ、この体でどこへ行けるというんだ?気晴らしに少し歩くだけだ。余計なことをいうな。この馬鹿が!」
と言いながら強引に外に出る。
若い護衛は、それ以上言えずに俺の背を見送った。
(よしっ!)
正直冷や冷やだった。あの無礼な下男のように俺のこと馬鹿にしている奴なら、嫌がらせで外出を阻止してきただろう。相手が新人で良かった。
おれの外出禁止が、それほど厳格に命じられているとはまだ思われてないようだ。
(そういえば屋敷の裏手にあれがあったな)
壁沿いに最短距離で歩くとすぐ目的の物が見えてきた。
古い納屋だ。
ごみのようなもう使わない古い道具類をしまい込む場所で、物置として使われている。
普段ここには誰も足を踏み入れない。
俺がもっと幼かった時に、傷ついた心で独りになりたくて見つけた場所だ。
久しぶりにこの納屋の軋む戸を開けた。
誇りっぽい空気が淀んでいる。
戸を閉めてしばし感傷に浸る。
(懐かしいな…)
ガルゼイがまだ柔らかい心を持っていた時の悲しみがフラッシュバックしてくる。
思わずガルゼイに同情しそうになる。
(いかん、いかん、こいつはエルを殺した奴だ。ナコねーちゃんのことも泣かした。こいつがいくら不幸でもそれが他人を虐げていい理由にはならない。だから責任をとってお前はここで死ぬんだ)
納屋の壁に錆びた釘が横に並んで打ちつけてある。
そのうちの一つに巻いたロープの束がかかっていた。
(よし、あったぞ)
そのロープを手に取り、ほどいてみる。
端をつかんで左右に強く引っ張ってみる。
なかなか丈夫だ。これは、小舟を船着場に繋ぎ止めるのに使ったロープのようだ。
その片側を何巻きかまとめて持って、梁に投げる。
何度か投げてうまく梁にロープをかけることができた。
その片側を柱に括り付ける。
木箱を台にして上に乗る。
梁から垂れたもう片方を輪にして首にかけてみた。
少し体重をかけてテストをする。
うまくいきそうだ。
(よし、本番だ)
覚悟を決めて、肺いっぱいに大きく息を吸って潜水をするように息を止めた。
(あれ、何やってんだ俺。息を止めても意味ないよな)
途中で自分の頓珍漢な行動に気付き苦笑する。
改めて左右を見回す。ぶら下がった後でつかめるような場所も無い。
苦し紛れに暴れても大丈夫だ。
(せーの、よっ。これでこの体とはおさらばだ!)
足元の空の木箱を思い切り遠くに蹴り飛ばす。
体が下に落ちて、激しく左右に揺れる。
苦しい。咳が出る。本当に苦しい。
なぜだ、柔道などで頸動脈を締められたら、一瞬で意識を失うはずだ。
だが、今はただひたすら苦しい。
ヒューヒューと荒い呼吸音が自分の口から聞こえる。
(ちょっと待て。どういう事だ。なぜ少しづつでも呼吸ができているんだ?)
うおーん
とどこからか聞き覚えのある声が聞こえた。
(まさか!)
うおーん、
うおーん
首を下げるようにして、目線を下に向けると首の周りの空間に、黒っぽい霧のようなものがたなびいている端っこの端っこが見えたような気がした。
(また、お前か⁉黒衣のじじい!)
首が中途半端に閉まって、無茶苦茶苦しい。
そのまま、何をするでもなく10分くらいの時間が経過する。
その間俺はただ咳込んでいた。
(おいじじい!助けるなら助けるでここから下ろしやがれ!このままじゃ苦しいだけだ!)
と罵倒してみるが爺さんはひたすら『うおーん、うおーん』としているだけでまるでコミュニケーションが成り立たない。
(駄目だ。こいつは知性も意思も無くただオートマチックにこの体を殺さないようにしているだけだ。なんつー厄介な呪いだよ!誰かなんとかしてくれ!助けて!)
長引く苦しみに心が折れた。
「だ、あ、だだだ、ぐぐぇで!(助けて!)」
涙があふれる。こんなはずじゃなかった。苦しいのは嫌だ。痛いのは嫌だ。
しかし、時は無常に過ぎていく。俺の中の霊エネルギーは河原での傷を治すために枯渇している。そのせいでこの体にはまだ治りきっていない怪我がいくつもある。しかし今俺の体のどこかで、無いはずのエネルギーがゴンゴン減ってきているのが分かる。
何だ、これは。予備タンクでもあるのか?知らんぞそんなの。恐らくこの予備エネルギーが尽きた時が本当の俺の死ぬ時だろう。ああ、もっと楽に死ねると思ったのに。黒衣のじじいめ、最後までこの体を苦しめて、何がしたいんだ。本当に迷惑な野郎だ。
そのまま無限に思える時間を苦しみ続けて……
やっと俺は意識を失うことができた。
そして……
再び俺は目覚めた。
霊体になった感じはしない。
体がひたすらだるい
つまり……
俺はまだ生きている。
今度は頭が柔らかい枕に半分も沈んでいる。
目を開けて頭上を見上げる。今度は豪華なベッドの天蓋のような物が見える。
知っている天井だ。見間違えるはずもない。
ここは新市街の本宅にある俺の部屋だ。
身じろぎして体を起こそうとするがうまく起こせない。
それどころかだるくて腕も上がらない。
(まさか、半身不随じゃないだろうな?)
不安になって手をグーパーして、足先も動かしてみる。
ちゃんと動くことにほっとした。
この体のまま一生寝たきりなんてごめんだからな。
そうやってもぞもぞしているとすぐそばで声がした。
「あっ、目覚められました!奥様!奥様―‼」
どたばたと走り去る足音。
少しして衣擦れの静かな音とともに聞き覚えのある険のある声が聞こえてきた。
「まったく、人騒がせな…」
この声は俺の母上『マリエル・リース・メダス・ヘーデン』の声だ
首を少し傾けてそちらを見る。高価な宝石と刺繍やレースの数々が程よいデザインで適度にあしらわれた、最新流行の室内用のシンプルなドレス姿で母がゆっくりと現れた。
母は俺と同じで背が低い。顔も俺と似たモブ顔だ。
ただ、俺とは似ない明るいブロンドに髪色が輝いている。髪の毛が尖った巻貝のように頭上に高々と結い上げられている。王都の最新流行らしい。両のこめかみのあたりから鏝で巻き毛にしたドリル状の髪が一房ずつたれ下がっている。
顔の地味な母はこの髪が自慢だった。他の人々も顔が褒められないので、母の髪を熱心に褒めた。古い歴史のある名門伯爵家、メダス家の次女だった人だ。準男爵の父に嫁いだ今は貴族席を抜けて平民だが、母のたっての願いで名に伯爵家の『メダス』を残した。このことも『貴族で無くなったのに往生際が悪い』と言われ中傷のネタになっていた。
もっとも、父は母と結婚することで、貴族に血縁を作り、そこから男爵に昇爵して正式に貴族になる予定だったという。
それに強固に反対したのが、エルの父親の現ミスラン公爵だ。
出自の明らかでないものをいきなり貴族にするのは問題であると、貴族院の議会で論陣を張り、結局父の昇爵は見送られることになった。
母にしてみれば相手がじきに貴族になると言われて嫁いだのに、平民になってしまったことで『話が違う』と腹を立てたようだ。
だから夫婦仲は良くない。
父バルドは女性の機嫌を取るような人間ではないし、母もプライドが高く自分からは折れない。俺という跡継ぎを得て、その後の夫婦の交流はほぼ無くなった。
そして、母はかつて貴名門族だったことだけが唯一の誇りになってしまった。
俺も、幼いころはこの母の高貴な血を引くことが自慢だったが、今となっては疎ましい。
「ご迷惑をおかけしました」
と心のない形だけの謝罪をする。
母マリエルはそれに大きなため息で返す。
「この度、あなたは、あのミスラン公爵の子を始末したそうですね」
『始末した』との物言いに俺の心がささくれ立つ。
「……」
返事をする気が無くなり、無視をして黙る。
「知らずにやったとは言え、あの不忠者の一族を減らしたのです。誇りなさい。非難される筋合いはありません」
いくら敵対する陣営だからと言って、無辜の子供を殺したことを誇れという母の冷血さに気分が悪くなった。
「何を誇るのです。私が誇ることをしたのなら、なぜ私は廃嫡されたのですか?」
と皮肉交じりの自嘲を込めて問うてみる。
「それは一時的な措置でしょう。政治的な配慮と言うものです。時が来ればまたあなたが嫡男に戻ります」
「父上は本気のようでしたが…」
「あなたの父は生れが卑しいので、相手の地位の高さを恐れているのでしょう。それは仕方のないことです。生粋の平民には荷が重いのですね。しかし、私は違います。相手は筆頭公爵家ですが後ろ盾ならこちらも負けてはいません。あなたの父が逃げても私は逃げません。ゼルガ公爵様は王からも信頼が厚く力のあるお方です。きっとあなたの力になるはずです。」
これは何を言っても駄目だ。
俺は反論する気が無くなった。
「もういいのですよ。私のことは放っておいてください。もう私は疲れたのですよ。いいかげん私を開放してくれませんか。正直こんな家のことなんかどうでもいいですよ。私がいなくなってもよその貴族家の次男か三男を養子にすればいいでしょう。陰で出来損ないと揶揄される私がいなくなれば母上も心労が一つ減るのでは?」
とこれ以上ない形で皮肉を言い放つ。
「ななっ、何を⁉あっ、あなたはっ!」
と俺の言葉にいきなり母の様子がおかしくなった。
「あっあなたはっ、そんなにこの家が…、死んで逃げたいほど、この家が嫌いなのですか⁉」
何をいまさら。俺のやることなすこと全て批判してきたくせに。最初は俺も期待に応えようと努力をしていた。しかし俺が何をしてもあなたは俺を認めたり、褒めたことは無かった。
そして、屋敷の茶会に呼んだ自称親友という相手に密かに言っていただろう、『やはり山賊の血が入ると駄目なのかしら?とてもあたしの子とは思えないわね』と。
「母上も内心で俺のことは期待していなかったでしょう。俺は下賤な山賊の子供ですからね」
俺の言葉に母は貧血を起こしたようになってその場にしゃがみ込んだ。
「そんなことは、そんなことは、…考えたことはありません。あなたは母の子です。あの男の血はどうでもいいのです。この母の血を引いているのです!」
「もういいですよ。無理をすることはありません。そうしていい母親を演じるのもお疲れでしょう。解放してあげますよ。私もこの世に未練はありません」
「ぐぅっ……ううぅ…」
と母は妙なうめき声を発した。
「ぐふうううっ…、うううううっ、うえっ、うええええっ!」
どうやら母は泣いているようだった。
これには意表を突かれた。なぜ泣く?訳が分からない。
「駄目です!死んでは駄目です!私……?私があなたをそこまで追い詰めたのですか?私が悪かったのですか?」
声が震えている。これは演技ではない。
「ごめんなさい…、許して、私を許して!ごめんねぇ…うえーん!母を、わたっ、わたしっ!えーんっ!うええええええっ!」
まるで子供の様に大泣きをしている。母がこんなに取り乱すのを見るのは初めてだ。いつもの母は人が何か言うと呆れたようにため息をついてチクリと皮肉を言うのが常の、冷めた人間だった。
脇に控える年増の侍女も予想外のことに呆然として立ち尽くしている。
ちょっと待てよ……。
改めていつもの俯瞰で彼女を考えてみる。
冷静になってよく考えたら、今の母は、年齢で言うなら、俺が前世で事故死した時よりまだ若いはずだ。15の若さで父と政略結婚をし、1年後に俺を生み、俺が今13歳と言うことは、現在の母は…まだ29歳か…。死んだときの俺より6歳も年下じゃないか。
しかも、彼女は箱入り娘で、世間知らずで、健全な人格形成をするチャンスも無く、自分より愛されている内縁の妻のいる男に突然嫁いだのだ。精神年齢は実年齢よりかなり低いはずだ。
ガルゼイの心の葛藤がとりあえずどこかに行ってしまい。俺は100パーセント陰キャ気弱おやじに戻ってしまった。
(やばい!年下の女の子をいじめて泣かした!俺はなんて嫌な奴だ。やっちまった。どうしよう…)
俺の物言いは相手の心の一番柔らかい部分にナイフを突き立ててえぐるような情け容赦のないものだったなと、改めて自覚する。
(拙いぞ、ガルゼイのひねくれた感情に引っ張られすぎた。ふざけんな、このクソガキが!どれだけ俺に迷惑をかければ気が済むんだよ!)
取りあえずこの場をなんとか挽回しなければ…
「えー、はははは、いやだなあ、冗談ですよ冗談。本気で死ぬ気なんてありませんよ。あれは死なないような仕掛けがあるんですよ。その詳細は秘密ですけどね。ほら、死ぬほど反省してると思われれば、みんな同情してくれるかなぁって思って。母上が泣くのを初めて見ました。こりゃ、たくらみは大成功かなーって……なんちゃってですよ、なんちゃって…。だから気にしないで下さいよ、あーはは…どっきり大成功―!チャッチャチャー!」
取りあえず場を和ませようと思って適当に言い訳をしてみたが、慌てていたので自分でも途中で何を言っているのか分からなくなった。
母の泣き声がぴたりと止まる。
(お、これは成功か?)
と、期待をして次の反応を窺った。
すると母はその場にすっくと立ちあがり、右手を高々と振り上げた。
(あ、これは…)
次にその手は渾身の勢いで俺の顔の真ん中に振り下ろされた。
バッチーン!と大きないい音が部屋の壁に響く。
生まれて初めて母上に叩かれた。
「心配をして損をしました‼あなたのような子はさっさと死んでしまいなさい‼今すぐ死ね‼死んでしまえ‼」
顔を真っ赤にしてそのまま踵を返しバタバタと速足でその場を去っていく。
うん、貴族のマナーも何もないなぁ。
これはあれか、ツンデレと言うやつだな。こじらせた変形ツンデレだ。
まあ、怒れるくらいならいいだろう。
と少しほっとしている自分がいた。
微妙ににやけているその俺を見る、年増の侍女のドン引き目線に気が付いた。
「無いわー…あれは無いわー…」
と彼女の口から無意識に言葉がこぼれているのには気付かないふりをしておいた。