16 河原での別れ2
息を切らせながら、石垣の擁壁の階段を登る。
この体で、高さ4メルス(6メートル)の階段を登るのは楽ではない。
休み休み登り、やっと擁壁の上にたどり着く。
石垣のへりから慣れ親しんだ水路の河原を見下ろす。
ずっとここが生活の場だと思えばうんざりする場所だが、もうすぐここから離れると思えば、なんとなく
名残惜しいような気がしてきた。
ここからの風景を心に焼き付けることにしよう。
あの『存在』は何から逃げろと言ったのだろうか?神殿からか?
だとしたら、じきにここから引っ越すのだからわざわざあんなことを言いに来なくても良かっただろう。
とにかく説明が足りない。
考えているうちに『存在』に腹が立ってきた。
何気なく擁壁上に沿って続く道の少し先に目線をやる。
数人の一団が歩いてきた。
一瞬警戒したが神殿の人間ではない。
先頭に、小太りの上等の身なりの男の子が歩いている。
この世界では珍しい黒髪で、短髪の前髪を眉の下辺りでぱっつんに切り揃えている。
年のころはナコねーちゃんと同じくらい。10代前半くらいだろうか。
不機嫌な様子で周りを威圧するように歩いている。いかにも我儘な子供と言った感じだ。
顔はどこにでもいるようなモブ顔だ。なんとなく目が有って鼻が有って口が有る。
その子供の真後ろに背の高い黒衣に白髪の老人が歩いている。そして老人のすぐ後ろに護衛とおぼしき屈強な若者が二人。
黒衣の老人は男の子の保護者だろうか。それとも従者か。
金持ちそうな一団だ。俺には関わりのない人たちだ。そばに来て絡まれると嫌なので早々に下に降りることにする。
そして、もう一度だけ横目で一団に視線をやる。
なぜか胸騒ぎがする。
何かがおかしい。
それが何かは分からない。
その場から動けなくなって、一団をよく見る。
違和感の正体が分かった。
先頭に少年がいてそのすぐ後ろに黒衣の老人。老人の顔には深いしわが刻まれており、大きな鷲鼻が顔の中央に目立っている。その老人に密着するように後ろに二人の若者。
彼らはなぜこの広い道であんなに窮屈に身を寄せ合って歩いているのだろうか。
よく見るとまた、おかしなことに気付いた。
近づいてくる黒衣の老人の歩き方がおかしい。
地を滑るように移動している。
体が上下にも左右にも全く揺れていない。
ここに来て俺はやっと気づいた。
あの黒衣の老人は人間ではないと。
気配は完全に人間だったから、まさか人外とは思わなかった。
俺との距離が3メルス(4.5メートル)ほどに近づいた。
拙い、逃げないと。
あれは良いものではない。
俺が人間と間違うほど濃密な実在感を持つ存在だ。
こちらに気付かれたら、拙いことになるような予感がした。
目を細めているように見えた老人がゆっくりと目を開く。老人が首をめぐらし、俺と目が合った。
いや、目が合うというのは少し違う。目のあるべき老人の両の眼窩には何もなかった。
黒く深い暗闇が二つぽっかりと口を開けているだけだった。
(見つかった!)
俺の危機感地が激しく警鐘を鳴らす。足を階段のほうに踏み出そうとする。
老人はこちらを見て確かに俺を認識した。
その証拠に無表情だった顔にゆっくりと笑みを浮かべる。
口の両脇が弧を描いて下弦の月のように吊り上がる。
邪悪な笑みを浮かべ黒衣の老人は長い両腕を左右に広げる。
その距離1メルス(1.5メートル)。
もう逃げられない。
その時、裕福な身なりの少年が立ち止まる。
少年は俺を見る。
「何だ、俺に用か?なんでこっちを見ている。この貧民が!」
その言葉と同時に、黒衣の老人が両手を高々と振り上げる。
細い両手はありえない長さで上空に伸びる。
そして、振り降ろされる。
人外の老人の腕は1メルスの距離を伸びて、俺の両脇を鷲掴みにする。
腹に尖った指先が食い込み痛みが走る。
思わず俺は身をかがめてうめき声をあげた。
黒髪の少年が怪訝そうに俺を見る。
まるで、老人のしていることが見えていないようだ。
黒衣の老人を見えているのは俺だけなのか?
「急に具合の悪くなった振りをして金でもせびる気か?とっとと失せろ!クズめ!」
と少年が俺をののしる。
黒髪の少年の後ろの護衛の一人がつまらなそうにあくびをして俺を見下ろす。
興味を失ったように少年は再び歩き始める。少年が俺の真横に来る。
黒衣の老人は体を90度ひねって俺に正対する位置に来た。
老人の両手の詰めに力がこもったのを感じた。
そして、左右10本の指が、俺の脇腹に一気に突き刺さる。
全身に電気を流したような激痛が走る。
「うわーっ!!」
と思わず叫んで、俺は老人の腕をつかむ。
両の掌に『ザリッ』と例のマジックテープの張り付く感触があった。
あの感触があると言うことは、こいつも他の霊と一緒で、吸収できるということだ。
こちらから『吸収』をやらないと、俺が黒衣の老人に吸収されてしまうような、恐怖心に支配された。
(やってやる!まだこんなところで消えるわけにはいかないんだ!)
両手に念を込めて吸収し始めると、俺の周りでバリバリと音を立ててイナヅマのような閃光が四方に走る。
「ぐあっ!」
と声を上げて黒髪の少年がその場に膝をつく。
「な、なんだ!」
「どうした!」
音と閃光に驚いて、二人の護衛が少年から2,3歩下がる。
更に念を込めて吸収し続ける。
閃光は俺の全身からほとばしり、大きな音がはじける。
両腕からありえない量のエネルギーが流れ込み、全身が熱くなる。
道の向かいの民家から、音と光に驚いて住人が数人顔を出す。何件かの家々の窓の戸が開く音がした。
老人の爪がさらに深く俺の体内に侵入してくる。
それは俺を吸収するというより、老人が俺の体内に入り込み、俺と同化して俺の体を乗っ取ろうとしているような感じだった。
(拙い!急がないと俺が俺でなくなる。エルが黒衣の老人に乗っ取られる!そんなことはさせない!ナコねーちゃんのエルは俺が守んだ!!)
「グ、ガガッガガガッ…!」
無意識に喉から変な声が出る。
ある程度吸収していると黒衣の老人のプレシャーが不意に緩んだ。
老人の体が一回り小さくなり嫌々をするように顔を左右に振る。
「うおーん、うおーん…」
老人が口を大きく開き、黒い深淵のような口から、むせび泣くような声が上がる。
(やった!勝てる!)
最後の気力を込めて、吸収し続ける。
不意に老人の姿が視界から掻き消えた。
その途端、閃光と音がぴたりと消える。
全身が高熱で火照った状態で俺は棒立ちになっていた。
視界がクリアーであらゆる感覚が過剰に強化されているのを感じる。
聴覚が鋭敏に研ぎ澄まされ、近隣のささいな物音や、人々の小声の会話など、普通なら聞こえないはずの小さな音が、耳元ではっきりと聞こえた。
そして、腹の底に何か黒いかたまりを感じた。
それは『怒り』の感情だった。
今まで感じたことのない黒い感覚に戸惑う。
黒衣の老人には勝ったが、吸収したエネルギーは俺の内面を変えてしまったのだろうか?
考え込んでいると、黒髪の少年が憤怒の形相で立ち上がり、顔を真っ赤にして俺をにらみつける。
「きっ、貴様!俺に何をした!俺に魔法で攻撃したな!流民のガキがふざけた真似を!」
次の瞬間、黒髪の少年は渾身の力で、俺の胸のあたりを蹴った。
小柄な俺は蹴られて後ろに飛んだ。
俺の後ろには何もなかった。
俺は高さ6メートルの擁壁を頭から河原の石に向かって落下していった。
声を上げる間もない。
ゴッ!鈍い音がして、白い火花が視界に散った。
そして…
俺は上空からエルの体を見下ろしていた。
(ああっ!!)
何が起きたのか分からなかった。
いや、分かっていた。
だが、認められなかった。
(勝ったのに、せっかく勝てたのに、なんで…)
自分の両手を見つめる。
自分の手は黒衣の老人のように細く、黒々として爪が尖っていた。
(駄目だ、こんなことは認められない…もう一度、もう一度あの体に戻るんだ…)
エルのそばに行き、その頬を撫でる。俺の手は無常にエルの体をすり抜けた。
何度も試すが、あの張り付く感覚は失われてしまっていた。
(どうしよう…どうしたらいい…ねーちゃんが、ナコねーちゃんが…)
「エル!!」
大きな声がした。
見上げるとナコねーちゃんが必死の形相で駆けてくる。
「エル!!」
叫んでねーちゃんはエルの体をかき抱く。
後頭部からおびただしい血を流し鼓動の止まったエルの体を揺さぶる。
「エル!!…エル!!…エル!!」
それだけを叫び続ける。
その命が戻ることが無いのは誰が見ても明らかだった。
「エル!!あの時だってだいじょぶだったんだ、エルは死なない…絶対に死ぬもんか!!」
叫び続けるねーちゃん。
これだ……。
…これが嫌だったんだ…。
これが見たくないから今まで頑張ってきたのに…。それをあいつが駄目にした。
…あいつは生かしておけない…絶対に対価を払わせてやる…。
腹の底から黒い感情がこみ上げる。今ならどんな残虐なことでもできる気がした。
4メルス上の擁壁を見上げる。
擁壁の上からはふてくされた顔の黒髪の少年が、口元にゆがんだ笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「ふん、無礼な貧民のガキは死んだか。当然の報いだな。なあ、お前らそうだな。俺は悪くないな」
と後ろの護衛たちに話しかける。
護衛たちは戸惑ったように顔を見合わせていたが、
「へ、へえ、まあ、あんなガキが死んだところで誰も困りせんしね。でも、坊ちゃん、さすがに貧民でも、ガキを殺したのは外聞が悪いなあ…。これだけ騒ぎになって大勢に見られたら、無かったことにも出来ないし、旦那さまにはなんて言えば…」
「ば、馬鹿!言う必要なんかないだろ、あんなゴミが一人死んだから何だってんだ!!」
あまりに酷い会話に心の底から怒りが沸き上がる。
…もういい…。
…ただでは殺さない。
悪霊として奴に取りついて未来永劫苦しめてやる。
そう心に決めて宙に飛び上がろうとすると、
「お前!」
とねーちゃんが擁壁の上をにらみつけて叫んだ。
「お前がこれをやったのか!お前があたしの大事な弟、エルを殺したのか!!」
エルの体をそっと下に横たえて、ねーちゃんは立ち上がる。
黒髪の少年は忌々しそうにねーちゃんを見下ろす。
「ちっ、家族がいたのか…クズ共がぽこぽこ増えやがって。迷惑なんだよお前らは」
「何だと、あたしらが何をした!!ただ必死に生きてるだけで、何をした!!この病弱ないい子が、どんな悪いことをした!!」
「そいつは魔法で俺を殺そうとした。だから死刑にしてやったんだよ。病弱だったなら世話をする手間が省けて良かったな。処理してやった俺に感謝しろよ」
と言う少年の物言いに、後ろの護衛たちもさすがに顔色を悪くして少年に背中を向けた。仲間と見られたくないかのように少し距離を取る。
「ああ、お前の魂胆は分かったぞ。弟が俺に殺されるように仕向けて、金をせびる気だな。この当たり屋め。そんなに金が欲しいならくれてやる。ほらよ」
黒髪の少年は上から硬貨を1枚投げてよこした。
ねーちゃんの足元で硬貨が跳ねる。
王国小銅貨だ
貧民の命は小銅貨1枚の価値しかないとでもいうつもりか。
「ふっ…」
ねーちゃんが両手を強く握りしめる。
「ふっ、ふっ、…ふっざっけんなぁぁぁぁっー‼‼」
叫んで右手を上に掲げると、頭上に青白い火球が出現した。火球は瞬く間に人間の頭ほどの大きさになる。
「うわ、なんだそれは!!」
と少年が火球を見て慌てる。
(駄目だ!ねーちゃん!)
止めないと…。
殺意を持って人に魔法放つと死刑になる。
復讐は俺がやるから、ねーちゃんには止めさせないと。でもどうすればいい。今の俺はただの霊体だ。人間を触ることもできない。一体、どうすればねーちゃんを止められる。
「死ね!!」
ねーちゃんが右手を少年に向けて振りぬくと、彼めがけて青白い火球がまっすぐ飛んでいく。
少年はよけようとしてのけぞるが、顔をかばって前に突き出した右手の二の腕に火球がかすめる。服の袖に火がついた
「うわ、こいつも魔法使いだ。熱い!おい!お前ら何とかしろ!!」
その間にねーちゃんは階段を3段飛びで駆け上がる。
擁壁上に姿を現したねーちゃんの前に二人の護衛が立ちふさがる。腰の警棒を抜き、片方がねーちゃんの頭めがけて振り下ろす。
だが、その手には戸惑いがあった。
殺さないように手加減した甘い振り下ろしだった。
相手の戸惑いの分だけ、ねーちゃんの飛び出す速度が勝った。
護衛は二人して前に出たため、お互いぶつからないように互いの距離に遠慮があった。二人の立ちふさがる中央にちょうど子供一人ならすり抜けられる隙間ができた。
警棒はねーちゃんの髪をかすめて空を切る。
ねーちゃんは二人の隙間に体を滑らせる。
「お前も、ここから落ちてみろ!!」
と、勢いのままに体ごと黒髪の少年に体当たりした。
二人の体が一つの塊になって宙を舞う。
黒髪の少年を下にして二人の体はエルの亡骸のすぐ横に落下した。
複数の骨が砕ける鈍い音がした。
(ねーちゃん!なんてことを…怪我…!怪我は…!?)
「ぐっ…」
呻いて身震いをしてから少年の体の上でねーちゃんが身を起こす。
どうやらねーちゃんは無事のようだ。
それに対して黒髪の少年は口から大量の血を吐いて、苦悶の表情で息絶えている。
明らかに死んでいる。
「はっ、はははっ、どうだ、ざまあみろ!やった!殺してやった!エル、仇を取ったよ。あは、あは、あはははは…、うっ、ぐふっ、エル…、エル…、うっ、うっ、エルぅー!」
ねーちゃんは少年の上に乗ったまま泣き出してしまった。
涙で顔がぐちゃぐちゃにして泣きわめく。
「やってくれたな…」
二人の屈強な男が手に警棒を持ち、ねーちゃんの後ろに立っていた。
「このままじゃ俺たちも帰れねえ。お前には死んでもらうぜ」
リーダー格と思しき、体格のいい、厳つい方の男が警棒を振り上げる。
振り上げた腕は、男の頭上でばねのように引き絞られている。
こんな一撃を食らったらねーちゃんの頭が砕けてしまう。
(駄目だ!逃げろ!ねーちゃん‼)
ねーちゃんは男の声にも無反応でただ泣きじゃくっている。
逃げようとする素振りはない。
その腕が振り下ろされようとしたその時…