表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/146

15 河原での別れ1

この王国の気候は、前世ヨーロッパの地中海性気候に近いものだ。


今はどうやら夏らしい。


気温が高くからりと乾燥していて、ほとんど雨が降らない。そうでなければ、ぼろ布を屋根にした、河原の掘っ立て小屋で、今まで生活することなどできなかっただろう。


冬は雨の多い亜熱帯気候になるが、気温は温暖なので、雨さえしのげれば凍えることは無いという。貧民にはありがたい環境だ。


「こんなところでいつまでも暮らせないぞ。俺がいなかったらお前らどうしたんだ?」


と、昨日ぼろ小屋に来たゼスは、天井を見上げてあきれたように言った。


神殿から逃げるためとは言え、結果的に雨の降らない夏のうちに転居先が見つかって良かった。


目が覚め、掘っ立て小屋から顔を出す。


河原の一面に濃い霧が立ち込めていた。


数メートル先の水路の水面もよく見えない。


こんなことはここに来て初めてだ。


霧が立ち込めるほど湿度が高くなることは、これまでに無かった。


ねーちゃんはまだ寝ている。


俺は小屋の外に出て、水音のするほうに歩いていく。


すぐに水路の水辺にたどり着く。


水路の水面は、気流の関係か、少し霧が少なかった。


不意に背筋に寒気を感じた。


次に背中から首筋に欠けて、おぞ気が走る。


何かがおかしい。


俺は周りの霧の中に人の気配を感じていた。


それも一人ではない。


数人でもない。


空間という空間すべての場所に、人の気配が満ち溢れていた。


まるで、見えない群衆の真ん中に、いきなり放り出されたようだ。


ねーちゃんを呼ぼうと声を出すが、口から音は出ない。


俺は異空間にとらわれた錯覚に陥り、パニックになりかけた。


いや、錯覚でなく。今だけ本当に異空間に来てしまったのかもしれない。


しかし目の前には確かに水路があり、水の流れがある。


完全に違うどこかに来てしまったわけではない。


この状況はじきに終わると、自分に言い聞かせて、恐怖を押し殺す。


幽霊とは違う。


もっと次元の違う大きな存在だ。


それは感覚で分かる。


自分よりはるか上位の何かだ。


それが自分の周りの空間にただ有る。


何かの声の聞こえた気がする。


耳をそばだてて息を殺す。


さざめくように誰かが会話をしている。


何を言っているのかは分からない。


聞き取れるのだが、俺の思考がそれを言語として認識できていない。


寒気は全身に広がっている。


これ以上耐えられそうにない。


叫びたいのに、声は出ない。


頭がおかしくなりそうだ。


時間の感覚がなくなり、その状態で1分経ったのか1時間経ったのか分からなくなった。


不意に、俺の周りの圧力がかき消えた。


霧はそのまま残っている。


誰かの気配がした。


自分の全身が温かい何かに包まれた。


…逃げなさい…


何かの『存在』が言う。


(どこから?)


…ここに居てはいけない…


(ここって?)


男性とも女性ともとれる中性的な声。


聞いていると心が落ち着く。


脳に直接語り掛けるような静かな響き。


…あれに会ってはいけない…


(何を言っている?)


…いけない…


………


不意に温かい気配が霧散した。


そして、『存在』の気配も無くなる。


緩やかに霧が拡散していく。


すぐそばの水辺で、ナコねーちゃんが顔を洗っていた。


「今の霧は何だったんだろーねー。珍しいね」


とのんきな顔をしている。


「ねーちゃん…、あの声が聞こえた?」


と、確認する。


「声?誰の?」


と怪訝な顔で首をかしげる。


ねーちゃんにはあれが感じられなかったようだ。


ただ、季節外れの濃霧を不思議がっている。


立ち上がり、ぼろ布と木の枝で組まれた掘っ立て小屋を振り返る。


「今日で、こことも、おさらばね」


と忌々しそうにぼろ小屋を睨む。


「荷造りしろって言われたけど、荷物なんかないから、ただ待ってるだけね。あ、あの球根は持って行かないとね。まさかあれが王国金貨20枚なんて誰も思わないから、その辺に転がしておいても、盗まれないよね。引っ越したら、まず、あれを売りに行って、前払できっちり家賃を払ってやるよ。あたしたちは乞食じゃないからね。対等な立場であいつをもうけさせてやるんだ。見てなよ。しっかり儲けて、エルの病気もきっと治すからね」


ねーちゃんは意気軒昂に、夢を語る。


だが、俺の病気は医者にかかったくらいで治るものとは思えない。癒しの魔法は万能でないという話だし、この世界の医療が前世のように進んでいるとも思えない。


俺の憑依が無かったらとっくに居なくなっている体だ。


現状でもどれだけ維持できるか分からない。


いつかは別れる日が来るだろう。


仮にそれが避けられないとしても、ねーちゃんの生活が良くなり、独りで自活できるようになるまではなんとかもたせたい。


その頃には、陽気なねーちゃんの周りには大勢の助けてくれる人たちがいて、俺一人いなくなっても大丈夫になっているはずだ。


暫くは悲しむかもしれないけど、一時のことだ。


その日が来るまで俺はエルとして、ねーちゃんの心をできるだけ支えよう。


いい思い出をたくさん作るのだ。


それが、今の俺にできる唯一のことだ。


それにしても、さっきの濃霧のあれは何だったのだろう。


俺がこの世界に来たのと関係があるのだろうか。


だったら、あんな中途半端な忠告じゃなくて、はっきり、『ああしろ、こうしろ』と言ってほしい。俺は、主体性のない指示待ち人間なのだ。ヒントじゃなくて、『こうすれば100点だ!とにかくこれをやれ!』と『正解』を教えてほしい。


そうでないと怖くて一歩も前に進めない。今までの自分の行動が失敗だらけだったので、自分の決断と言うものを、俺は1パーセントも信用してない。


俺はバカでアホで無能なのだ。


こんな野郎の言うことを信用して今までどれだけひどい目に会ってきたか分からない。


俺は、俺の人生の中で、俺に騙され続けてきた。


現実に夢なんてない、というのが俺の35年の糞人生の中での最終的な結論だ。


もちろん、努力と挑戦によって、バラ色のキャッチコピーそのままに、素晴らしい人生を送る人もいるのだろう。


高校生の頃の人生設計そのままに、大リーグでホームランを打ちまくるプロ野球選手や、ヨーロッパの有名サッカークラブで活躍する、プロサッカー選手。会社を立ち上げ、一代で大企業に育て上げるIT社長、などを見ていると、『夢っていいね』と超ネガティブ陰キャの俺ですら楽しい気持ちになる。


前向きに努力して成果を上げる人達の、活躍する姿は美しいと思う。


ただ、悲しいことに、それは俺と言う人間には、まったく120パーセント適用されないというだけの話だ。


俺は俺に何も期待していない。


いつの間にか、自分に何かを期待することが、かけらも出来なくなってしまっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ