134 アスルの決意
俺達の滞在している宿を教えて、その日はカディスさんと別れた。
翌日の昼頃に、大きな背負子を背負ったカディスさんが、俺たちの宿にやって来た。
「少し遅くなったな。頼まれていた素材などを採取していたら、時間がかかってしまった。この宿に空いている部屋は有るかね」
色あせた短衣に古びた編み込みサンダルを履き、肩までの深緑の髪が緩やかにウェーブしている。
上背があり、胸板が厚い。
二の腕が丸太の様に太く、腿の外径が女性のウエストほどもある。
アスルも同様にでかいが、体の厚さではカディスさんに負ける。
この体なら、森の荷物持ちを生業にしても、問題なくやっていけるだろう。
(とは言っても、こんな身なりでも、この人、元王族なんだよな……)
俺とアスルは、気を利かせて、今までの部屋から、二人で別の空き部屋に移った。
ハルマは元の部屋に残り、そこにカディスさんが加わって、伯父と甥の二人暮らしをすることになった。
積もる話も有るだろうと思い、彼等の部屋に近づかないようにして、居間で休んでいたが、英子の姿が無い。上の部屋から、英子の笑い声が聞こえてきた。
俺は階段を登り、ハルマの部屋をノックしてから、開ける。
英子がニコニコして、カディスさんに話しかけているのが見えた。
「おい、英子」
呼ぶが、知らん顔の英子。
「エイコさん。ガイ君が呼んでいるよ」
とカディスさん。
英子が一瞬不機嫌な顔になるが、次の瞬間、余所行きの表情に戻って、俺に笑顔を向ける。
「なあに、ガイ君。今、お話中よ。用事は後にしてね」
とかわいく言う。
(うっ、気持ちわりい……)
「英子よ。大事な話だ。お前の宿代が未払いなので、とっとと出てい行けとラシューさんが言っているぞ」
「なっ!そんなわけないわよ!ちゃんと払ってるわよ!」
「それを自分で言え。俺は知らん」
「まったくもー。ああ、カディスさん、ハルマ君、ちょっと下で話して来るね」
と部屋を出る。
階段を降りて居間を見回す英子。ラシューさんの姿は無い。
「あれ、ラシューさんは?」
「居ない。さっきのは嘘だ」
「はぁ?あんたなんで、そんな嘘つくわけ?」
「しばらく、彼等を二人きりにしてやれ。他人に聞かせられない、積もる話が有るはずだ。気が利かない奴だな」
「何言ってるのよ。あの二人、会ったばかりなのよ。私みたいな女の子がいた方が、話しやすいわよ」
「彼らがそう言ったのか?」
「言わないわよ。そうかなと思ったの」
「そう言うのを何て言うか知ってるか。『大きなお世話』って言うんだ。この馬鹿垂れが」
「あんたは気を遣い過ぎなのよ。そんなに細かい事ばっかり気にしていたら、ハゲるわよ」
「何で、前世の俺がハゲていたことを知ってるんだ?」
「知らないわよ!…って、本当にハゲてたのね。でも三十代だったんでしょ?ハゲるの早すぎない?」
「完全なハゲでなく、薄毛と言う奴だ。鏡を見ていて、ある日気が付くんだ。『あれ、なんか地肌の肌色が髪の毛の間から、けっこう大量に見えてるんじゃね?』ってな」
「それが何?もう、戻るわよ」
「いや、しっかり聞くんだ。大事な事だ。ここで、ハゲの行動は二つに分かれる。『諦める派』と『悪あがきする派』だ」
「何が言いたいのよ」
「ここまで言って分からないのか?」
「あんたの頭の中が、おかしな迷宮みたいになっているって事だけは、分かったわ」
「それなら、はっきりと言ってやる。つまりな……」
「あほくさ。あんたは人の恋路を邪魔して、説教しようとしてるんでしょ?ハゲの心を例えに使われても、何一つ心に響かないわよ」
「何だと!ハゲを馬鹿にするな!」
「もーいい。お風呂に行って来る。セシルちゃーん、どこいるの⁉お風呂行こー!」
英子はセシルと連れ立って、公共浴場に行ってしまった。
「なんて奴だ!俺の話を真面目に聞け!五分だけでもいいんだ!せっかくいい事を言おうとしたのに」
(まあ、英子をあの部屋から追い払うのは成功したから、結果オーライか)
一階の居間に居るのは俺だけだ。
(あれ?アスルが居ないぞ)
俺は裏庭に出てみた。
井戸の横でジッとしゃがんでいるアスルが居た。
「何をしている?」
と声をかけた。
「ああ、ガイ君か……」
顔を上げて、かすかに微笑むアスル。
「英子の事を気にしているのか?」
「エイコさんが冷たいんだ。前みたいにふざけてくれないんだよ」
「アスル、お前は悪くない。あいつは年上のおっさんが好きなんだ。そう言う性癖の女なんだ」
「俺じゃ、駄目なのか?」
「見込みは有るらしい。お前が英子より十五歳ほど年上なら、振り向いてくれるかもしれないな」
「俺はエイコさんより二歳しか年上じゃない。どうやったらそんなに年上になれるんだ?」
「時間魔法でも使えない限りは無理だな」
「そんな魔法聞いたことが無い」
「つまり、不可能って事だな」
「胸が苦しい。こんな気持ちは初めてだ。俺はどうなってしまったんだ?」
「諦めた方がいいぞ。アスルくらいイケメンなら、他に相手はいくらでも見つかるだろ?」
「嫌だ。エイコさんがいいんだ」
「あれを追いかけても難しいぞ。辛いだけだぞ」
「それなら、ガイ君は、好きな女に振られても、すぐにぱっと諦められるのか?」
「そんなわけないだろ!血の涙が出るかと思ったわ!でも、相手の為にも、自分の想いを諦めないといけない時があるんだ」
「それほどの失恋をしたのか?」
「ああ、諦めようと思っても諦められなくて、そんな自分が辛くて、何もかも捨てて逃げた」
「そうか…、ガイ君みたいな貴族の子が、なんでこんなところまで逃げているのかと思ったが、失恋か……」
「あのまま王都に居たら、俺は生きていられなかった。本当は死んでも良かったはずなのに、何故か死にたくなくて、それで、生きる為に俺は逃げたんだ。情けない男だろ?」
「いや、気持ちは分かる。情けないのは俺だ。俺も逃げたいよ……」
「何言ってるんだ。俺とアスルには決定的な違いがある。それが何だかわかるか?」
「何だ?分からん」
「それは俺が不細工で、お前はイケメンって事だ」
「振られたら、どっちも一緒だ」
「いや、違う!違うぞ!不細工が失恋しても、ぷぷーと笑われるだけだが、イケメンが失恋したら『可哀そう。私が慰めてあげたい!』って美女が大挙してやって来るんだ。イケメンの後ろにはいつでも、いい女が順番待ちの行列をしているんだ!」
「そんな行列は要らん。好きな女一人に振り向いてもらえればそれでいいんだ。それがかなえられないなら、いくらモテても意味がない。ガイ君はそんな行列が欲しいのか?」
「そう言われると、別に欲しくは無いな」
「そう言う事だ。俺を慰めようとしてくれるのは分かるが、俺が欲しいのはエイコさんだけなんだ」
「あれの、どこがいいんだ?人はいいが、基本的にアホだぞ」
「エイコさんを悪く言うのは、ガイ君でも許さないぞ」
「重症だな。お前の気持ちは分かった。だが、望みは薄いぞ」
「それでも、諦められない」
「そうか、頑張れとしか言えないな」
「それより、ガイ君はセシルのことをどう思っているんだ?」
「セシルか?どうと言っても、悪いが、恋愛対象には考えられないな」
「なぜだ。兄貴のひいき目だけでなく、セシルはかわいいぞ。うちの村と隣の村で、セシルを取り合って、戦争になったくらいなんだぞ」
「マジか?それは凄いな」
「普段は何も言わないが、その事をセシルは凄く気にしているんだ。戦争の直前に俺とセシルは村から逃げたが、多分、あの戦いで村に死人も出ているはずだ。村長からの手紙には戦いに勝って、隣村の連中を撃退したとしか書いてなかったがな」
(それで、セシルは彼女の事で俺と英子が口論になると、あんなに慌てていたのか。別に、自意識過剰のヒロインムーブで、『私の為に争わないで』と言っていたわけでは無いんだな)
「セシルはガイ君の事が好きなんだ。どうか、あいつの気持ちを真剣に考えてやってくれないか?」
「んー、しかし、彼女はまだ、十四歳だ。子供だぞ。これから多くの男と出会うだろ?今は熱病の様に俺の事を好きだと言っているが、それは今までの出会いが少なかったからだ。もっと、出会いが増えて、イケメンに告白されたり、優しくされたら、きっと気持ちも変わるはずだ。俺なんかで妥協してしまうのは、悪手だぞ」
「自分を低く見るのは、ガイ君の悪い癖だ。セシルの旦那になれるような人間が、この国にどれくらい居るか分かるか?あいつに釣り合う人間なんてほとんど居ないんだ」
「だったら、俺なんかもっと駄目だろ?」
「逆だ。普通の人間では、セシルと夫婦になるのは無理だ。あいつは可愛くて才能のある魔法使いだ。あいつの事を知ったら、色々な人間が欲まみれで、セシルを手に入れようとしてくるだろう。人がいいだけの力の無い人間では、あいつを守れない。いざと言う時に、敵を蹴散らして、あいつを連れて地の果てに逃げられる人間でないと、駄目なんだよ」
「しかし、俺は呪われている。この呪いが進行したら、俺は悪魔になってしまうかもしれない。そうなったら、俺は神殿や、国に討伐されるだろう。そんな俺と一緒に居たら、セシルも殺されてしまうぞ」
「賢者ヒューリン様の言葉を聞いていなかったのか?セシルはガイ君の呪いを緩和できるんだ。つまり、セシルと結婚すれば、その呪いが発動した時に、すぐに治療が出来るってことでもあるんだ。それが分かっているから、賢者様は、セシルが君を愛している事を確認して、呪いの治し方を指導してくれたんだぞ」
「えっ、あの婆さんに、そんな深い考えは無いと思うぞ」
「君は、あの方の優しさが分かっていない。あんな思慮深い方が、無意味な事をする訳は無いだろ」
「ええー……?」
「君ならセシルを任せられると、俺は思っている。君もセシルと結婚すれば、呪いを押さえられて、普通の生活が出来る。何が問題だ?二人が結婚して、いい事しかないじゃないか」
「いや、そう言われると、そうなんだが、十四歳の少女に、いかがわしい気持ちを抱くのはコンプライアンス的にNGと言うか、『事案』になってしまう点で、非常にまずいと言うか……」
「また、難しい言葉で、誤魔化そうとしているな。ガイ君は十五歳だろ。一つしかセシルと違わないじゃないか」
「いや、王都で駄目な大人とばかり関わって来たせいで、俺の心は三十五歳のおっさんなんだ。セシルのことは、かわいい親戚の姪っ子くらいの感じでしか見られない」
「それなら、とりあえず、婚約しておいてセシルが成人してから結婚してもいいんじゃないか?子供の頃から婚約するのは貴族ならよくやる事だろ?それで、セシルと君の関係も決まって、二人とも安心して、これからの将来を考えられるじゃないか」
「それはそうかもしれないが……」
「それとも、ガイ君は、王都で失恋した相手にまだ未練があるのか?」
「未練が無いと言ったら噓になるが、もう終わった事だ。俺と彼女の人生は、はっきりと道が分かれてしまった。彼女はもう、俺が願っても会う事も出来ない、別世界の人間になってしまった。有名人だからな」
「セシルは君の呪いを治したくて、毎日、必死に鍛錬してるんだ。どうか、あいつの気持ちを受け入れてくれないか?俺がエイコさんに振られて、あいつまで君に振られたら、悲しすぎるぞ。俺はあいつにはいつも笑顔で居て欲しいんだ。兄貴の勝手な想いを押し付けるみたいだけど、どうか頼む。セシルを嫁に貰ってくれ」
「……」
「駄目か?」
「………少し考えさせてくれないか」
「ああ、いいぞ。どうかセシルを頼む」
「……」
考えると言ったが、これで断ったら、何か悲惨な事になりそうな気がする。
よくよく、考えて見るが、どうしてもこの話を断らなければならない、理由が見つからない。
(ここで、彼女と所帯を持つのか?)
それで平穏に暮らす自分の姿を想像してみる。
その想像は意外に悪く無かった。
ミーファへの想いをいつまでも抱えているより、その方が前向きに生きられるかもしれない。
その翌日から、裏庭で剣の鍛錬をする、カディスさんとハルマ、アスルの三人の姿があった。
「それでは、アスル君、いつでも攻撃したまえ」
細剣に見立てた、細めの木剣を構えるアスル。
カディスさんは戦場剣に見立てた短い木剣と円盾を持って、構える。
「ヒュッ!」
アスルの持つ剣の先が残像を残して消える。
カッ!
乾いた音がして、カディスさんの円盾がそれを受ける。
カカカカカカカカッ!
連続で繰り出す、アスルの攻撃のことごとくを、円盾で防ぐカディスさん。
「ふむ、速いな。大したものだ」
と余裕の表情のカディスさん。
「なぜ、これを受けられるんだ?見えているのか?」
自分の攻撃の全てが防がれた事にショックを受けて居るアスル。
「見えるわけはない。君の剣を肉眼で見える人間はほとんど居ないだろう。目に身体強化を掛けられる魔剣士なら、見えるかもしれないな」
「じゃあ、どうやって防いでいるんだ?」
「うん、君の体の動きから、予測している。剣が見えなくても、事前に攻撃の場所が分かっていれば、そこに盾を構えておけばいい。君の剣は我流だな。君の身体能力なら、そのままでも、ほとんどの剣士には勝てるだろうが、剣の達人には通じない。今より強くなりたいなら、剣術の基礎を学ぶ必要があるかもしれない」
「そうか…、なら、あなたはそれが教えられるのか?」
「どうかな?いや、とりあえず、基本は教えられる。ただ、それが君の為になるかは分からない。剣の道は深く遠い。何が正解かは誰も分からない」
「だが、今のままでは駄目だと思う。俺に剣を教えてくれないだろうか?」
「ああ、構わない。だが、これをやれば強くなるなんて、都合のいい奥義は無い。しばらくはハルマと一緒に鍛錬してみるかい?」
「ハルマと?俺はそんなに弱いのか?」
「いいや、そうじゃ無い。結局のところ、初心者が教わることを完璧に出来れば、それでもう達人なんだ。初心者も達人も、目指す場所は同じなんだよ。だから、実は剣術の初歩を教えた後は、あまり教える事は無い。強くなりたいなら、各自が自分に合ったように研鑽していくしか無いんだ。
他人に厳しく教わって鍛錬するのが有効なのは、実力の低い人間だ。短期間に強い軍を作り上げるには、画一的な厳しい鍛錬は有効だが、剣の頂点を目す人間がそんな鍛錬をしても意味がない。むしろそうして、変な癖をつけてしまうと逆に弱くなる。
強くて才能のある人間は子供の頃から自分で考えて、独自に訓練をしているものだ。そう言う人間が騎士団に入って、見当違いの鍛錬を押し付けられて、才能を潰されてしまうのはよくある話なんだ。
幸い、君には変な癖がついていないから、これから、いくらでも強くなるぞ」
「何だか分からないが、カディスさんの言葉には説得力があるな。俺にその基礎を教えてくれ」
「ああ、いいぞ。だが大事なのは、私が教えたことを守らない事だ」
「は?」
「一度聞いたことをしっかり覚えて、実践して、次は教わったことを、全て忘れるんだ。そうしないと強くならない」
「すまん、何を言っているのか、さっぱり分からない」
「そうだろうな。だが、私がこう言っていた事だけを、今は覚えて起きたまえ、そして、剣の修行に行き詰った時に、思い出したまえ。その時に、初めてこの言葉の意味が分かるようになる」
「わ、分かった。今は何を訊いても理解できそうにない」
それから二週間ほど、アスルとハルマはカディスさんに教わって剣の修行を続けた。
その間、手作りのクッキーなどを前世の記憶で英子が再現して、休憩する三人に、いそいそと差し入れで持って行く。彼女のクッキーは概ね好評で、一部を、ハランさんの屋台でも売ることになった。ただ、砂糖が高級品なので、一般販売分は、甘くない、乾パンの様な物になってしまった。それでも、口当たりのいい保存食として、森に入る狩人達からの人気商品となった。
「もう、教える事は教えた。あとは独自に研鑽するといい。
模擬戦ならいつでも受けるが、あまり木剣で鍛錬しても、良くない。真剣の感覚と狂うからね。戦があれば、戦場で実戦をこなすのが一番いいのだけど、この、西では戦がここ十年無いからね。ここでは、森の魔獣相手に鍛えるしか無いな。
魔獣と対人戦では戦い方が変わるが、動きの速い魔獣に勝てれば、人間はそれより弱いから、ある程度はその鍛錬で問題は無い。
そこから先は、強者を求めて流浪する修羅の道になるが、そこまでの力を求めるかどうかは、そこに至ってから考えればいい事だ」
その日の鍛錬を終えたカディスさんは、満足そうにそうアスルに告げた。
「ありがとうございます。カディスさん」
と静かに感謝の意を伝えるアスル。
「じゃあ、みんなで浴場に行こうか」
と連れ立って三人で風呂に出かけて行った。
俺は彼らの鍛錬に参加しなかった。
俺の剣の師匠はモンマルなので、他の人に教わるのはなんか嫌な気がしたのだ。
翌日、アスルに庭の隅に連れていかれる。
「俺は森に入る。しばらく森の深部で修行をしてくる。みんなには俺が行った後で伝えてくれ」
「一人で森に入って大丈夫なのか?危険だぞ」
「俺は強くなりたいんだ。危険は臨むところだ。ハルマの護衛の仕事はもういいだろう。依頼は果たした。これからは自分の時間だ」
「英子のことで、やけになっているわけじゃ無いよな?」
「ははは、そんな事でヤケにはならない。だが、今の俺ではエイコさんを守れない事も分っている。ガイ君にセシルを守って欲しいと言っておいて、俺が弱いままでいるわけにはいかないからな」
「アスルは俺より、ずっと強いぞ」
「いや、そうじゃ無いんだ。ガイ君には強さ以上の何かが有る。運命を引き寄せる力とでも言うのかな。君の周りでは全ての物事がいい方向に向かって行くような、不思議な安心感があるんだ。だから、セシルの事も君に任せれば安心だ。どうだ、あいつの事を考えてくれたか?」
「あ、ああ、考えた。もし、こんな俺でいいのなら、セシルと夫婦になりたいと思う。でも、本当にいいのか?俺だぞ?」
「ふっ、良かった。その言葉を聞けて、ほっとした。セシルにも同じ言葉を聞かせてやってくれ。あいつ、喜ぶぞ。それで、もし、森で俺に何かあったら、あいつを支えてやってくれ」
「不吉な事を言うな」
「死ぬ気は無いが、万が一がという事があるだろ?まあ、必ず帰ってくるつもりだから、今回は内緒で行くんだ」
「どのくらいで帰って来る?」
「分からん。一月か二月か。自分の納得がいくまで森で鍛えたい」
「行ったり来たりじゃ駄目なのか?」
「ここは快適過ぎる。逃げられない場所で自分を追い込みたいんだ」
「そうか、俺がやった回復薬はまだあるか?」
「ああ、もらうばかりで、使わないからたくさん残っている」
「そうか、無理するなよ」
「いや、無理をしに行くんだ」
「はは、それもそうか」
「じゃあな」
「ああ、気を付けて」
後ろ向きで手をひらひら振って、裏庭からそのまま道に出ていくアスル。
肩掛け一つ剣一本の軽装で、彼は暗黒の森に向かって行った。
俺はそれをただ見送る事しかできなかった。
そして、何故か罪悪感があった。
それが何に対する罪悪感かは、自分でもよく分からなかった。
一旦部屋に戻り、自分の荷物の奥に入れてあったミーファのぼろ布を取り出した。
汗や皮脂や、土ぼこりの混ざったような汚れがこびりついていて、布は何とも言えない悪臭がした。
(これを洗わないで大事に持っていた俺は、ちょっとおかしいな)
王都から脱出した時の俺は、それだけ心が病んでいて、正常な判断が出来ていなかったのだろう。
布を持って井戸の端に戻る。
手桶で布に水をかけて、そこに置いてあった石鹸で布をこする。
汚れが酷くて、最初は泡も出なかった。
真っ黒な液体が、布から流れる。
(これは俺の心の淀みだな……)
何度か丁寧に洗って、汚れが大分落ちた。
布の色が薄くなる。
匂いを嗅いでみると臭みは無くなっていた。
この世界の石鹸はほぼ無臭で、前世の石鹸の様にいい匂いは無い。
前世の石鹸は香料を足して香り付けをしてあるのだ。
この世界の石鹸には実用品の機能しか無い。
「まあ、これでいいかな」
満足して、裏庭の木の枝に布を干して置いた。
翌日取りに行くが、布はその枝から無くなっていた。
辺りを探すと、便所掃除当番のハルマが、俺の布を手にして、裏庭の角の便所の壁を一生懸命にこすっていた。
(あー、そうだよな。あんなぼろ布、他人から見たら、ただの雑巾代わりにしか見えないよな)
何も言わずハルマに背を向け、一度も振り返らないで自分の部屋に俺は戻った。