〜生活に潜む予兆〜
前編
春の風が心地良い日、僕はある賃貸アパートに越してきた。築四十年の見るからに古そうな建物だ。間取りは1ルームで鉄筋コンクリートの住宅。
内見時に呟いた一言だった。
南向きなので太陽の光が部屋に入り込み日中は明るくカーテンを開けなくていい程だ。
キッチン付近の棚には、前の住人が置いて行ったと思われる青いコップがあった。「片付けていけよ」と思いながら、そのコップを収納棚にしまった。
なぜ、この部屋を選んだかというと駅から徒歩十五分で立地が良く、何より窓から見える景色が気に入ったからだ。おまけにコンビニやスーパーも近い。他に何件か内見をしたがほとんどが築年数は浅めだが、最寄りのコンビニでさえ車を使わなくてはならない距離にあるというデメリットがあった為だ。僕は大学二年生。ついこの前まで実家で暮らしていたが一人暮らしの憧れから地元の空き部屋を探していたのだ。
借りた部屋は四階建てのうちの二階の部屋だ。ふと、隣人宅はどんな人が住んでいるのか気になった。今の時代、防犯上近隣への挨拶は行わないのが一般的になりつつある。
しかし、挨拶をしなきゃという思いに駆られ挨拶に向かった。
インターホンを押す。待つと、若い女性のような声で
「はい」
と聞こえた。
僕は、
「隣に越してきた者です。宜しくお願いします」
そう言い、部屋から出てくるのを待ったが彼女は部屋から出てくることはなかった。持ってきた手拭いが入った紙袋をドアノブに掛け自分の部屋に戻った。
それから、一週間が経ち学校に行く支度をしているとインターホンが鳴った。ドアスコープを覗いてみると、三十代前半くらいの女性がドアの前で立っていた。僕は隣に住む女性だと直感で分かったが時間がなかった為、玄関のドアを少し開け
「今、時間がないのでまた今度にしてもらっていいですか?」
といった。
彼女は
「先日、ご挨拶ができずに申し訳ありませんでした。これパンケーキ焼いたのでよかったら食べてください。」
彼女は、袋を差し出し笑顔を見せた。僕も頭を軽く下げ、笑って見せた。その後、静かにドアを閉めた。もらった袋を机に置き、急いで学校に向かった。その日から僕は、女性のことを考えるようになった。好意を抱いている訳ではないが、独特な雰囲気というかどこかミステリアスな彼女には強いインパクトがあった。
「おはよう健!」
健とは僕の名前だ。同じ学校に通う唯が話しかけてきた。唯とは幼馴染で小中高と大学が同じだ。なんでも話合える仲だ。いつもなら僕も「おはよう」というところだか、今日は少し違った。なんか気力がないというか、気分がふわふわしていたのだ。その時、周りがざわついたことで悪いことをしてしまったことに気がつき、慌てて
「おはよう」
と返事をした。唯は少し困ったような様子だったが、元の表情を取り戻した。
僕は窓側の席だ。授業中はほとんど、空を見上げている。一時間目が終わったとき、空が曇りはじめた。「雨降りそうだな」そんなことを思っていた。その後、昼近くになっても曇りは続いた。教室の様子も少し暗く感じた。僕は、友達は少ないが学校生活に対する不満はなかった。トラブルに巻き込まれることを恐れていた。高校生だった頃は常に人間関係やら悩まされる日々だった。当時テニス部に所属していたが、まだ始めたばかりで上達するのに他のチームメイトより時間が掛かっていた。そのことに、嫌気が差したチームメイトが僕のテニス道具を隠したり、事実と異なる噂を流したりしていたのだ。放っておいたら治まるだろうと思っていたが、エスカレートする嫌がらせにしんどくなり、部活に行かなくなっていた。放課後、窓からグラウンドを見下ろす。一番右側の端がテニス部のエリアになっている。外から見ると、皆楽しそうにテニスの練習に打ち込んでいる。いじめを受けている様な人は一人もいないように思えた。中には、僕が経験したような苦しみを今感じている人もいるかもしれない。それでもそれを見られてはいけないと思うのか、相手には分からないように接する。一つの防衛本能みたいなものだろう。自分もかつて周りの人に知られないようにやってきた。それで、バレていたかは知らないがもし知られていたら誰か手を差し伸べてくれる人が現れたかもしれない。
その日の学校は終わった。いつもと変わらない帰路についた。学校は変わらないが住む場所が変わっただけでなんだかワクワクした。元々、一人になるのは嫌いじゃなかった。人と関わるのは色々と面倒。そう思っていた。
夜になり、晩御飯の準備をしていた。節約の為自炊を始めた。米を炊き、家にあった野菜を炒める。目分量で調味料を加えていく。醤油、胡椒、焼肉のタレ、美味しそうに出来上がった。食べはじめたとき、隣の部屋から喧嘩するような声が聞こえてきた。あの、女性の部屋からだ。築四十年経っているだけに壁は薄いように思えた。ガラスが割れるような音も聞こえる。隣に住む女性は一人暮らししているように思っていたが誰かと同居している、そう思った。クレームを言いに行こうか悩んだが、行くのをやめた。単にクレーマーと思われたくなかったのだ。
その後も、騒音は鳴り止まなかったが僕はイヤホンを付け気を紛らわせた。シャッフルで音楽を再生していく。新曲や懐メロを聴いていくうちに、気がついたら隣人の騒音はしなくなっていた。
その時、僕は不思議に思った。「鉄筋コンクリートのはずなのになぜ物音が聞こえるのだろうか。」確かに、木造住宅と比べて、鉄筋コンクリートは隣人からの物音が聞こえにくいのが特徴だ。それなのに、まるで木造住宅かのように隣人の声が丸聞こえだったのだ。
「築年数が古いから脆くなってきてんのかな。」
そう独り言を言い、晩御飯を済ませ、食器を洗い、寝る準備をして布団に入った。
僕は、布団の中でこんな事を考えていた。
「隣の人の部屋はどんな部屋なのかな」と。間取りは自分の部屋とそんなに変わらないと思うが、隣人のことを気にするのは住んでいれば自然の事だと思う。
次の日、いつも通り学校へ向かうとき玄関でたまたま隣人の女性と会った。
「おはようございます。」
僕がそう言うと、女性も
「おはようございます。昨日は騒がしくなかったですか?」
と聞いてきた。どうやら昨晩の喧嘩の音の事を気にしていたようだ。
「昨晩ですか?全然気にならなかったですよ。」
そう僕は答えた。
「それじゃ。」
僕は、その場から離れた。
少し歩き、後ろを振り向くと女性はどこか寂しそうな目で僕を見つめていた。「そういえば女性の名前聞いたことなかったな。」次会ったときに、女性の名前を聞くことにした。まさか、隣人とこんなに話す仲になるとは。僕は一人で微笑んだ。




