特別じゃない日 その3
軽く挨拶をするとローザはステラの視線までかがむ。
「あ、今日はぬいぐるみ持ってないのね。雨降りだから置いてきたの?」
「んーん。あそこ」
首を振るとステラはカウンターの後ろにある棚を指す。
そこには釘のようなものに引っ掛けられ、たれる雫で下に水溜りを作っているぬいぐるみがあった。
それを見てアルフレッドはシャルルに聞く。
「雨で濡れたのか?」
「いや、落として汚れたから洗った」
「シャルルが?」
「洗ったのはな。落としたのはステラだ」
「ステラちゃんがおんぶしてたんだけど、手に持とうとして床にぽてっとね」
「なるほど」
パメラの言葉にアルフレッドは頷く。
そんな話をしているシャルルたちに、興奮気味にステラが何かを言っているのが聞こえてきた。
「ぼーる! ぼーる!」
ステラが飛び跳ねながら指差すのは棚に置かれた直径30cmくらいの青いボール。シャルルがステラのために購入し、いちいち持ってくるのが面倒だから置いておいてもらっているものだ。
「え? ボール?」
そう言ってパメラが棚からボールを取り渡そうとするが――ステラの手に渡る前にシャルルがそれを取り上げる。
「すてらのぼーる!」
ステラはシャルルからボールを取ろうと飛び跳ねるが、当然まったく届かない。
「建物の中でボールは駄目だと言っただろ?」
「じゃ、おそと。おそとで」
「雨が降ってるから外も駄目だ」
「でもっ、でもっ、きょーはぼーるであそぶってやくそくした!」
「雨降りなんだから仕方ないだろ。また晴れたらな」
シャルルはそう言って頬を膨らませるステラの頭を軽くぽんぽんするが、ステラはそっぽを向く。
「しゃるーのうそつき。もーいっしょにおふろ、はいってあげない」
あ、これって――娘がお父さんに言うと強力なやつだ。
そう思ったアルフレッドは苦笑し、ローザとパメラはニヤリとする。
さて、これにどう返すのか。
興味津々といった感じで三人はシャルルに注目するが、彼は何食わぬ顔でこう返した。
「じゃあステラは一人で入るんだな? 髪も自分で洗うんだぞ」
シャルルがそう言うと、ステラは一瞬『あっ!』といった感じの表情を見せ、困った顔でおろおろし始める。
ステラは自分で髪を洗えない。
単純に長いからというだけでなく、洗っているときに目を開けられないという理由もある。
目を開けられないという事は洗い流すのが難しいという事。一度洗い始めたら洗い流す事ができず、ずっとお風呂から出られなくなってしまうかもしれない……そんな恐怖がステラを襲う。
「やっぱり……いっしょに、はいってあげる……」
よ、弱い……三人は顔を見合わせ苦笑。
そしてここからシャルルの反撃が始まった。
「んー、どうしようかなぁ……」
明後日の方を向きながらシャルルが言う。
それを見てステラは少し泣きそうな顔でシャルルのマントを引っ張る。
「やっぱりいっしょにはいるー。はいるのー」
「うーん。湯船に浸かって100まで数えるなら一緒に入ろうかなぁ」
ニヤリと笑うシャルルにステラは涙目で頬を膨らませ言った。
「ずるい! このまえはちじゅーでいいってゆったのにー!」
「100まで数えるならお風呂上りにジュースを買ってやろう」
ステラはジュースというワードになぜ怒っていたのかも吹っ飛ぶ。
「ほんと!?」
「もちろん。お風呂上りに一緒に飲もう」
お風呂上りの火照った体にしみこむような冷たいジュース。
シャルルのひざの上で一緒にそれを飲む光景を想像し、ステラの顔に笑みがこぼれる。
そして――
「んー……じゃーすてら、ひゃくまでがんばる!」
「そうか、偉いぞ」
「えへへ」
シャルルが優しく頭をなでると、ステラは気持ちよさそうに目を細めた。
シャルルはステラの気がそれているうちに、なでている方とは逆の手に持ったボールをパメラに渡す。
パメラはそれを無言で受け取ると、こっそりとカウンターの下に隠しながら思った。
手馴れてる……ステラちゃんよりシャルルさんの方が一枚上手というわけね。
その考えはおおむね間違っていない。
シャルルはステラがボールの事を思い出す前に次の手を打つ。
「さて、何かおいしいものでも食べようか」
「おおー! じゃーおかしたべてもいーい?」
「お昼食べられなくなっちゃうから、ちょっとだけだぞ」
「うんっ!」
そしてシャルルとステラはパメラたちに軽く挨拶すると食堂スペースに移動した。
それを笑顔で見送った三人は口々に感想を述べる。
「最初はシャルルに子供なんて……と思ったけど、なんだかすっかり見慣れた光景になったな」
「あれでドラゴンを一人で倒しちゃうような人なんだから、ギャップがすごいと言うかなんと言うか……」
「でも案外良いお父さんって感じよね。面倒見も良いし」
「面倒見か……」
そういえば俺たちの面倒も見てくれたっけ。
シャルルの歳はわからないけど、もしかしたらあいつにとっては俺たちもあの子も同じような感じなのかもしれないな。
そんな事を思いアルフレッドは少し笑った。
朝から降り続けた雨も夕刻前には上がり、空は茜色に染まっている。
所々にある水溜りはそれを反射し、いつもの通りを幻想的に見せていた。
ギルドを出てそれを見たステラは目を輝かせる。
「わぁ、きらきら。しゃるー、きらきらー」
「ああ、きれいだな」
シャルルはたたんだレインコートと湿ったぬいぐるみを脇に抱え、右手には傘を持ち、左手でステラの右手をつかむ。
「宿に戻ったらお風呂な。100までだぞ」
「そしたらじゅーす?」
「そうだな」
「やったー」
嬉しそうに笑うステラを見てシャルルは思う。
今日も特別な事はなかった。だけどこういう日々こそが特別なのかもしれない。
だから――こんな特別じゃない特別な日がずっと続けば良いな……と。
『異世界大陸英雄異譚 レベル3倍 紅蓮の竜騎士』の『第一章 マギナベルク編』はこれにて終了。ここまでお読みくださりありがとうございました。
次回は第一章の登場人物紹介、その次は第一章のあらすじで、第二章は更にその次から始まります。引き続き『第二章 魔導帝国編』をお楽しみください。