魔法契約と忘却魔法(8)
翌朝、ロイクールは仕事前に彼の状態を確認しに行くと伝えていたこともあり、少し早い時間に彼の部屋の前にいた。
彼は仕事が休みなので書類を運ぶ必要がない。
そのため先輩も足を運ばないので、会話を聞かれる心配もなく、ちょうどいいのだ。
「誰?」
ロイクールが彼の部屋をノックすると、ドアの向こうからくぐもった声が聞こえた。
「ロイクールです」
わざわざロイクールがそう名乗ると、少ししてから戸惑った様子で再び声がかかった。
「……どうぞ。入ってください」
ロイクールは彼の許可を聞き、周囲を確認した。
それから自分が中に入るため、昨日外部からの侵入者を防ぐためドアにかけた防御魔法を解除する。
ドアに触れると、鍵はかかっておらず開く状態になっていた。
おそらく今までこのドアの周辺に近づくことはなかったのだろう。
それならばやはり、昨日はこの魔法をかけておいて正解だった。
そんなことを思いながら、ロイクールは静かにドアを開けて部屋に入ると、内側から鍵をかけたのだった。
「調子はいかがですか?」
昨日の彼はぼんやりしていたため、話しかけてもそれなりの返事しかなかった。
けれど記憶の状態が安定した今、改めて同じように尋ねてみたらどうなるのか。
朝の挨拶を飛ばしてまで出された不安交じりのロイクールの質問に、彼は穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「気分が晴れやかなんだ。こんな朝を迎えたのは久しぶりだよ。それに体調も悪くない。今ならこのまま外出できると思う」
久々に朝起きたら気分が良かったらしい。
昨日は魔法の後、しばらくぼんやりしてしまい何もできなかったが、ベッドの上でそのまま何も感じることなく眠ることができたらしい。
内容まで覚えていないが、最近は悪夢にうなされたり、夜中に目を覚ましたりすることも多かったが、久しぶりに朝までぐっすりだったそうだ。
でも記憶がなくなったことで油断して部屋を飛び出し、また引きこもるようなことになったら困るので、気が向いても外に出ないよう、入口のドアに前もって注意書きを貼っておいたが、その注意が早速役に立ったと続けた。
なお、注意書きには外に出ないという文言だけではなく、ロイクール以外が相手の時はドアを開けないと書いておいたらしい。
中に入った時、振り返ったりしなかったのでロイクールはその内容を確認していないが、まだ外す予定はないから帰りに確認してもらっても構わないと笑う。
「それならよかったです。もし可能だったら今晩あたりから模擬戦に向けた訓練をしましょう。彼らにいつ会うか分からないし、早く始めて早く習得して自信を付けた方がいいと思います。魔術師長に訓練場の使用ができるか確認しておきます。問題ありませんか?」
彼は貴族で、負の感情を表に出さないように繕う能力に長けている。
本当は体調が悪いとか、まだぼんやりした状態だとか、本当は恐怖が勝っているとか、彼がそんな状態だったとしても、ロイクールは見ただけで判断できない。
彼には伝えていないが、この魔法を人間に使ったのは初めてだ。
失敗したとは思っていないが、どうしても慎重になってしまう。
だがその心配をよそに、彼は嬉しそうにロイクールの意見を受け入れた。
「助かるよ。これで攻撃魔法の制御ができれば模擬戦で騎士に勝てる気がするな。自分が大敗した事はよくわからないけど、他の人が酷い目に合っているのは覚えている。だから自分も同じように負けたんだろうなって思った。引きこもらなければならないほど、怪我や恐怖に怯えた生活をしていた事も、ここで仕事をしていた記憶も残っている。それがなかったら、入口に紙を貼っておいても、信じなかったかもしれないくらいだ」
ロイクールが預かったのは模擬戦で負けた時の記憶だけだ。
だから、他で絡まれたりした時の記憶は残っている。
でもそれが引きこもる原因になるほどのものではないので、なぜ今まで外に出られなかったのか分からないし、外くらい普通に歩けるだろうと思ったらしい。
さらに言うなら、今も展開している防御魔法が使えるようになっているので、食堂や廊下で絡まれるくらいどうってことないと感じているそうだ。
「自信があるうちに、攻撃魔法の制御訓練をして、彼らに模擬戦で勝つ事ができるくらいに仕上げたいですね」
話を聞きながら、ロイクールが提案すると、彼も首を縦に振る。
記憶があるわけではないのに、模擬戦で勝ちたいと言われると複雑な気分だが、挑戦できるならした方がいいし、できればそこで勝利して、本当の意味で自信を取り戻してほしい、ロイクールはそう思っている。
「とりあえず私はこれから仕事なのでそちらに行きますが、ゆっくり休んでいてください。夜にもう一度来ます。魔術師長の許可が下りていたら早速訓練をしたいので魔力は温存しておいてもらえればと思います。それから、先ほど部屋の中に入る時、昨日私がドアに施した防御魔法を解除しておきました。私が出たら内側から鍵をかけるのを忘れないようお願いします」
「ああ、だからドアが……。わかりました。お待ちしています」
ロイクールの最後の言葉を聞いて彼はひとつ理解できたとうなずいた。
自分で書いた紙の通り、まずドアの向こうの相手を確認した後、相手がロイクールだったので自分でドアを開けようとしたが、手を伸ばした際、ドアにかかった防御魔法にはじかれたのだという。
だから自分がドアを開けることができず声をかけるしかなかった。
朝起きてからロイクールが来るまでドアに近付くタイミングはなかったので不便もなかったし、気が付きもしなかったが、ロイクールの防御魔法は、自分もドアに触れないという状態だったので、張り紙よりも外出を防止する効果が高かったかもしれないと彼は言っていた。
その心配をしなければならないくらい、忘却魔法の効果は高く、彼の気持ちは楽になっていたそうだ。
まだまだ話を続けたいところだが、ロイクールはいつも通り仕事だ。
まだ時間に余裕はあるが、仕事を始める前にやるべきことがある。
そして夜には訓練の有無に関係なくこの部屋を訪ねることになるのだ。
急ぎの用件は残っていないので、話をするならその時で充分。
そのため、彼の部屋を早めに退室することにしたのだった。
本当は昨日のうちに魔術師長の許可を得ておきたかったが、昨晩は彼の調子がすぐに戻る様子がなかった事もあり、先に許可を取っておくのを止めていた。
もしこれで彼の体調が悪いから止めますという話になったら、せっかく抑えてくれた魔術師長に申し訳ないからだ。
でも今朝の感じでは問題なさそうだったし、本人もやる気充分な状態だ。
ロイクールはそんな彼の様子に安堵しながら、その足で魔術師長の部屋に向かった。
ちなみに魔術師長にアポイントは取っていない。
もしかしたらタイミングが悪いかもしれないが、彼を気に入っている魔術師長のことだ。
よほど重要な客人を相手にしていない限り、彼の話をしたい、改善の兆しが見えてきたので協力してほしいと頼めば聞いてもらえる、ロイクールにはそんな確信めいたものがあるのだった。




