魔法契約と忘却魔法(7)
そうして忘却魔法を使用する当日を迎えた。
その日は彼もロイクールも仕事だった。
だからいつも通りロイクールは先輩と一緒に彼が表に積んである書類を運んで仕事を終わらせてから、彼の部屋に向かった。
「お待ちしてました。当日を迎えると緊張しますね」
彼はそんなことを言いながらも、他の人に見られないようロイクールをすぐ部屋の中へと誘導する。
ちなみに明日、彼の仕事は休みだが、ロイクールは仕事がある。
わざわざ二人の休みを合わせようとすれば、魔術師長は融通してくれるかもしれないが、他の人は勘ぐってくるかもしれない。
だから与えられた仕事に関して変更は行わなかったのだ。
「あの、確認なんですが、本当にいいんですね?」
「はい。ロイクールさんになら見られて困るものはありませんし、安心して記憶を預ける事ができると考えています。よろしくお願いします」
彼は迷う様子を見せることなく頭を下げた。
彼がそう決めているのならもう言うことはない。
後はロイクールが誠心誠意対応するだけだ。
「わかりました。人によるのかもしれませんが、記憶を抜いたり戻したりした後、頭がぼんやりするというか、フラフラしてしまうというか、そういう現象が起きる傾向があるので、寝室で横になってもらっている状態がいいと思いますが、どうでしょう?」
「それだと終わった後、部屋に内側から鍵をかける事ができないということでしょうか?」
もし自分が寝ている間に、誰かがドアの開いていることに気がついて、中に入ってくるような事があったら、そう考えると彼は不安だと口にした。
ぼんやりしている状態の彼がすぐに意識を回復すればいいが、もしそうではない場合、ロイクールが部屋を出る時に内側から施錠することはできない。
寮なので外部の人間が立ち入ることは滅多にないが、過去に部屋から無理矢理引きずり出されそうになった彼からすれば、ドアの鍵を閉めずに無防備な状態で寝ていることなど恐ろしくてできない、寮の中にも敵は多いと感じているということだろう。
それならばとロイクールは彼の不安を取り除く提案をすることにした。
「……確かにそうなると不用心ですね。意識が戻るのを確認するまでの間、ドアを施錠する代わりに、部屋の入口に防御魔法をかけておきましょうか?」
入口に防御魔法をかけて彼が起きている事を確認し、施錠できる状態になるまでは、防御魔法で部屋に近付く人を弾きだす事を提案すると、彼は目を見開いた。
「そうしてもらえると安心ですが、そちらの魔力の消費が大きくなってしまうのではないですか?明日も仕事ですよね?」
「仕事で使う魔力量は大したことがないので、そのくらいなら問題ないです。もしあなたの意識がすぐに戻ったら、その時は私を見送って鍵をかけてもらえたらそれで済みます。ですが術者が私なので、中から外に出ようとしてもはじかれます」
ロイクールがそう説明すると彼はそれを好意的に受け取って合意する。
「もともと外に出る予定はないのですし、気分で外に出て失敗するよりは、中にはじき返してくれた方が安全な気がします。なのでもし私の意識が戻らない時はそうしてください」
確かに彼の言う通り、恐怖が消えたからと一人で外に出て、仮に騎士たちにそこで絡まれたら、またトラウマを増やすことになってしまう。
そうならないよう、すでに入口のドアの内側には注意事項のようなものが貼ってあり、彼の準備が整っている事が見て取れた。
おそらく注意深い彼のことなので、きちんとその注意事項を読み、単独で外に出るような事はしないのだろうが、仮にロイクールが防御魔法を解く前にドアを開けようとすれば、そういうことになると伝えておく必要はあった。
彼はその話を聞いて、ドアに貼られたメモに、このドアには防御魔法が使用されているという一文を書き足したのだった。
そんな会話の後、ロイクールは彼の寝室に通された。
彼はすぐ横になったので、ロイクールも気を引き締めて彼の記憶と向き合う準備をする。
「では、始めます。目は開けていても閉じていてもかまいません。眠ってしまってもたぶん平気です」
「わかりました」
ベッドに横になってロイクールにそう言われた彼は目を閉じた。
それを合図にロイクールは彼の記憶の糸を引き出して、切断位置の確認を始める。
動物で行っていたのと同じように糸を引き出し、糸の位置からできるだけ抜き取るのに近い時間のところに触れて、彼の記憶を見るのを最低限にしようと試みる。
幸い勘が当たったのか、最初に掴んだ位置は、トラウマの原因として話に聞いていた記憶の一部だった。
ロイクールが最初に見た記憶は、ちょうど彼は模擬戦を始めるところだったのだ。
しかしロイクールは人間の記憶の複雑さ、重さを理解していなかった。
動物たちの記憶も一部しか見ていなかったし、その記憶は彼ら目線で、感情も単純なものばかりで、どこか非現実的なものであったが、彼の記憶はそうではない。
記憶の糸から切り取るための適切な位置を探そうと彼の記憶をたどっていく分、同じ人間として生き、人間に傷を負わされた苦痛や悲しみなど負の感情が多く自分の中に流れ込んできたのだ。
糸に触れれば触れた分だけ、糸の持つ記憶の情報が自分の中に入ってくる事はロイクールも分かっていた。
けれど動物の時のように非現実ではなく人間目線、しかもその記憶の中には見知った人物までいる。
そして触れた記憶は、彼が見聞きしたものだけではなく、その時の感情や体に受けた痛みなども全部記憶として一緒になっていて、まるで自分が彼になったような錯覚すら覚える。
正直この情報量が頭の中に流れ込んでくるのは辛い。
処理が追い付かないし、精神的な負担が大きい。
ただここで止めるわけにはいかない。
彼は自分を信じて記憶を見せてくれているし、預ける覚悟をしてくれているのだ。
そして糸を切る位置をしっかりと決めて、記憶が齟齬なくちゃんとつながる場所、そして欠損しやすくなるからできるだけ細切れにしなくてすむ場所、そして彼が部屋を出るのに支障がないようにするのが目的だから、残せないところはきちんと取り除くために、ロイクールは彼の記憶と向かい合った。
そしてその記憶を切断する場所を決めたロイクールはその部分の記憶を切り取ると、彼につながる記憶を結び直し、切り取った糸は戻ってしまわないよう、束ねてカバンにしまった。
そして結び直した記憶の糸が馴染んだのを確認する。
そうしてロイクールは無事に彼の記憶の一部を抜き取ることに成功したのだった。
ロイクールが記憶の糸と格闘している間、彼はベッドの上でぼんやりとしていた。
いつの間にか目が開いていて、天井を見ているようにも見えるし、焦点は今一定まっていないので考え事をしているようにも見える。
その間に彼が痛がったり怖がったりしている様子はなかった。
そして記憶の糸が馴染み、それが彼の中に戻ったのを確認するとロイクールは話しかけた。
「あの、体調とか、どうですか?」
「うん。痛みとかはないんだけど、なんかふわふわするな。めまいがする感じだ。ベッドに寝てて良かったよ。立ってはいられない感じだから」
「そんなにですか」
「あとちょっと、頭がぐちゃぐちゃだから少し……」
記憶が混濁している事もあり、頭で考えなければならない会話をするのが辛いらしい。
記憶が落ち着いていないのに、会話によって新しい記憶を植え付けられることになるのだから混乱もするだろう。
ロイクールは初めて人間に忘却魔法を使った事が不安でつい彼に声をかけてしまったが、記憶が体内で安定していない時にすることではなかった。
おそらく今までの動物のぼんやりしている時間も、記憶の糸がきちんと一つに結ばれた後、それが体になじむまでに必要な時間だったのかもしれないと反省する。
やはり動物より人間の記憶の方が複雑で情報量が多いのか、定着するまでに時間がかかるらしい。
話しかけてからしばらく様子を見ていたが、彼は目を開けて天井を見ているようで見ていない状態が続いている。
もちろんその間、彼がロイクールに話しかけてくる事はないし、ロイクールも彼が混乱しないよう音をたてないように黙っている。
ただ彼が回復するのを待っているだけのロイクールに、この沈黙の時間は長く重かった。
「私がここにいると休めないと思いますので、約束通りドアに防御魔法をかけて退室します。翌朝仕事前に来るので、その時、お話を聞かせてください」
ロイクールもいつ回復するか分からない人を何時間もここで待つのは辛い。
魔力は充分残っているが、精神力を大きく消耗してしまったので、自分も早く休みたかったのだ。
結局、話していた通り、ロイクールは彼の負担にならないよう静かに退室し、彼の部屋のドアに防御魔法をかけて自室に戻ったのだった。




