大魔術師最後の弟子(5)
頭部から出ていた糸の先同士を結んで戻した大魔術師の手元には先ほど切り取った記憶の一部が残っていた。
それを手にしたまま、大魔術師はロイクールに言った。
「ロイクール、この糸に触れてみなさい。指先で少しだけだ。絶対にこの糸を切るようなことはならぬぞ」
「わかりました」
魔法で体の中から引き抜かれた糸に触れるようにと言われ、ロイクールが言われるがまま恐る恐る指を伸ばしてその糸に触れると、頭の中に大量の記憶という情報が入ってきた。
その情報量に耐えきれず、ロイクールは声にも悲鳴にもならないような音を口から出して思わず糸から離れた。
大魔術師はその様子を見てため息をついてから、丁寧にその糸を束ね直した。
ロイクールには彼がその糸に触っていられることが不思議で仕方がなかった。
「これがこの人を苦しめていた記憶だ。そしてその記憶は今この手の中にある」
束ねた光る糸を持って大魔術師はそう言った。
「ではその金色の糸が、この人の記憶で、この糸の中にある記憶は今、この人から消えているということですか?」
ロイクールが糸の色をそう表現すると、大魔術師は感心したように言った。
「金色か……やはりお前にはこの糸がきちんと見えていて、適当に手を伸ばしたわけではなかったのだな。そうだ。これを記憶の糸と呼んでおるが、これがこの者の記憶だ」
ロイクールはその説明に納得しながらも一つ疑問を投げかけた。
「きちんと見えているというのはどういうことですか?」
ロイクールにははっきりと彼の持つ糸が見えていたし、彼がロイクールと話をしながら特殊なカバンに糸をしまったのもしっかりと見えていた。
これは切ったり縛ったりできるのに見えないなんてことがあるのかと不思議だったのだ。
「そうか……。こういう魔法は特殊でな。適性のないものにはまず記憶の糸など見えていないということだ。これは魔法が使えるか使えないかに関係しない。つまりお前には記憶の糸を見られるだけの強い魔力や適性があるということだ。そしてこれがお前に教えられる最後の魔術になるだろう」
ロイクールはそう言われて戸惑った。
最後になるという言葉もそうだったが、この魔法を覚えるということはつまりこの記憶たちとこの先も向かい合わなければならないということであり、辛い苦しい記憶をたくさん見せられるということなのだ。
「師匠……」
ロイクールが拒否しようと口を開くとそれを拒否するように大魔術師は言葉をかぶせた。
「念のために言っておくが、これは禁呪ともなりかねん魔法だ」
「ならなぜ……?」
禁呪ならばなおさら学びたいとは思わない。
それがなくても今まで教わった魔法を加減して充分王宮魔術師として通用するレベルだったし、その魔法一つ覚えなくても今まで通りやっていけるはずだ。
けれど大魔術師はそうすることを許してくれなかった。
「一度抜いた記憶の糸は誰かが管理しなければ、本人の魂に引き寄せられて戻ってしまう。だから常にこうして手元で管理しなければならんのだ」
先ほどの糸を特殊なカバンから取り出した大魔術師は、束ねた糸を手のひらに乗せるとその切られた先を見るようにと言った。
触らなくていいのならとロイクールがその糸の先を見ていると、確かにその糸は先ほど抜きとった人の体の方にふわふわと引き寄せられていっていた。
大魔術師はそれを戻らないよう手で押さえている状態だ。
確かにこれでは手を話しただけで糸の束ごと体に吸い込まれてしまうだろう。
「戻ってはいけないのですか?」
ロイクールは素朴な疑問を投げかけた。
本人の記憶なのだから希望しているとはいえいずれは戻るべきもののはずだ。
記憶の糸は確かに本人の元に戻りたがっているし、戻ったところで何が問題になるのか分からない。
「まだその時ではない、というタイミングで本人に記憶が戻ったら、その人はどうなると思う?」
「……わかりません」
そんなことを聞かれてもとロイクールは困惑していた。
なぜそんなに彼は自分にこの魔法を習得させようとするのかが理解できない。
だがそんなロイクールの考えに反して大魔術師は魔法の説明を止めることはない。
「抜かなくて解決するなら、それが一番だ。けれど、耐えられない痛みや苦しみの記憶が、その人の命や人生を良くない方向へと引きずり込んでしまうなら、その時は助けるために魔法を使うしかない。そしてその人が、その記憶と向き合えるようになった時が、記憶を戻す時だ」
「それはいつなのですか?」
それはロイクールでは判断できない。
だからやっぱり自分には向いていないと拒否しようと思ったが、残念なことに大魔術師はその答えを持っていた。
「本人が失った記憶と向き合うと自ら願った時だ。そうなる日がいつか来るだろうから、私は時間が経ってから彼らにそれが伝わるようきちんと記録を残している。そして失くした記憶を戻してほしいと願ってきた者に、その覚悟を聞いて、そして記憶を戻すかを判断しているのだよ。それから、記憶の糸はその人の生命と繋がっていてな。その者の命が消えた時、一緒に糸も消失する。おそらく本人の魂が肉体から離れたことで記憶と再び結ばれるのだろうな」
記憶の糸が消えた時はその人が亡くなったということらしい。
そんなことで人の死も知ることになるのかとロイクールの気はますます重くなった。
けれどもまだまだ大魔術師の話は続く。
「それから、預かった記憶の糸を戻すと、戻した相手は記憶の量や内容によって、受け入れるまで時間がかかる」
「それなら少しずつ戻せばいいのではないですか?」
それは一度失くした苦しい記憶をいっぺんに受け入れなければならないからではないのかとロイクールが聞くと、大魔術師は首を横に振った。
「だめだ。繋ぎ目が増えれば増えるほど、記憶の損傷箇所が増えて、混乱を生じやすくなる。最初に分けて抜いたものなら、一つずつという選択肢もあるが、わざわざ繋がっているものを刻むのは良くない。だから最初に言ったのだ。本当ならば記憶を抜かない方がいいと」
扱いを間違えたら相手の記憶が混濁したり損傷したりするという。
やはりそんな恐ろしいものは扱いたくない。
その責任を頼まれた側の術者が負うなどますます嫌だ。
「師匠はなぜ、そんなリスクの高い魔法を多くの人に使うのですか?」
使わない方がいいという魔法なのに多くの人に行使している。
もちろん頼まれてのことだし、今回の人も確かに廃人のようになっていた。
これで本当に幸せに生きることができるのなら、その時だけでも本人は幸せになれるかもしれない。
けれどそのリスクを術者である大魔術師はなぜ負わなければならないのか。
ロイクールは納得できなかった。
「すべての生き物には必ず記憶がある。だが、人間ほど記憶に支配される生き物はいない。その記憶があることで生きることに絶望する者がたくさんいて、結果的に救える命が救われなくなることがある。この魔法では術者に都合の悪い記憶を抜くようなこともできてしまうが、助けなければ自ら命を立ってしまうような者もおるのだ。それを助けるか助けないかは術者しだいということになる。その部分の記憶がなければ助かった可能性の高い命が、その記憶を残したせいで失われるとしたら、見方によっては術者がその者の死を早める一助になったとも言えるだろうな。その代表が戦争の記憶だ。だからこれも戦争の後始末の一つなんだよ」
そう言って大魔術師は悲しそうに笑うのだった。




