再会、そして動きだす歯車(5)
「契約が無効なことを知っていたのですか。それならどうして……」
イザークのことを考えれば難しいかもしれないが、最悪ミレニア一人だけならば逃げることだってできただろう。
その時すでにロイクールの記憶はなかったにせよ、家族の記憶は残っているのだから、頼れる人がいたはずだ。
けれどミレニアはそれすらしていない。
国家間のことがあるとはいえ、家族との連絡すら絶っていたと聞いている。
ロイクールが話をしてみた印象では、ミレニアの今の夫は悪い人ではなさそうだし、自分をここに呼ぶことができるのなら、家族を呼ぶなど、造作もない。
それを拒否するような相手でもないだろうと考えられる。
つまりミレニアが頼まなかったということだ。
ロイクールが理由を尋ねると、ミレニアはうつむいた。
「もう、同じ過ちは繰り返したくない……」
「あなたの何が間違いだったと言うんです!」
国の貢献者となった判断を間違いとは思わない。
現にミレニアがこの国に来てから、国家間の関係は非常に安定していた。
離れることになった件に関しては苦しかったが、それでも国民の生活の一助になったミレニアをロイクールは尊敬していたのだ。
けれどミレニアはそうではないという。
「記憶を預けたことよ!私は一時でも、あなたの存在を自分の中から消してはいけなかった!」
ここに来るという判断は間違っていなかったと思うし、後悔もしていない。
自分の最大の判断ミスは、冷静ではなかったとはいえ、ロイクールを自分の中から消し去ったことだという。
けれどロイクールは過去、多くの戦時中の記憶を預かったことがある。
そして時が経ち返却した彼らの中に、戦争の辛い記憶を預けたことを悔いた者はいなかった。
そして、あの頃この記憶を持っていたら生きていけなかった、今だから受け入れられるのだと口を揃えた。
この件は戦争と状況は違うけれど、ミレニアからすれば国に売られたも同義で、記憶を預けなければ耐えられないと感じるほどのものだったとロイクールは認識していた。
「それはミレニア様がそれだけ私から離れることを辛いと感じてくれていたからでしょう?ここに来ることも、国を離れることも」
悪いのはミレニアではない。
その事態を招いた国だとロイクールは再度言葉を尽くすが、ミレニアは首を横に振るばかりだ。
「そう……、そうだけど……、結果として、あなただけに辛い思いをさせてきたわ」
確かにこの記憶がなかったおかげでふさぎこんでいた時間はなかった。
もちろんここに来てから苦労も多かったけれど、その努力は実って、今は穏やかな暮らしができている。
しかしそれは自分の苦痛をすべてロイクールに背負わせて得たものだった。
自分が記憶を預ければ、その記憶を管理しなければいけないロイクールは、ずっとその記憶に縛られることになる。
自分のことで精いっぱいでそこに思い至らなかった。
現にロイクールは年齢を重ねているものの、あの時と変わらぬまなざしを向けてくれている。
それは自分がロイクールの時間を止めてしまったことに他ならない。
「そんなことは気にしないでください。こうしてまた話すことを望んでくれただけで……」
ロイクールからすればこうして再会できたことが、記憶のある状態のミレニアと話をする機会を得たこと自体が奇跡だ。
本当ならばその記憶の糸とともに眠りにつくか、記憶の糸が消えるまで、その糸をよりどころとして生きていくつもりだった。
記憶を預かったロイクールにもそれなりの覚悟はあったのだ。
でも一番は、この先の人生をミレニアと作っていくことに他ならない。
だから記憶を預けたことを過ちと思って拒否しているのならその必要はないとロイクールは強調する。
けれどミレニアはそうではないと首を横に振った。
「私はもう失いたくないの。確かに不自由なこともたくさんあるけれど、見知らぬこの国に来て、私はたくさんの人に支えてもらった。彼らがいなければ、私は生きていたかもわからない。今私がこうして生きていられるのは、彼らのおかげなのよ。だから、それを忘れたくはないし、忘れてはいけない」
今度はロイクールと一緒になるためにこの国の記憶を預けて、それで幸せになるということはできない。
これ以上、自分の過去をなかったことにしたくないし、忘れてはいけない。
そして、ここでロイクールを選ぶことは、あの時の自分の判断が間違いだと認めることになるし、そうすることでここまで平和的にやってきた国家間の繋がりが壊れてしまう可能性もある。
そうなれば何のためにこの悲しみと苦痛を自分が受け入れたのかわからない。
ここで壊すなら最初からやってはいけないことだったのだ。
ミレニアは改めて自分の気持ちと向き合った結果をロイクールに伝えることにした。
「今、ここには私の居場所がある。私を支えてくれた人との穏やかな暮らしがある。多少不自由でも、私はここで暮らすことを願うわ。それに記憶を消した時にはもう戻れない、戻らないと覚悟を決めたのだもの」
だからロイクールも自分の記憶から解放された今、どうか時計を進めてほしい。
ミレニアはそう願いながら必死に言葉を尽くす。
「……そうですか。わかりました」
記憶を預かったことで、ミレニアと道をたがえることになってしまったのかもしれない。
少なくとも戻るつもりはないということだ。
いつかは同じ道に戻れると、どこかでそう考えていたロイクールの願いは、虚しく散ることになった。
「今までありがとう。そして今まで、こんな形であなたを縛り付けてごめんなさい。どうか、幸せに生きて……」
ミレニアは涙を浮かべながら目に焼き付けるようにロイクールを見る。
そして覚悟を決めたのか頭を下げた。
「ごめんなさい……」
最後にそう言って頭を下げたミレニアが頭を上げることはなかった。
ロイクールはしばらくそんなミレニアを見ていたが、自分がいてはいつまでもこのままだと察して、席を立つ。
「どうぞ、ミレニア様も健勝で」
ロイクールはそう言葉をかけると、見向きもされない中、一礼して背を向けた。
おそらくミレニアと会うことはもう二度とないだろう。
ロイクールは傷心のまま、一人になれる場所である、部屋へと戻っていくのだった。