仮想敵国への訪問と旅人の郷愁(18)
少し速足で彼を連れて路地の入口くらいまで戻ってきたところで、ようやくロイクールはペースを緩めた。
「ここまでくれば大丈夫でしょう」
ロイクールが周囲を警戒しながら言うので、彼は小声で尋ねた。
「あの、何かあったのですか?」
とりあえずロイクールについてきたけれど、せっかく場所が分かったのに何もせずに帰ってきてしまった。
それが気になった彼は、先ほど向かった方を見るが、おかしな気配も変わった様子もない。
自分が気が付いていないだけかもしれないと思ったが、ロイクールが声を出したくらいだから、少なくとも今の段階で、誰かにつけられているとかそういう話ではなさそうだ。
それでもあの場において、ロイクールが急に険しい表情になったので、何かあったことは間違いない。
けれどそれが何か、理解できないまま、とりあえず引っ張られるようにして戻ってきた感じである。
尋ねられたロイクールは、小さく息をついてから、小声で答えた。
「あの場所に、あなたの記憶の一部がある可能性が高いです」
ロイクールの言葉に思わず大きな声を上げそうになった彼は、慌てて息を吸い込んでそれを収めると、改めて小声で言った。
「そうなのですか?」
でもそれならばなぜ、入口で引き返したのか。
記憶を取り戻してから戻ってきてもよかったのではないかと彼がそう考えて返事を待つと、ロイクールはそれを察して首を横に振った。
「ですから、あなたがそこにたどり着いたと知られたら、危険ということです。記憶を抜かれるだけで済むとは限りません。私も一緒であることから、荒事になる可能性が高い」
今まで彼は記憶を抜かれた状態で放置されるだけで済んでいた。
でもそれは、彼だからだと考えるべきで、そこに一緒にいたロイクールのことを、相手は確実に消しにかかるだろう。
もちろん、ロイクールが負ける可能性は低いが、ないとも言えないし、その際、彼に危害が及ばないとも限らない。
「すみません。訪ねていけば何かわかるかもしれないと思ったのですが、そう簡単な話ではないのですね」
行って手に入れたら、自然と体の中に戻ってくる。
記憶は本人の方に引き寄せられるという話を聞いていたから、そういう解釈でいたのだが、どうやらそういう簡単な話ではないらしい。
もちろん、戻ってきた記憶が正しく自分とつながるかはわからない。
けれど、切ったり繋いだりできるロイクールならばきっと、正しく直してくれるだろうと、そう単純なものと捉えていたのだ。
「相手の記憶を奪った本人、もしくはそのような厄介なものを預かっているような人間です。そんな相手が良い人とは考えにくいですし、そもそも、同意なく記憶を奪う行為をする人間が善人なわけがないと私は考えます」
確かにそれは私のものだと主張し取り返そうとしても、相手がそれを認める可能性は低い。
相手が善人でなければ交渉をする前に、自分のした悪事を隠すことを優先させるだろう。
「もどかしいです、目の前にあると知ってしまったら余計に」
少しうつむいて唇をかんだ彼を、ロイクールはなだめるように告げた。
「それもまだわかりません。ですが、私が探ってみます。私なら顔も素性も知られていませんから」
「わかりました。勝手をした方が迷惑をかける気がしますので」
これまで、自分で記憶を探しては、何度もそれ以上の記憶を奪われてきた。
せっかく少し長く、記憶を蓄積できたのに、ここで自分が動いて失敗したら、この記憶まで奪われてしまう可能性が高い。
短い記憶しかもっていなかった時は、それでも増やしたいと思っていたけれど、今は増やすより失うことの方が怖いと感じるようになった。
それもあって、本当は自分で動くべきなのだと思いながらも、ロイクールにお願いすることにした。
彼が納得してくれたため、ロイクールは再び中心街に目を向けて言った。
「とりあえずあの場所については置いておいて、街を見て回りませんか?他にも手掛かりがあるかもしれない。少なくとも、あの場所に記憶があって、あなたは自分の記憶のありそうな場所まで自然とたどり着けたのですから、まだ他にも同じような場所があったらそれを見つけられるかもしれない。それに……」
「それに?」
彼があまりに真剣に聞くのでロイクールは思わず苦笑いを浮かべた。
これから自分の言うことが彼の求めている者ではないことが理解できたからだ。
けれどあまり思いつめるのもよくないだろうと、ロイクールは予定していた言葉を変更することなく言った。
「ずっと部屋の中に押し込められていたのですから、不便はなくても窮屈だったのではないかと。せっかく外に出られたのですから、ぎりぎりまで街を楽しむのもいいと思いませんか?」
何を楽しいと感じるのかはわからない。
けれど、他の人と同じように買い物をしたり食事をしたりしていれば、気分を変えることができるだろう。
それに連日、外出の許可が出るとは限らない。
できることは今のうちにしておいた方がいい。
そう伝えたものの、彼の表情は浮かないままだ。
「楽しめるのでしょうか。どうしたら楽しいのかというところもよくわからないのですが……」
これまでに楽しんだことも、楽しいと思ったこともあったと思う。
しかしその記憶が自分の中にないのだ。
正直に言えばこういうところももどかしく、早く自分というものを取り戻したいからこそ、目の前にその断片があるのなら、いち早く手を伸ばしたかったのだ。
それが今は目の前でお預けになっている状況なので、少々複雑な気分だし、この感情を抱えたまま、街を楽しむことができるのかと不安の方が大きい。
「そう言われてしまうと、実は自分もあまりそういうのには長けてないのですが、とりあえず歩き回ってみましょう。そこで目についたものを見て、気になるものがあれば食べてみる。今日はすでに収穫があったのですから、追加があれば今日は収穫の多い日だと、そう考えるようにしませんか。それに、もしこれから情報を得るにしても、記憶がないのなら、この場所のことをもう一度覚え直した方が動きやすくなりますし、記憶があったとしても、街は常に変化していると思いますので、記憶から逸脱している可能性があるはずです。ですから今日は最新の情報を仕入れる、そう考えたら気持ちも軽くなるでしょう」
今日はすでに収穫があった。
そしてこれからの街歩きもある意味先につながるものだ。
ロイクールにそう言われた彼は、素直にその言葉を受け入れた。
「それはいいですね。そう考えたら遊んでいても、何もしていないとは思わなくてすみそうです」
楽しめるかはわからない。
けれどおいしいものを食べればおいしいと感じることはできるし、それが嬉しくないわけではない。
そんなことをしていていいのかという罪悪感が生まれるのではないかと、躊躇していたところもあったが、それは先ほど、ロイクールが否定してくれた。
自分で動いたところで失敗しかしてこなかったのだし、それが今の自分という結果になってしまったのだ。
ならばここは、ロイクールの言うことを実践してみよう。
どうにか悪い考えを少し遠くに置くことのできた彼は、ロイクールに決意を伝えると、ロイクールは黙ってうなずいた。
そして二人はわざとこの国の護衛たちの目に再び入るよう移動して、さもこの混雑の中、ずっと中心街を楽しんでいたように見せるのだった。