仮想敵国への訪問と旅人の郷愁(9)
「それで、その記憶を戻してもらうのに、どのくらいの時間がかかるのかしら。横になれる場所以外に必要な準備は?」
自分の記憶が戻ってくることを前向きに捉えているミレニアが、興味深そうに忘却魔法について尋ねてきた。
一度預かる時に行使していることになるのだが、ロイクールに関する記憶のないミレニアは当然、その時の事を覚えていない。
だからこれから自分の身に何が起こるのか不安があり、少しでも多くの情報を得ておきたいと思っているのだろう。
「通常ですと、こちらで用意したお茶をお飲みいただいてますが、そういったものを口にするのが不安でしたら、代わりになるものをそちらでご用意いただいても構いません。リラックスした状態でいていただきたいのです。不安でしたら眠ってしまっていても問題ありませんが、起きた時に失っていた記憶を一度に受け入れることになりますから、頭が混乱する可能性があります。なのでそうならず、かつ緊張しないよう、少しぼんやりとした状態になっていただいて、そこに少しずつ記憶を戻していくのです」
恐怖で拒絶されたりすると、無意識的に身体からも抵抗の意思が出てしまうことがある。
だからそうならないように、お茶などでリラックスしてもらうのだとロイクールが伝えると、ミレニアは少し考えてから言った。
「その、ぼんやりとした状態となるから、横になっていた方がいいと、そういうことでいいかしら?」
「はい。概ねその通りです。体を支えることが上手くできなくなる方が多く、その結果、作業を中断することになったり、途中で倒れてしまったりするくらいなら、最初から倒れない体制になってほしいと、簡単に言うならばそういう話ですね」
忘却魔法において記憶を操作する際、意識していない部分、深層の記憶にも触れることになる。
こちらが触れるのは、預かっている記憶を接合する部分になるので、当然切ったり繋いだりすることで、その記憶の部分を本人も一時的に強く認識することになる。
忘れておきたいほどの記憶なので、思い出せば衝撃も強く受けるし人によっては現実逃避のために失神する事もある。
そうならないようにするためにお茶は利用しているのだが、ロイクールが実際に自分の記憶でそうされたわけではないし、話に聞く限り個人差があるようなので、全てはお茶の生としておいた方が恐怖は和らぐだろうと、多くの場面でそういう説明をするようにしている。
「ちなみにその飲み物は、毒見などをしたらその人もぼんやりしたりするのかしら?」
飲み物によってぼんやりすると聞いたミレニアは、首を傾げた。
言われてみれば、こうして普通に話をしているけれど目の前の女性は、元婚約者とはいえ、現在は皇太子妃なのだ。
貴族の時からもあったけれど、今はもっと厳しく口に入れるものは管理されているのだろう。
だからお茶ならば当然毒味が入る。
久しく貴族のルールから離れて生活していた事もあり、失念していた事を思い出したロイクールは慌てて言った。
「いえ、薬草の類ですからそのような急激な変化は起こりません。ただ、毒見程度なら問題ありませんが、たくさんの量を飲めば、多少は効果が出るかと思います。ぼんやりするというのは、記憶を操作しているために起こる方が強いですから」
「もしかして、記憶が戻ればその感覚も思い出すのかしら?」
いまいち感覚のつかめないといった様子でミレニアがそう言うので、少しでも不安を減らそうとロイクールは説明を追加していく。
「一度抜き取る時に同じお茶をお飲みいただいていますし、似たようなことをしてますから、もしかしたら一緒に思い出されるかもしれません。それと、記憶の混濁は発生しますが、身体的な痛み等はありませんので、その点を警戒する必要はありません」
身体的苦痛を伴うことはないとロイクールが断言すると、ミレニアは表情を緩めた。
「そう。痛みがないと聞いただけで気持ちが軽くなった気がするわ。その飲み物が魔法で受ける傷みを中和するというわけではないのね。それに記憶が戻るだけで、今回、私が失うものは何もないということでしょう?」
「はい」
治癒系の魔法を使えると、ついそちらで直してしまうからあまり意識はなかったが、そもそもそのような魔法を使える人間はまれだ。
そのため、通常の治療では、痛みを感じる感覚を鈍らせるような処置を行ったり、薬を飲んだりした上で、治療を行う事も多い。
記憶を戻すことを治療と似たものと考えたら、その後に痛みを伴うかもしれないと不安になるのもうなずける。
けれど、忘却魔法は精神的負荷、流れ込む情報の処理でパニックのようになる事はあっても、外傷のような痛みを伴うことはないのだ。
お茶も、あくまで記憶の糸を出し入れする際、意識が強く残っているより操作しやすくするためのものだし、本人が石紀伊の混乱に耐えられるというのなら、別に飲まなくても大きな問題はない。
「ならばなおさら問題ないわ。そもそもこの話を持ってきたのは殿下なの。一応、許可を取りに使いを出したけれど、反対される理由はないはずだから、準備を進めた方がいいような気がするわ。お話している間に使う者の準備も頼んでおきましょう。彼女は殿下のところへ先に行ったはずだから」
ミレニアはそう言うと別の者を一人呼びよせて、追加の指示を出した。
「あと、ついでにお茶を入れ直してちょうだい。せっかくのお茶が冷めてしまったわ。用意してもらう部屋でもお茶を飲むことになりそうだから、あちらにもお湯を用意しておくよう言っておいてちょうだい」
「かしこまりました。ではそのように準備を進めるよう伝えてまいります。その間、どうぞこちらをお召し上がりになってご歓談ください」
追加でミレニアが指示を出すと、一人がすぐにその指示を伝えるためか準備のためかは不明だが動きだす。
もちろん指示のためにこの場を離れる前に、ミレニアの指示通り、お茶と追加のお茶菓子を新しいものと交換することを忘れない。
お茶を新しくされたロイクールは一応それらに対して礼を伝えるが、女性は何も答えず、準備を終えると黙って頭を下げて去って行った。
そしてそれを見届けたミレニアは、再びロイクールと向き合うのだった。