記憶喪失の旅人(9)
「ではまず、あなたの記憶を繋ぎ直します。それと、その際、多くの記憶が情報が頭の中に入ってくるとは思いますが、周囲には戻ってことにしておく方がより安全かもしれません。もし事件などに巻き込まれていた場合、あなたは記憶を失くしているから生かされている、そういった可能性も考えられますので」
彼から許可を得たロイがそう言うと、彼は驚いた表情をしたが、ロイに従うとうなずいた。
「そういうことも考えられるのですね。記憶そのものがないので、危険性はあまり感じられなくて……」
気がついたら記憶がなかった。
でもいつも手元にお金はあったし、暴行を受けたりした記憶もない。
だからどこかで記憶を失くしてもわりと安全に生きられると思っていた。
でもそれは記憶がないからの可能性が大きく、記憶が戻った時にその環境がどう変化するのかわからない。
記憶がないから恐怖心がないだけということだってあるのだ。
本人はその可能性を全く考えていなかったらしい。
「それはしかたがないでしょう。あと、記憶の糸に触れるのにあたって、その記憶を私が見ることになります。以前の契約は有効なのでそのまま記憶を繋げたいと思います。その際、私はあなたの中に戻った記憶を見ることになりますので、説明は不要です。何よりその記憶のことはこれ以上口にしない方がいいでしょう。見張られている可能性もあるので」
外で王宮騎士団が見張っているとはいえ、彼らに気付かれない所からここが見られている可能性もないとは言えない。
ロイが注意深く確認した感じでは今のところこの話を聞いている耳も、見ている目もなさそうだ。
そういったものがないうちにと考えて、ロイは自分の考えを伝えているのだ。
「わかりました」
彼は先ほどのロイの警告を聞いて首を動かし辺りを見回してから、気持ち小声で返事をした。
「もし、探りを入れられたら、私に記憶を預けたことで記憶が混濁して、不安だから声をかけたとでも答えておけばいいと思います。増えたのではなく減ったというのなら相手もさほど気にしないでしょう」
「そうします」
ロイのアドバイスを胸に刻んだ彼は、ロイに促されてベッドに横たわった。
「では始めます」
「はい」
彼の中に戻った記憶の糸をロイが確認すると、糸が戻るところが判別できないからか、一つの継ぎ目のところに枝分かれするようにくっついていた。
つまんだり引っ張ったりすればすぐに離れてしまいそうな状態なのだから、この状態の中でその記憶の情報を引き出せること自体がすごいことだ。
彼自身が忘却魔法を使えるわけではなさそうだし、適性がなくて記憶の糸が見えない可能性も高いので、それを細かく説明することはしない。
説明はせずとも応急処置とはいえ、きれいにつなげば、戻ってきた記憶は鮮明になるのだから、それを結果として見せる方が本人の理解を得やすいだろうとロイはそう考えたのだ。
ロイは記憶の糸を引き出すと、絡まっているというより、細く短い糸が誇りのようにくしゃっとなってくっついている糸を綺麗にほぐし、時系列の正しい位置に繋いだ。
抜けているところが多いので、前後の脈絡がなくその記憶が思い出されても意味が分からないかもしれないが、それでも一本に繋いである方が本人は記憶を探りやすいし、後に記憶の混濁が少なくて済むはずだ。
「終わりました。気分は大丈夫ですか?」
処置はすぐに終わった。
戻すために必要な記憶を辿る作業も、残っている記憶が少なかったので時間はかからなかったのだ。
ただ、これではかなりの違和感があるに違いない。
ロイは不安そうに彼を覗きこんだ。
「はい。違和感はありますが、さっきより記憶が鮮明に思い出せるようになりました。ですが急に何があったのでしょう?」
体を起こすことなく彼はそう口にした。
今までにない記憶が戻る、思い出すという感覚が、彼にとっては初めてのもので、とても不思議に思えた。
少量の記憶だけれど、戻ってきたことは素直に嬉しい。
ただ、初めてのことであるため、なぜという疑問が真っ先に出てきたのだ。
「それは、おそらくですが、あなたから切り取った記憶を持っていた人間が、管理に失敗したのでしょう。前にもお話したかもしれませんが、強制的に抜き取られた記憶は、本人に引き寄せられます。そのため、ずっと記憶を失くした状態を維持するには、抜き取った記憶を管理する必要があるのです」
だから預かった記憶と他の記憶が引き合うくらい近付けば、見つけられる可能性もあるとロイは記憶を預かっているのだ。
ただ見えない人に理解してほしいと言うのは難しい話だという事もロイは知っている。
「記憶の管理ですか」
それは彼も例外ではなく、やはり疑問を持ってロイにそう言う。
「抜き取って何もしないと、とにかく記憶は本人の元に戻ろうとします。そして先ほどの記憶は、おそらく抜き取った人が手を放してしまったので、あなたのところに戻ってきた。だけど、多くの記憶がつぎはぎの状態になっているので、記憶は無事に本人であるあなたのところに戻ったものの一本の糸として、元の場所、正しい流れに、戻ることができなかった。それでくっついているので認識はできるけれど、記憶が混濁してはっきりと認識できなかったと考えられます。そして戻したくないのなら、戻らないよう管理しなければならないのです。抜き取った記憶の糸を放置すれば、勝手に戻ろうとしてどこかへ行ってしまいますから」
本人が近くにいるのなら、すぐに記憶として戻ってしまうだろうし、遠くにいるのなら、記憶は本人を求め、吸い寄せられるようにゆっくり戻ってくるはずだ。
だから抜いた術者からすると、記憶の糸は行方不明ということになり、商人を受けたギルドの場合、感知不行き届き扱いになる一大事だから、もし見失ったらその糸を取り戻すべく必死に本人を探し、そこに糸が引き寄せられてくるのを待ち構え、取り戻そうとするのだ。
もちろんそれは合法ギルドでの一般論であって、この記憶の糸に関してそれが適用されるかどうかは不明だ。
「私の記憶を奪った人は、それが失くなったことに気が付くでしょうか?」
気付いたら取り戻しに来るのか。
また来た時にさらに多くの記憶を奪われることになるのか。
不安と諦めの混じる声で彼がロイに尋ねると、ロイはため息をついた。
「きちんと管理していれば気が付きます。ですが、雑に扱っていれば気が付くのが遅いかもしれないですが、過って手を放してしまったとか不慮の事故なら躍起になって探しているでしょう。相手が分からないことには何とも言えませんが、今のところ周辺が穏やかなようですから、あなたの居場所がわれていないか、失くなったことに気がついていないか、一時的に奪っただけで手元に残すことを重視していないか、現時点では不明ですね」
「そうなのですね」
なぜこんな目にあうのか。
なぜ自分なのか。
分からないことだらけだ。
彼は肩を落とした。
「何となくですが、先ほど見た感じでは、この相手はその原理を理解していないような気がします。扱い方が雑と言いますか、抜き取って仕事を終えたと思っているように見えたのです。あなたの記憶の内容は確認できましたし、私という人を介してしまいますから、必ずとは言えませんが、探す手がかりは得られたと思っています。ですからもう少し、いつも通り、何もなかったようにここでお待ちいただけますか?危険を感じたらギルドに来てもらって構いません」
ロイは自分が戻す時に見た彼の記憶を思い浮かべていた。
その場所を調べれば何かしら情報は得られるだろう。
ただ、それを彼本人にはさせられないから、ロイは何度も彼に念を押す。
そして不安や危険を感じたらギルドを掛け込み先にすればいいと最期に付け加えると、ようやく彼は微笑んだ。
「ありがとうございます。なんかこう……、頼っていいところがあるというのはありがたいものですね。よろしくお願いいたします」
彼はそう言うと、ベッドに仰向けのまま首だけ起こして軽く礼の気持ちを示すのだった。