記憶喪失の旅人(8)
先輩に客人の護衛を依頼してから数日後、騎士団が護衛を始めたと先輩から書面で連絡が来た。
騎士団がこの短期間で動いたということは、迅速に対応してくれた証拠だ。
念のためどのような体制なのかを目視で確認しておうと、自然と宿に足が向いた。
彼の事が気になっていたこともあり、ロイが宿にいる彼の様子をそれとなく伺おうと宿の前で立ち止まると、そこで偶然、外出をしようとしていた彼と出くわすことになった。
「あっ、管理人さん!ちょうど良いところに来てくださいました」
軽装で出てきたところを見る限り、食べ物か日用品を会に出る程度の外出をする予定だったのだろう。
しかし彼はロイを見つけるなり声を掛けて呼び止めた。
その勢いに驚きながらも、ロイは冷静に対処するよう努める。
「何かありましたか?」
「実は、店のこと、急に鮮明に思い出したのです」
目を輝かせながらそう口にする彼からは、まるで子供が宝物を見つけたような純粋さ伺えた。
きっと今までは失うばかりで、戻ってくることがなかったから、小さくともその記憶を得られたことが嬉しくて仕方がないのだろう。
しかしここは人通りが少ないとはいえ外だ。
誰が通っても不思議はない。
もし彼に記憶が少しでも戻った事を知られたら、相手が何を仕掛けてくるか分からないのだから、聞かれないに越したことはない。
一応護衛のために騎士が潜んでいる事は確認できているが、彼らは魔法を使えない。
だから物理攻撃や誘拐などには対応できるだろうが、仮にここで魔法を発動している魔術師がいても、勘の鈍いものは気付くことすらできない。
つまり、聞かれないに越したことはないということだ。
「わかりました。詳しい話はギルドか、もしくは宿のお部屋で聞いてもいいですか?」
ロイがそれとなく提案すると、彼も自分の身が危険にさらされている事を思い出したのか、それを受け入れた。
「そうですね。確かにここでは話しにくいです。私の部屋でよろしければ」
「では、お邪魔します」
そう言うと、彼に続いてロイは宿の中に足を踏み入れたのだった。
何泊もしているからか手慣れたもので、迷うこともなく自室までやってくると、彼は部屋にロイを招き入れた。
部屋にあるのはベッドと机と椅子とクローゼット、それに流し程度の水場という必要最小限を整えられた部屋となっているシンプルなところだった。
一人で滞在する客向けの部屋なので、椅子も机に向かうために用意された一脚しかない。
「何もないのですが、椅子は机のものを使っていただいていいですか?そこにお茶を置きますので、ちょっとお時間ください」
彼はそう言うとどこからともなくお茶のセットを持ってきて、手際良く準備を始めた。
その傍らにはお菓子まである。
誰か客人を迎える予定だったのかというくらい準備が整っていた事には驚きだが、それを口にしかけたところでロイは思いとどまった。
常に一人でいるらしい記憶のない彼が、予定した客人を招くなど、できるわけがない。
もしそういう相手がいるのなら、その人物に自分が何者なのかを確認して身元くらいは明らかになっていてもおかしくないはずだ。
未だに彼の身元に関しては謎のままなのだから、客人を呼ぶために準備していたという可能性は低い。
過去にそのような事をする経験があって体が覚えているか、単に彼の手際が良いだけだろう。
「お構いなく。お話を伺うだけですから」
開きかけた口で、ロイは彼にそう声を掛けるが、彼が手を止める様子はない。
そしてほどなく、準備を整えた彼は、ロイの目の前にお茶とお菓子を置くと、自分はお茶を片手にベッドに腰をおろして、ロイの方に向かうのだった。
「あの、それで思い出したというのは?」
すっかり客となってしまったロイが彼に尋ねると、彼は言いにくそうに口を開いた。
「はい。呼び止めておいて申し訳ないのですが、なんかこう、ぼんやりとなんですけど、こう建物の形みたいなものと、大柄で髭の男に対応された気 がするとか、その程度なんですけど、今までと違うものが急に体に流れてきたような感じで」
おそらくどこかにあった記憶の糸の一部が、彼の中に戻ってきたということなのだろう。
きちんとつなげられていないので、戻ってきたとはいえ、それが探りにくい位置にあるのかもしれない。
彼は申し訳なさそうに言うが、そもそも通常の人でも、ふと思い出したことをきちんと話せるわけではない。 ましてやあちらこちらを切り取られてつぎはぎになってしまっている状況なのだから、つながる情報がないのに突然現れた記憶を受け入れるのはより難しいはずだ。
そして仮に思い出したとしても、彼の口からその記憶についてやみくもに語らせるのは危険だ。
彼にはその注意を伝えた方がいいだろう。
「あの、ここはあなたの部屋で間違いないですよね」
「はい」
だから案内したのに、今さらなぜそんなことを聞くのかと彼は首をかしげる。
ロイは再度周囲に人がいなそうなことを確認した上で、なおも警戒しながら小声で言った。
「もしかしたらその記憶はこの近辺で最近、あなたが失くしたものかもしれません。きちんと戻せば、曖昧な状態となっているその記憶の内容をあなた自身がしっかりと認識できるようになると思います。どうしましょうか」
ロイの申し出に、手がかりを欲している彼はすぐに食いついた。
「それはこの場でお願いできるのですか?」
ギルドでなければできないのではないか、準備が必要なのではないかとそう考えて彼がロイに尋ねると、ロイはその質問に答え、それと共に代わりの条件を提示した。
「かまいません。ですが、その記憶をもとに一人で行動を起こすのは控えてもらえますか?」
せっかく手掛かりが自分の手に戻ってきそうだというのに、ロイは記憶が戻っても探し回らないよう念を押してくる。
しかもそれが記憶を認識できるようにするための条件だと言われたら、こちらとしてはのまざるを得ない。
「なぜです?」
条件に納得のできない彼は、自分が記憶を探しているのを知っているはずなのになぜかと反射的にロイに聞いた。
「それをすることで、またあなたが記憶を奪われる可能性があるからです。確認していないから確実なことは言えませんが、むしろそこであなたの記憶 が操作された可能性が高い。そしてあなたはそれに対抗する手段を持っていないからこのようになってしまっているのです。ですからその記憶を元に動くのは私が協力します」
ロイに言われて冷静になった彼は、大きく深呼吸をすると、頭を下げた。
これまで多くの記憶を失っている。
その時の記憶はないし、痛みもないから失うことは怖くないけれど、また探しているものを奪われては探した意味がない。
それにこれまで無事だったからといって、この先もずっと無事でいられるとは限らないのだ。
「ああ、確かにそうですよね。わかりました。お願いします」
記憶がほんの少し戻ったことで舞い上がってしまっていたようだ。
それによって同時に少し焦りも出てしまったらしい。
慎重に動かなければ危険だと前にも指摘されていたのにと、彼は反省すると同時に落ち着きを取り戻してそう答えたのだった。