記憶喪失の旅人(5)
彼の持っている記憶の量が少ないこと、先ほど一度記憶の糸に触れて、少し情報を持っていたことなどもあり、ロイはものの数分で彼の中にあるその日の朝食の情報を切り取って、切り口をうまくつなぎ合わせると残りの記憶の糸を元に戻した。
多くの人の記憶に触れているロイでも、さすがにここまで酷い扱いをされているのを見るのは初めて、そのくらい彼の記憶は切り取られ、糸は痛ましい状態になっていた。
全ての記憶を確認するのに数分とかからないくらい、本当に生きるのに最低限の情報だけが残されていて、その情報から彼はどうにか、本能的に生きるための術を身につけてここまでやってきたようだ。
それが彼の記憶の糸の状況から見てとれた。
でもそれを見えない彼に説明するのは難しい。
だから記憶の糸の詳細に触れることはしない。
処置が終わって、彼の意識がこちらに戻り始めたのを確認したロイは、急に動かなくていいですと伝え、そこから彼が自力で体を起こせるようになるのを待つ。
そして彼が座り直したところで、改めてロイは彼に向き直った。
「ご気分は問題ありませんか?」
普通であれば少ない大したことのない記憶だけれど、彼の中に残っている記憶の量を考えると、朝食の記憶だけを預かってもそれが残された記憶のかなりの割合になる。
今まで多くの記憶をまとまった形で抜かれている状態を確認した事はあるが、彼のようにあちらこちら、術者の都合で継ぎ接ぎだらけにされてしまっている中から、多くの割合にあたる記憶を預かったことはない。
けれど彼への負担は相当大きいものだろうとロイは見ていた。
しかし彼は平然と首を横に振る。
「ええ。特に違和感はありません。本当に記憶がなくなっているかもわからないくらい馴染んでいます」
むしろ馴染み過ぎてよくわからないし、記憶を預けているという記憶があるからか、その時に朝食の記憶と言われた事を覚えているからか、むしろ安心感がある。
今まで意識が戻る度、恐怖におびえていたのとはまるで違うことに驚いているくらいだ。
「そうですか、安心しました」
本当はもし不安になるようなら、ロイが預かった記憶の中身について彼に説明することで、その記憶の内容を補おうと考えていた。
けれど彼はそれは必要ないという。
今までがひどかったせいか、ロイがきちんと対応した記憶の箇所に関して、彼は特に違和感を覚えていないそうだ。
思い出せないけれど、思い出せなくて苦しいとも思わないし、その記憶がないから不安とか、今までのような焦燥感もない。
今まで彼のされてきたことが、いかに酷いものであるかの証左でもある。
そんなこともあり、彼はぼんやりとした意識からもすぐに回復し、すでに体を起して椅子に座っていた。
ロイがとりあえずお茶を出しながら、今後の事を決めた方がいいだろうと用件を切り出した。
「あなたはこの後どうされるのですか?」
「え?」
何を聞かれているのか分からないといった様子の彼に、ロイは自分の聴き方が良くなかったと慌てて言葉を変える。
「しばらくこの街に滞在するなら、多少の確認はこちらでできますが」
「いいのですか?」
確かに探すために必要になるからと記憶を預けた。
けれどそれはロイがその魔法を使って探すのに必要なものであって、その相手や場所が分かったら自分が動かなければならないと思っていたのだ。
いくらこのような縁があったとしても、これは自分の問題。
そしてロイはあくまで自分が依頼を出したギルドの管理人なので、彼はまさかロイが自分のために探りを入れてくれるとは思っていなかったのだ。
彼がロイに期待の目を向けると、ロイは苦笑いを浮かべる。
「ギルドの事が分かったとして、今のあなたがそこに行けば、また記憶抜かれて放り出されるだけでしょうから、さらに記憶が抜け落ちるだけです。この国の場合、そのやり方そのものが違法ですが……。仮に思い出されたギルドから、その断片は取り戻せても、更に昔の記憶がそこにあるという保証はない。そもそも見つからない可能性も高い。それでもいいですか?」
どこにあるのか分からない記憶を探すなど、途方のないことだ。
しかし彼は、それを取り戻すために旅をしているという。
本来の目的がどこにあったかは不明なので、現状本人がそうだと思っている目的ではあるが、それがあったにしても、しらみつぶしに探し歩くのはかなり大変だったはずだ。
しかもそれを掴みかけると悪意のある者に記憶を抜き取られてしまうのだから、彼は自分が何者なのかをいちから探す事を延々と繰り返させられ疲弊してしまっている。
とにかく彼には一度休息が必要だとロイは判断した。
その間、ロイは預かった記憶の糸、そして、自分の使えるものを活用して彼の記憶のありかを探るという。
「わかりました。今は少しでも手がかりが欲しいのです。よろしくお願いいたします」
彼の承認を得られたこともあり、ロイは大きく息を吐いた。
「では、何かあったらこのギルドにきてください。こちらで何かわかったら宿を訪ねることにします」
「はい」
「宿までお送りしましょうか?」
記憶の糸を二回も引き出され、二回目は記憶を預かるところまで行った。
体の事も心配だし、何より彼がここまでの事をされなければならないのには、大きな事情があるはずだと考えた。
帰りに記憶を抜かれるようなことがないよう、せめて宿まで送り届けた方がいいかもしれないとロイは考えたが、彼は慣れてしまっているのか、一人で問題ないという。
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「とりあえずゆっくりお休みください。それと、あまりご自身では動き回らない方が安全かもしれません」
しつこくついていくというのは、彼のプライドを傷つけることになるだろうと考えて、ロイは彼についていくことを諦めた。
一応宿の場所は教えてもらっているので問題ないし、今日預かった記憶の糸は管理室で管理をするのではなくロイが持ち歩く予定で、もし彼の中から記憶が離れて動くようなことがあればすぐにわかるし、それを頼りにその部分だけを取り戻すことはできると考えたのだ。
仮に、それが口封じのためにされていることだとしたら、彼はとっくに殺されているはずなので、相手には彼の身体を傷つけられない事情があるということだろうから、きっと命までは狙われない。
多少の怪我をする程度だろう。
だからロイは見送りという言葉を撤回し、忠告程度にとどめる。
「そうですね……この先のことはとりあえず宿で考えてみます」
彼は自分で宿泊を決めた宿の場所は覚えているし、一人で大丈夫だという。
いくら心配とは家、ロイが彼に四六時中ついていることができるわけではないので、あまり過保護に扱っても仕方がない。
そう考えたロイは、とりあえず素性のわからない客人を送り出し、しばらくしてからギルドを閉めるのだった。