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最期の会話と失われた言葉(7)

「お母さん!お母さん!」


目を閉じた女性に向かって、娘が何度も母親に呼びかける。

ロイは女性の方を近付く事もせずじっと見ながら、ほどなくして肩を落とした。


「あの、ロイさん……?」


隣に立つ先輩に小声で聞かれたロイは、うつむいたまま首を横に振った。


「おそらくもう……」


ロイの言葉に先輩も力なく口にする。


「そうか……」


先輩はそう言うと、ロイを一瞥してから妻の元に向かった。

そしてその事実を女性に伝える。

女性は先輩の言葉を聞いて目を見開いたが、すぐ母親の方を凝視した。

先ほどまで息のあった女性のぬくもりは、まだいたるところに残っている。

女性はそのぬくもりが消えるまで、母親にすがりついて嗚咽を繰り返した。

そして夫である先輩は、そんな女性の背中を悲痛な面持ちで黙って撫で、その様子をロイはしばらく黙って見守ったのだった。



「母のこと、どうしてお分かりになりましたの?」


母親を送り出す支度をするため、ロイを別室に案内しお茶を出したところで、先輩の妻がそう尋ねた。

泣き疲れて憔悴した様子ではあるものの、口調はしっかりとしているし、先ほどの様子を見ていなければ憔悴していることすら気が付かなかったかもしれない。

貴族というのはこういう事を繕得なければならないのだなと思いながら、ロイは先輩の方を見た。

先輩はというと、妻を気遣いながらも、彼女の質問の答えに興味があるようで、ロイの方に視線を向けている。

ロイはそんな二人の要望に応えるべく、簡潔に理由を伝えた。


「人が亡くなると、その記憶は魂の元に戻ります。横になっている彼女の中から、記憶の糸を見つけることができませんから、魂とともに、体を出られたのだと思います」


預かっていた記憶の糸が消えた時、その人は亡くなったのだとロイは知る。

ボビンから外れた可能性もあるので、記憶の糸が消失した時点でロイは預けた主の事を確認するのだが、今まで一度もその生存を確認できたことはない。

今回、ロイ達と話をしている時は、確かに記憶の糸が彼女の中にあるのを感じていた。

しかし彼女が目を閉ざした時、その糸は崩れるように薄くなっていったのだ。

そして彼女の呼びかけに対して、その反応は薄くなり、それと共にだんだんと糸は細くなって消えていったのだ。

これまで何度かしか見ていない、記憶の糸が命と共に消失する瞬間を、ロイは今回目に焼き付けていた。


「もう母は、いないのですね」


ロイが魂は出て行ったと伝えると、彼女は肩を落としてそう言った。

しかし肉体はまだ部屋にある。

ただそれを本人と言っていいかと問われると迷うところだ。

記憶の糸がなければ、人間らしい受け答えができなければただの人形と同じで抜け殻と言われても仕方がないかもしれない。

けれど過去、幼少期のロイはその抜け殻にすがって生命を維持していたことがある。

例えその中にもう本人の意識がなくても、そこにある体は間違いなく本人のものなのだから、いないと表現するのも憚られる。

けれどただ一つ、ロイが家を出ても変わらなかったものがある。

彼女の求めている答えとは違うかもしれないけれど、ロイはそれを伝えることにした。


「お母様はあなたの記憶の中にはいらっしゃいます。そして先程の会話は私たちも聞いていました。最期、皆と言葉を交わすという念願を叶えて旅立ったのです。あとはあなたがそれを時々思い出してあげればいい。あのように最期に立ち会うことができ、会話ができたのは奇跡です。人は突然いなくなることの方が多いですから」


ロイの言葉を聞いて息をのんだのは先輩だった。

少なくとも先輩はロイが戦争孤児だった事を知っている。

その別れや経緯までは聞かされていないかもしれないが、立ち会うことができなかったということに思い至ったのだろう。

そして彼女も、先輩と同じ考えに思い至ったのか、少しうつむいた。

その様子から、彼女は何度も母親とのやりとりを胸に刻んでいるように見える。

自分が辛い別れを経験したにもかかわらず、自分たちのために尽力してくれたロイの誠意を無駄にはできない。

これは忘れてはいけないことなのだ。

彼女はきっとそう考えたのだろう。

彼女がそうしている間、先輩もロイも彼女の邪魔はできないと無言だった。



しばらくすると彼女は顔をあげてもう一度ロイの方を見て、改めてお礼の言葉を述べた。


「あの、落ち着きましたら是非、今度は主人の友人としてお越しください。歓迎いたしますわ」

「ありがとうございます」


二人がそんな会話を始めたところで、部屋にノックの音が響いた。

母親を見送るために支度ができたのか、準備についての確認があるのだろう。

先輩が入室を許可すると、部屋を尋ねてきた使用人の表情は明るくない。

不幸があったのだから、むしろ明るい方が奇妙なので客人がいようがそれでいいということだろう。


「奥様、ご来客中申し訳ございませんが確認が……」

「ええ。行くわ」


使用人が途中まで言ったところで、かぶせるように彼女は答えた。

そして立ち上がると、その場で姿勢を正してから深々と頭を下げる。


「申し訳ないのですけれどお見送りはできそうにありません。ですがいつか、お礼をさせてください」


先輩だけではなく、妻である彼女も貴族であるはずだ。

そんな彼女が、平民であるロイに頭を下げた。

対面を重視する貴族にとって、それはあってはならないことのはずだ。

それを何のためらいもなくやってのけた彼女は、先輩と似た者同士なのかもしれない。


「いえ、お気遣いなく」


ロイクールがそう言うと、先輩が早く確認の方へと向かうよう促す。


「見送りは私がするから問題ない。君はお母様のことをしっかり対応しておいで」

「はい。それではお言葉に甘えて、失礼いたします」


彼女は最後にそう言うと、使用人の後ろについて部屋を出ていった。

そんな彼女はここの女主人として凛とした様子だった。

虚勢を張っているだけかもしれないけれど、彼女ならきっと母親の死を受け入れ、乗り越えていけるだろう。

何より彼女には、夫である先輩を始め、支えになる多くの人が付いている。

突然一人になって途方にくれた自分とは違うのだから、きっと心配は無用だ。

ロイはそんなことを思いながら、彼女を座ったまま見送ったのだった。



形上の依頼主が亡くなって、本来の希望をここにいてもロイにできることはない。

すでにできることはやり終えている。


「では私もそろそろギルドに戻ろうと思います」


ロイがそう言うと、先輩は名残惜しそうに言った。


「そうだった、仕事だから来てくれたんだよな。本来ならお礼を兼ねて一緒に食事でもといいたいところだが、うちもそれどころではないな。せめて帰りも送らせてほしい。準備のために少しだけ時間をもらってもいいか?」

「はい。構いません」


ご家族を亡くし、これから忙しくなるところだ。

覚悟はしていたことだろうが、だからと言って傷心の妻を放り出してロイと外食という心ない事をできるような人ではない。

けれどせめて、馬車の中だけでも話がしたいと、そういうことだろう。

それにここでロイが断れば彼の面目がつぶれてしまう。

断る理由は何もない。

ロイはそれならばと、カップに残っている冷めたお茶に手を伸ばしたのだった。

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