他国に売られた婚約者(18)
「どうされたのですか」
とりあえず自分の部屋の中にミレニアを招き入れたロイクールは、ミレニアに座るよう勧めた。
ミレニアは借りてきた猫のように大人しくその指示に従う。
「ええ、さっきも言ったけれど、ロイクールにお願いがあるの」
「何でしょう?私にできる事なら良いのですが……」
そう頼むミレニアにいつもの勢いはない。
椅子に座ってからも表情は硬いままだ。
何せ明日には今まで足を運ぶことすらした事のない知らない国に、王命で強制的に嫁がされるのだから、ミレニアの立場を思えば緊張が解けないのも仕方のないことだ。
ロイクールはそう思っていた。
けれどそうではなかったということが次で分かった。
ミレニアは正面に座ったロイクールをまっすぐ見てから、恐る恐る口を開く。
「むしろロイクールにしか頼めないことよ。ロイクール、私の中からロイクールの記憶を全て抜いて、私の中からあなたとの思い出を、いいえ、あなたに関する記憶を全て消してほしいの。そしてその記憶をあなたに預かっていてもらいたい」
ミレニアからロイクールが予想していなかった言葉が発せられ、ロイクールは耳を疑った。
確かに王宮魔術師は記憶管理ギルドに関する知識はあるけれど、実践経験はない。
師匠が記憶管理ギルド設立の事を奏上し、国の管理下で戦争の記憶に苦しむものを保護するようそれとなく圧力をかけた話も有名で、その仕事をロイクールが担っていたわけだからミレニアが接触できる人物で、一番詳しいのは自分で間違いない。
それだけでミレニアがその決意をしてくるわけがない。
詳細を知っているから願い出ているはずだ。
そうなると、ミレニアはイザークに相談してここに来たということだろう。
「イザーク様に聞いたのですか?」
ロイクールが確認するとミレニアはうなずいた。
「ええ。あの子が急に騎士を恐れなくなったのは、その恐怖の記憶を一時的にロイクールに預かってもらっていたからだって。それでも模擬戦の時、新たな恐怖は生まれたけれど、ロイクールとの特訓の成果もあって、今の自分があるって」
「そうでしたか」
ロイクールはミレニアから話を聞いて思わずため息を漏らした。
考えてみればイザークと結んだ魔法契約はすでに切れている。
だから家族に話すことは可能なのだ。
契約の切れたタイミングで話したのか、聞かれたから答えたのかは分からないけれど全てをつまびらかにすることが可能なのは間違いない。
「もともと父がそうなんじゃないかって思っていたみたいで、その話をする時、私も同席したのよ。ロイクールの事なら知りたいって。そこでロイクールのその能力の事を詳しく知ったわ。同時に記憶管理ギルドの設立にロイクールが選ばれた理由も納得できた」
ミレニアはの話では、特殊な能力を持ち、内容は分からずとも契約を結んでいる事を確認する能力のある当主が、その契約が切れたのを見計らってイザークに事情を聞くタイミングがあり、ミレニアはその時に同席してロイクールの能力を正しく認識した。
そしてイザークの場合は一時的に預けて、その記憶はすぐに返却されたけれど、記憶管理ギルドの話を聞けば、彼の大魔術師はもっと前に預かった記憶を未だに返却せずに預かっているということだ。
つまり、管理さえなされていれば、自分が戻してほしいと願わない限り、記憶を永続的に預けておくことも可能ということだ。
一人、部屋で明日の事を考えていたミレニアは、ふとその事を思い出し、ロイクールの事を思い出しては、帰りたい、辛いと嘆くくらいなら、ここに全てを置いていけばいいのではないかと考えた。
家族には会う機会もあるだろうが、ロイクールに接触することは生涯できないのだ。
そうなると希望はなく、ただ辛く苦しいものだけがこみあげてきてしまう。
ミレニアは切実にロイクールにそう訴える。
「あの、責めるつもりはありませんが、私にここに滞在を願ったのは、その思い出を胸に、それを心の支えにしていこうとしていたからではなかったのですか?」
辛く苦しく悲しい記憶が残っていると前に進めない人は世の中にたくさんいる。
そんな人をロイクールは師匠と共にたくさん見てきた。
そして同じ内容でも、辛いと感じる度合いが人によって違う事も知っている。
だから師匠はその人が記憶を手放したいと、そうしなければ気が狂ってしまいそうだとか、自死しそうだという人の記憶を一時的に預かることで、その人の回復を手助けするのは間違いではないとロイクールに教えていた。
その人からすれば、代えのきかないその人だけが持つ、特定の出来事に関する全ての記憶を、生きるための代償として差し出しているようなものなのだと。
だからミレニアが記憶を預けたいと申し出てきたのはそれだけ思いつめてのことなのだと一旦は理解する。
ただミレニアは、生涯分の思い出をここで作ってしまいたいと言っていたはずだ。
それも含めてすべて置いていきたいのだと言われると、自分だけではなく、大切にしようとしていた思い出も一緒に捨てられてしまうのだとさすがに複雑な心境になる。
普段ならこんなことを聞き返すことなどないロイクールだが、ついミレニアにはそうしてしまった。
ミレニアはうつむいて両手をしっかり握りこんで声を震わせながらゆっくりと答えた。
「最初はそのつもりだったわ。でも、作られた思い出が幸せすぎてしまった。これでは思い返すたびに辛くなってしまうわ。でも、第三者に自分の記憶を預けたいとは思わない。だって忘却管理ギルドに預ける場合、犯罪に利用されないよう、抜き取る記憶の中身を、術者は確認するのが決まりなのでしょう?それなら共に思い出を作ったロイクール、あなたに預けたい。私とあなたの思い出を他の人に見られたくはないわ」
残念なことに、父親もイザークは忘却魔法が使えない。
国に登録している記憶管理ギルドには記憶を引き抜き管理する能力のある人がいるけれど、記憶の適切な管理という観点からも、自分の記憶の内容は術者に見られることになるし、その前後、余計なところも覗かれる可能性がある。
もし引き抜かれた記憶を管理ギルドに預ける場合も、それが犯罪に関係していないかどうかを確認するためその記憶の内容を確認されることになってしまう。
結局、第三者が記憶を手にした時点でその中身を隠しておくことはできないのだ。
だったらせめて、信頼できるロイクールに全てを委ねたい。
「それが、ミレニア様の望みなのですか?」
ロイクールが確認するとミレニアは迷うことなくそれを肯定する。
「ええ。今の私ではこの苦痛に耐えることはできそうにないわ。向こうに行っても支えてくれる人はいないのだもの。せめて、甘えとなる記憶と未練をここに置いて、嫁いでいきたいと思っているわ」
まだ離れていない今の時点で苦しいのだ。
本当に一人になってしまった時、この悲しみに耐えられるとは思えない。
だったら貴族の矜持を残して、それを支えに国の架け橋になるよう努める方がいい。
それが自分の払った犠牲の代償になる。
「そう、なのですね……」
自分はミレニアの記憶の中に残ることすら許されないのかと、さすがのロイクールも複雑な思いで強く唇をかんでうつむいたのだった。