他国に売られた婚約者(17)
謁見の間で啖呵を切った勢いそのままに、ロイクールは寮の部屋へと足を運び、多くもない荷物をカバンにまとめるとそこを後にした。
飛び出したところで行くあてはない。
しかしお金はそれなりに持っているので、とりあえず移動先が決まるまでは街に宿を取るつもりだったのだ。
けれどその必要はなくなった。
カバンを持って寮を出ると、寮の入口でイザークが馬車と共に待機していたのだ。
「退職を申し出ると聞いていたのでお迎えに上がりました。次が決まるまではうちに滞在してください。それで、姉さんが国内にいるうちは少しでも長く過ごしてほしいのです」
イザークはそう言うと頭を下げた。
これはこちらの我儘に過ぎないし、ミレニアが彼らから言われたことを拒否できないのは自分たちの落ち度だからだ。
「イザーク様、頭を上げてください。私も特に行くあてがあって出るわけではないので、お言葉に甘えさせていただきます。今の私は自由の身ですし、旅に出ると言ってもいそぐものではありませんから」
一番辛い思いをしているのはミレニアのはずだ。
望みもしない相手のところへ無理矢理輿入れさせられ、さらにはいつ故郷に戻ってこられるかもわからない。
相手が気に入ってということなのだから、相手がミレニアをよく扱ってくれることを祈るばかりだ。
先ほど顔を合わせた皇太子に自分も国外に出ることは認めないと言われたが、それでも勝手を知っていて、知り合いのいる国内にいられる。
知り合いのいない国外で一人奮闘させられるミレニアの苦労を考えたら、今の苛立ちや勢いだけでここを離れる必要はない。
自分の滞在をミレニアが望むのならと、ロイクールは受け入れた。
「ありがとうございます……。あの、荷物はそれだけですか?」
ロイクールはとても身軽だ。
頻繁に旅に出ていて寮も宿感覚で使っていたようなものだし、師匠と旅をしていた時間が長かったので、常に持ち物は最小限なのだ。
「はい。もともとここに持ち込んだものはほとんどありませんし、部屋に残してきたものは、備え付けのものと、旅には不要なものなので」
貴族は個室を与えられると大抵カスタマイズするため家具を持ち込んだりしている。
それができることが貴族のステータスになるからである。
けれどロイクールはほぼ身一つでやってきて、能力を買われて突然入寮することになった平民だ。
最初から持ち歩けないほどのものを持ち込んでいないし、その後、確かに大きな家具などの運びこみはなかったのだから購入したりもしなかったのだろう。
「わかりました。後から何か思い出したり、家について確認して忘れたものがあった場合は私が取りに行きますから言ってください。もう、ここには戻りにくいでしょう」
イザークはそう納得して、とりあえず馬車に乗るよう勧めた。
「わかりました。ここに長いをするのも気分が良くないでしょうし、謁見の疲れもあるでしょう。うちでゆっくりしてください」
「お気遣いありがとうございます」
そうして二人は馬車でミレニアの待つ家へと戻ることになるのだった。
それからというもの、イザークの言葉に甘えて、ロイクールはミレニアたちと彼らの家で家族のように過ごした。
限られた時間しかないけれど、ミレニアは仕事に行っていないし、ロイクールも無職だ。
今までは先々のことを考えて、社交界に近い場所を外出先に選んでいたが、二人が体裁を気にする必要のない立場になったことから、行動範囲を広げ、遠出をすることもあった。
もちろん、ロイクールだけがミレニアとの時間をもらうわけにはいかないので、そんな時は一人外出して時間を潰すこともした。
ロイクールは突然家族を失った。
だから別れを惜しむ時間はなかったし、ショックは大きいものだった。
せめて最後に話をしたかった、そう思うことも少なくはない。
けれどこうして別れを惜しむ時間を与えられてみれば、それはそれで悲しいものなのだなと感じていた。
けれどミレニアとは死に別れるわけではないのだから、また会える可能性もあるし、その時間を作るために尽力することも可能だ。
そういう意味では少し羨ましくもある。
ただ、ミレニアが一人、他国で心穏やかに過ごせるかどうかは不明だ。
向こうでの生活や環境に関する情報が少ないのだ。
ミレニアならきっとうまくやるのだろうが、一から関係を築いていくのが大変だろうことは容易に想像ができる。
だからこそここにいる間はせめて彼女にできることをしたい。
ロイクールはお世話になっている間、より一層ミレニアを気遣った。
そしていよいよ別れの前日。
翌日の輿入れの支度はすでに終えており、ゆっくりとその日が終わろうとしていた。
夜になり、翌日にはミレニアが他国に引き渡されてしまう。
いよいよ別れの日が来るのだと一人になったロイクールがぼんやりとそんなことを考えていると、部屋のドアにノックの音が響いた。
ここにいるのは関係者だけだと分かっているものの、長旅からの習性でロイクールはドアを開ける前に警戒を強める。
そしてその警戒を解くことなく、静かにドアを開けて外にいる人物を確認する。
ロイクールがドアを開けると、そこには思いつめた表情のミレニアが一人、廊下に立っていたのだった。
「お願いがあるの……」
ドアが開いてすぐ、放心状態にも似た様子でミレニアはそう口にした。
「あの、中にご案内した方がいいでしょうか?」
さすがに貴族の習慣を勉強したロイクールは、ミレニアと二人、この部屋にいるのはよくないと理解している。
平民として生活をしていれば、とりあえず中に通すのは普通のことだが、ここではそうではないと学んでいる。
生粋の貴族であるミレニアからすれば、尋ねてきたとはいえ部屋の中に案内されても困るかもしれない。
ロイクールが慎重になって使用人のような聞き方をすると、ミレニアは寂しそうに微笑んでうなずいた。
「ええ。ゆっくり話がしたいわ。貴族令嬢としての体面を気にしてくれたのでしょうけれど、私にその必要はないのよ。私はこの国でそのようなものを気にする必要がない立場なのだもの」
その噂が自分をこの国に呼び戻してくれるわけではない。
何より、元婚約者となってしまったロイクールとの別れを惜しむことは王族側も了承している。
ここで何が起ころうが文句を言われる筋合いはないし、ロイクールが誰よりも誠実な人間であることはミレニアが一番よくわかっている。
だからこうしてまだ早くとも夜とみなされる時間にロイクールを部屋まで訪ねたのだ。
「わかりました。お宅にお邪魔している私が申し上げるのもなんですが、どうぞお入りください」
「ええ、そうさせてもらうわ。あまり人には聞かれたくない話なの」
だから人の目の多い応接室は使いたくない。
そういうことらしい。
ロイクールが許可を出すと、ミレニアはホッとした様子でロイクールの使用している客間へと入っていくのだった。