忘れたいものと忘れたくないもの(5)
記憶を消したくないという彼女の意思を尊重し、円満に話を進めるにはどうするのがいいのか、ロイは少し考えを巡らせてから言った。
「それでしたらご提案できるのは、あなたが言った通り一度記憶を抜き、短い時間で戻す契約をする。記憶が戻ってからはそれをあなたが抱えていく、くらいでしょうか。費用はいただくことになりますし、私は尋ねられたら契約書を開示して身の潔白を証明することになるので、あなた一人が辛い思いをする提案になりますが……」
「それで構いません。お願いします。私から彼だけではなくて、彼との思い出まで奪わないでください!」
彼女の意思はどうやら変わらないようだ。
ロイは自分の立場で言うべきか少し迷ったが、彼女のひたむきさに負けて口を開いた。
「これは本来、私が言うことではないかもしれませんが、忘れたふりができるのなら、魔法を使わないのが一番いい。確かに預けた記憶は戻すことができる。けれども、その記憶が完全なものとは限らない。一度無理やり切り離した糸を繋ぐのだから、つなぎ目ができるくらいのイメージを持ってもらえれば分かりやすいかもしれないが、縫物をするのに不必要に足りている糸を切って繋ぎ直したりはしないでしょう?」
「そうですね……」
彼女は縫物なり刺繍なりをするのだろう。
しっかりと糸を思い浮かべながら言われたことを考えているようだ。
ロイはそんな彼女に続けて言葉を掛ける。
この先は提案だ。
「もし、その記憶のボビンなどを証明として見せなければならない約束などをされているのなら一度記憶を抜くしかありません。ですがそのような確認は先ほどもしませんでした。もしボビンそのものの確認が不要ならば、記憶を気出さないことを勧めます。それにあなたは嫁いだ後、彼ともご両親とも、あまり会うことはないのですよね」
「はい」
「それならばあなた次第です。本人が希望しないのに記憶を操作することはできませんし、そのような状態で記憶を抜いたら、戻ろうとする力が強すぎて糸が切れやすくなってしまいますから」
切れた部分の記憶は戻るが切れた場所が多ければ多いほどつぎはぎ、結び目が多くなると思えばいいのだとロイは付け加えた。
彼女はロイの言葉をしっかりと受け止めて少し悩んでから結論を出した。
「では、私はフリをすることを選択いたします。……あの、この事は内密にしてもらえませんか?」
「はい。私からは何も申しません。ですが記録には嘘は残せませんので、ここで契約破棄の手続きは済ませていただく必要があります。あと、付き添いの方には本人の希望通り終了したとしかお伝えできません。すでに準備は行っておりますので、当日キャンセルとなりますし料金はいただくことになります。それでよろしいですか?」
「はい。ありがとうございます」
彼女の同意を得たところでロイは早速、契約破棄の書類を用意した。
「では、こちらにサインをお願いいたします」
「はい……」
彼女はそれが契約破棄の書類であることを確認し、恐る恐るサインをした。
それを確認してから、ロイは彼女に先ほど皆の前でサインをしてもらった、記憶を抜き預かるという内容の契約書を提示する。
「こちらが先ほどの契約書です」
「……間違いありません」
「魔法契約の破棄は初めてですか?」
「はい……、少し怖いです」
自分で希望して行った契約を自分の希望で破棄する、どんな罰も受けるとは言ったものの、この先自分の身に何が起こるのか分からないため不安はぬぐえないようだ。
ロイは彼女の気持ちを察して、契約破棄を正式なものとする前に彼女にどうなるのかを説明することにした。
「ここでの契約はあくまでギルドが記憶を見たり預かったりするのにあたり、不当だと言われるのを防ぐものですし、破棄をしてすぐ命を奪われるようなものではありません。ですが私が記憶を抜かなかったことが、私とあなた、共に国に対する虚偽申告、つまり違反行為を行ったということにしまうので、別のところで罪に問われないため、しっかりと手続きをしておく必要がある、というだけです。今回の契約ならば、きちんと手続きをすれば問題ありません」
説明を受けて彼女がうなずいたので、ロイは契約破棄の契約書と、元の契約書を重ねた。
重ねられた二枚は淡い光を放って、しばらくすると一枚になり、その一枚はくすんだ色に変わる。
くすんだ色というのは、元の契約書が魔法契約の効力を失った色だ。
処理が終わると、ロイはくすんだ契約書を持ち上げて彼女に見せた。
「これで契約は破棄されました。契約書の色が変わっていますが、契約書全体に破棄の印が刻まれたためです。細かいですがよく見ると、この模様みたいなものが全て破棄の印になっているのです。ご覧になりますか?」
「はい……」
彼女は契約書を自分の顔に近づけて、角度を変えながら目を凝らしている。
「すごい……。ありがとうございます。これが魔法契約の破棄された書類なのですね」
契約書がどういう状況になっているのか理解した彼女はそれをロイに手渡した。
ロイは受け取りながらうなずく。
「そうです。基本的にどの魔法契約でもきちんと処理されればこのようになります。何度も行うものではありませんが、もし今後、魔法契約を破棄されるようなことがあったら、元の契約書がこのように変化していることをご自身で確認されるといいですよ。契約破棄は書いただけでは成立しないものなので」
「知りませんでした……。ありがとうございます。勉強になりました。気をつけるようにします。……私、このギルドを選んで良かったです」
嬉しそうにしている彼女を見てロイは安堵した。
「そう言っていただけると……。では、一応、あなたがフリをするためのお話ですが、これから少しリラックス効果のある、少し眠気のあるお茶をお飲みいただこうと思います。本来は記憶を抜き出す際に、その抵抗を和らげるため、意識をぼんやりさせることを目的として使用するのですが、魔法をかけなければ特に副作用はありません。魔法効果のない睡眠導入剤のようなものです。おそらくこの飲み物をお飲みになって、意識が戻った時のぼんやりした感じというのはご存じないでしょう」
「はい、そのようなものは使ったことがありませんので」
両親をごまかすのに必要なものだと説明したロイの最後の提案を彼女は受け入れた。
続きを説明しながらロイはお茶を手早く準備する。
「お話に結構な時間を使いました。今からお飲みいただくので効果は弱めてあります。ですが飲んだらすぐ、こちらに横になってください。座ったままですと後ろに転倒する可能性がありますので。そして短時間意識を手放していただいて、あなたの意識がぼんやりとしている状態のままお迎えを呼びます。あとはあなたの芝居次第です」
そう言ってロイは彼女の前にお茶を出した。
「はい。頑張ります!本当にありがとうございました」
彼女は素直にそれを一気に飲み干すと、言われた通りすぐに移動してそこで横になった。
目を閉じるとすぐに眠りに落ちる感覚があった。
ロイは彼女を案内してからの時間が、記憶を抜くのにかかる時間と同じくらいになるようお茶の効果を計算し調整をしていた。
目の前で眠っている彼女は、記憶を残せることに安堵したのか笑顔を浮かべている。
ロイは破棄された契約書類が見えないようにしまって、彼女の様子をうかがいながら、自分と彼女を重ねていた。
そしてこの先どんなに辛いことがあっても、自分の意思で愛する人の記憶を残すという選択をした彼女の幸せを、ひっそりと祈るのだった。