シャーロットは未知の生物に遭遇する
本作は現代を生きる作者の知識と経験に基づくため、時代設定的におかしな部分があるかと思います。
疑問に思う箇所は、『この国ではこれが普通なんだ』と自己暗示をかけて読み飛ばしてください(ここテストに出ます)
侯爵夫人シャーロットといえば、社交界では有名な貴婦人だ。
蜂蜜色の艶やかな髪を持ち、澄んだサファイアの瞳をもつ傾国と謳われるほどの美人で、頭も良く、それでいて気立も良い。かと言ってそれを鼻にかける様子もない。
気高く完璧な貴婦人かと思いきや、話すととても気さくな彼女は皆の憧れの的だった。
これはそんな完璧な侯爵夫人シャーロットが唯一翻弄させられた、未知の生物との戦いの記録である。
***
初めての出産はシャーロットにとって、とても耐え難いモノだった。
あんなに痛いなんて聞いてない。あんなに長時間かかるなんて聞いていない。正直死ぬかと思った。
口に出しては言えないけれど、最後にいきんで子を産み落とした瞬間は大きい方を排泄したような、そんな感覚だった。
感動なんてまるでない。やっと終わったという解放感しかなかった。
「おめでとうございます、シャーロット様。元気な男の子です」
そう言って、助産婦が生まれたばかりの男の子をシャーロットに抱かせてくれた。
夫ルーカスと同じ黒髪にシャーロット譲りの青い瞳を持つ赤ん坊は、柔らかく、弱々しかった。
少し力を入れれば簡単に壊れてしまいそうなほどに…。
我が子を腕に抱いた時、シャーロットは思った。
(私は子どもが苦手だったのかしら?)
姉の子を抱かせてもらったことだってあるし、慈善活動の一環として度々孤児院へ出向いて子どもたちと遊んだりもしている。
けれど今、自分が腕に抱いている赤子は、今まで接してきた子どもたちとどこか違う気がした。
侯爵家の大事な跡取り。
うまく言い表せない、妙なプレッシャーがシャーロットを襲った。
*
「えっと…な、何でしょう?」
皆が寝静まった頃、ベビーベッドの柵の隙間から、こちらを見る赤子と目が合う。
特に声を発する事も体を動かせる事もなく、ただただジッとこちらを見つめるだけの赤子にシャーロットは戸惑った。
「そ、それはどういう感情なの?せめて瞬きくらいしてちょうだいな。ちょっと怖いわ」
シャーロットはとりあえず、何を訴えているのかを探ろうと赤子に近づく。
すると、赤子は突然泣き始めた。
その泣き声に驚き、シャーロットは慌てて抱き上げる。
「な、ななな何故に泣いているの?突然どうしたの?何がご不満なの?…お願いだから喋って…言葉を…ジェームズ…お願いよ」
赤子からすれば無理難題なわけだが、目の下にクマを作ったシャーロットは、思わず赤子に問いかけた。
もちろんのこと、赤子がその問いに答えてくれることはない。
「我が子がこんなにも理解できない生き物だったなんて…」
そういえば、孤児院の子どもたちは言葉が通じ、対話できる年齢の子が殆どだったなとシャーロットは思い出した。
ジェームズと名付けられたその赤子は、はじめの3ヶ月間はよく眠るとても良い子だった。
だいたい3時間おきに授乳する必要はあるものの、乳を与えればすぐに寝てくれた。
全て事前に教わっていた通りだったので、シャーロットは『夜中のお世話は1人で大丈夫だから』と使用人たちに言ってしまっていた。
しかし、生後3ヶ月を過ぎたあたりからジェームズは何故か夜中に泣き出すようになった。
おしめを替えても、乳を与えても、抱っこしてあやしても泣き止まない。
「いい?ジェームズ、要求は口で伝えるものよ。泣いていてもわからないわ。女の涙は時に武器となるけれど、男の涙が武器になることなどそうそうないのよ?もちろん、男が泣くなと言っているわけではないわ。貴方のお父様だってよく泣いているもの。感動的な本を読んだとか、友人が結婚したとかそんな理由で。だから、あなたが泣くことも悪だとは思わない。きっとたった3ヶ月半しか生きていなくても泣きたくなることがあるのでしょう。それは理解しているつもりよ?けれど、いつまでも泣いていても仕方がないでしょう?もしかして察して欲しいタイプなの?たしかに私も貴方のお父様に『察してくれよ!』と憤る事はあるけれど、物には限度というものがあってね?いくら何でも全部を察する事はできないわ。せめてヒントくらいはちょうだいな。貴方のお父様は…そうね、例えば旅行に行きたい時はパンフレットをさりげなく机の上に置いて、こちらをチラチラと見てくるわ。そして、私が『旅行に行きたい』と言い出すのを待つの。まあ、自分から言えば良いのにとも思うけれど、あれは多分誘った時に断られるのが怖いからそんな事をしているのよ。だから私は彼の望み通りに『旅行に行きたい』とおねだりするの。何が言いたいのかって?つまり、私が言いたいのは、せめてそのくらいのヒントは頂戴という事なのよ。いや、そこまであからさまでなくとも良いわ。もう少しわかりにくくともちゃんと察してみせましょう。だから本当に。ええ、本当にお願いします。ほんと、あの、喋ってください…。言葉にするって大事な事だと思うの。何のために人間は言葉を持ったと思っているの?…あれ?何のためだったかしら。ああ、ダメだわ。頭が回らなくなってきた…」
我が子を抱きながら、無表情でぶつぶつと呟くシャーロット。
彼女はジェームズを抱いたままスクワットをしたり、ジェームズに正論を説き伏せながら部屋中を歩き回ってみたり、とにかく忙しなく動いていた。
事情を知らない人が見たら、その光景は赤子を抱き、何か呪文のようなものを唱えて怪しい儀式をする魔女のように映る事だろう。
それでもジェームズは泣き止まない。
出産前、彼女は自らの手で子を育てることを選んだ過去の自分を少し呪った。
完璧でなんでもそつなくこなせるシャーロットは、少し驕っていたのかもしれない。
「今更よね…」
もちろん乳母も雇ってはいるが、彼女が手伝うと声をかけてくれたのに『大丈夫だ』と豪語した手前、今更『助けてくれ』なんて言いづらい。
いつもなら今更と思うことがあっても、人手が必要な時はすぐに助けを求めるのに、何故かジェームズの事となると素直に助けてと言えない。
寝不足のせいか、それとも侯爵家の跡取りの命を預かっているというプレッシャーのせいか、シャーロットは冷静な判断ができなくなっていた。
こうして、シャーロットは誰かに助けを求めることも出来ず、ひとり、小さな命と向き合う夜が続く事となった。
*
「シャーロット、大丈夫か?」
朝食を摂りながら、夫ルーカスは顔色の悪い妻に声をかけた。
ここ数日、仕事で忙しいルーカスは家を空けることが多く、久しぶりに見た妻の顔がげっそりしていることに驚きを隠せない。
だが、シャーロットはいつものように、にっこりと淑女の微笑みを浮かべ、『大丈夫ですわ』と返した。
本当は大丈夫な事なんてない。おしめを替えようとするとおしっこを飛ばされ、乳を与えようとしても何故か拒否するジェームズ。
昼間は使用人たちの目もあるので努めて穏やかに振る舞うが、夜は人目がない分、理解不能な我が子への苛立ちを隠す事なく顔に出している。
(きっと、夜中の私は般若のような顔をしているのでしょうね)
だから我が子は、夜になると泣き止まなくなるのだろう。
昼間は大人しく寝ている事が多いのに、夜になると気が狂ったかのように泣き出すのは、きっとそのせいだ。
疲れた様子のシャーロットに、ルーカスや使用人たちはいつでも手を貸すと言っている。
だが、何故だかシャーロットの口からは『助けて』の一言が出てこない。
彼女は頑なに『大丈夫』と言い張った。
*
とある日の夜。
相変わらず仕事が忙しいルーカスはまだ帰宅していなかった。
その日もシャーロットは、心配そうにする使用人たちを下がらせたあと、1人で泣き叫ぶジェームズを抱いてあやしていた。
「どうして泣いているの?」
乳は与えた。おしめも替えた。
抱いてあやしてあげているのに一向に泣き止まない我が子が、シャーロットは理解できない。
「泣きたいのはこっちよ…」
シャーロットはそっとジェームズをベビーベッドに置くと、自身もベッドに潜り込み頭から布団をかぶって耳を塞ぐ。
理性で動く人間は扱いやすいが、まだ理性などない赤子はシャーロットの思う通りには動かない。
(可愛いと思えないなんて、母親失格だわ)
シャーロットは子を産んでからずっと、我が子が可愛いと思えていなかった。
弱々しくて、誰かの庇護下にないと今にも死んでしまいそうな生き物。乳を飲んで排泄して、あとは泣くか寝るしかしない生き物。
皆は可愛いと言うが、シャーロットにとって赤子は理屈の通じない未知の生物だった。
そもそも、乳母やルーカスに抱かれたら笑うくせに、シャーロットが抱くと泣く赤子など、どうやったら可愛いと思えようか。
シャーロットは声を押し殺すようにして、布団の中で泣いた。
ここまで尽くしているのに何の見返りもなく、未知の生物と対峙する答えのない日々に彼女の心はもう限界だったのかもしれない。
コンコンコン、と扉を叩く音が聞こえ、シャーロットは焦って寝台から飛び降りる。そして涙を拭い、泣き叫ぶジェームズを抱くと『どうぞ』と返事をした。
「夜分遅くに失礼するよ、シャーロット」
中に入って来たのは、ルーカスと乳母のヘンリエッタだった。
泣き声がうるさくて様子を見に来たのだろうか。シャーロットは思わずぎゅっとジェームズを抱きしめて身構えた。
ヘンリエッタはシャーロットに近づくと、泣いているジェームズをそっと撫でる。
そして優しく微笑み、シャーロットにジェームズを渡すように言う。
「今夜は私にお任せください。少しお休みになられた方がよろしいわ」
「ヘンリエッタ…。だ、大丈夫よ?私は全然…」
「大丈夫ってお顔をしていらっしゃいません」
「で、でも…」
「シャーロット様、私はご自身の手で育てたいと仰る貴女様の意思を尊重したいと思い、今まで黙っておりました。ですが、もう見過ごすことはできません」
ヘンリエッタはシャーロットの前に立つと、鋭い目つきで彼女を見る。
上手くできないことを叱責されるのだと思い、シャーロットは俯き、ぎゅっと目を瞑る。
しかし…。
「あんまりシャーロット様が頑張ってしまわれると、私のいる意味がございませんわ!お給金を頂いている以上、仕事を与えてくださらないと困ります!」
ヘンリエッタは力強く、ハッキリとシャーロットに物申した。
シャーロットはポカンと口を開けた。
「シャーロット様、今夜は私にお仕事をさせてくださいね」
ヘンリエッタはそう言って微笑んだ。
そして、泣き疲れていつの間にか眠っていたジェームズをシャーロットの手から取り上げると、そのまま連れて行ってしまった。
呆然とするシャーロット。
そんな彼女の頭をルーカスは優しく撫でる。そして廊下を見るように促した。
シャーロットが廊下の方へ視線を向けると、そこには使用人たちが心配そうな顔でひょこっと顔を出していた。
「シャーロット。皆お前を心配しているんだぞ?」
シャーロットは、俯いたまま「ごめんなさい」と小さな声でつぶやいた。
「違うんだシャーロット。謝る必要はなんてないんだ。君は立派に母親としての責務を果たそうとしていただけ。だから、胸を張って」
「でも、私は…」
何もうまく出来てない。
「シャーロット。俺が言いたいのは、つまりだな…。お前の身支度の手伝いをしているメイドのアシュリーは、お前を美しく着飾ることを生きがいにしている。庭師はお前の喜ぶ顔が見たくて、最近新しい種類の薔薇を手に入れたらしい。シェフはお前がおいしいと笑ってくれるのなら地獄の果てだろうと、食材の買い付けに行くことも厭わないと言っている。まあ、地獄まで行かれると困るのだが…。とにかくだ。皆、シャーロットが大好きなんだよ」
ルーカスはシャーロットの前に跪くと、彼女の手を自分の手で優しく包み込んだ。
「皆頼って欲しいと思ってるんだ。そして、それは俺も同じなんだよ」
「…ルーカス」
「シャーロット、今まで一人で無理をさせてすまなかった。気づいてやれずにすまなかった」
ルーカルは心のどこかで、『シャーロットは完璧だから、彼女が大丈夫と言うのなら一人で大丈夫に違いない』と思い込んでいたのかもしれない。
彼女の性格を考えれば、赤子が苦手な事くらい想像に容易い。けれども、彼女は決してジェームズの手を離さなかった。
『だからシャーロットは必死に小さな命を守った立派な母親なのだ』と、ルーカスはそう言って笑った。
その言葉にシャーロットはポロポロと静かに涙を流した。
「私、本当はすごく辛くかった。でも誰かにジェームズを託すのも怖くて。かと言って一人でジェームズの命を背負うのも辛くて…」
一人で小さな命を背負うことは辛いが、大事な我が子を他人に預けるのも怖いと思う事。
子育てすら出来ないと思われたくないのに、出来なくても良いから解放されたいと思う事。
泣いてほしくないのに、泣かないと息をしているかどうかをついつい確かめてしまう事。
今まで誰にも言えなかったことが溢れて止まらない。シャーロットの心は矛盾ばかりだ。
「なあ、シャーロット。ジェームズは侯爵家の大事な跡取りだ」
「はい」
「侯爵家のみんなで、ジェームズを育てていこう?」
「…はい」
ルーカスがコクコクと小さく頷くシャーロットを優しく抱き寄せると、彼女は小さな子どものように声を上げて泣いた。
その日の夜、シャーロットはルーカスの腕の中で大事に抱き抱えられながら眠りについた。
翌朝、泣き腫らした目を擦りながらシャーロットはぽつりと呟く。
「嫌いになりましたか?がっかりしましたか?」
「どうして?」
「うまく子育てできないし…、それに、子どもみたいにたくさん泣いたし…」
「子育てに上手い下手なんてないだろう。あと、いつも完璧なシャーロットが泣いている姿は唆るので問題ない」
真顔で堂々とそう言うルーカスにシャーロットはクスッと笑みをこぼした。
「ふふっ。変態ですわね」
ルーカスは久しぶりにシャーロットが心から笑う姿を見た気がした。
***
数年後、何とか赤子という生き物に慣れて来た頃、シャーロットはまた、未知と遭遇していた。
「な、何がいやなのですか?ジェームズ…」
「いや!いーや!いやいや!ないの!しないの!いやなのおおおお!」
ジェームズは庭師が手入れしている最中の生垣のそばで、ひっくり返ったカブトムシのように手足をバタバタさせて暴れていた。
何が嫌なのかわからないが、先ほどからシャーロットがその場を一歩でも動くと泣き叫ぶジェームズ。
前進することも後退することも、椅子に座ることすら許されず、シャーロットはただ庭の生垣の前で立ち尽くすしかなかった。
最近、何かとイヤイヤイヤイヤと駄々をこねている時が増えてきた我が子に、シャーロットは戸惑いを隠せない。
「り、理解できない…」
正直、この泣き声には気が狂いそうだ。
しかし、そんな時にはメイドのアシュリーがジェームズの相手をしてくれる。
「ほら、ジェームズ様。てんとう虫ですよ?」
「いや!いーやああ!」
「あ、バッタさんですよ。ジェームズ様」
「いやあああ!」
「あ、真っ赤な薔薇の花です。綺麗ですねー」
「…きれーねー!」
棘を取った薔薇を庭師が手渡すと、ジェームズはにっこりと笑顔を見せた。
「わからない…」
その光景を見ていたシャーロットは額を押さえて項垂れた。
昨日は薔薇を見せても泣き止まなかったのに、今日は薔薇でご機嫌を取り戻している。
理解できない。
機嫌が悪くなるスイッチも、機嫌が良くなるスイッチもどこにあるのかわからない。
まさに未知の生命体。
だが、シャーロットにあの頃のような悲壮感はもうない。
ジェームズがおぼつかない足取りで、シャーロットに駆け寄ってくる。
シャーロットはしゃがみ込むと、自分の胸に飛び込んできた我が子をぎゅっと抱きしめた。
ジェームズは、シャーロットの頭に薔薇を乗せると「かぁいー」と言って笑った。
泣いていたせいで目に涙を溜めて鼻水を垂らしているのに、シャーロットにはジェームズが天使のように可愛く見えた。
…………おまけ………
さらに数年後。
精神年齢が似ているせいだろうか、ルーカスはジェームズと気が合うらしい。
「ロイヤルストレートフラッシュです」
「あ、あり得ない!イカサマだ!卑怯者!」
「失礼な。父様が弱いだけでしょう?」
今年8歳になったジェームズは、尊大な態度で父にカードを突きつけた。
それを本気で悔しがる父ルーカス。
ポーカーのようなゲームにおいて、すぐ顔に出るルーカスに勝ち目はないらしい。
「では約束通り、僕は母様と結婚します」
「ははは!残念でした〜。シャーロットは俺と結婚してるんですぅ〜」
「それでは約束が違います!」
「ただの口約束なんて無効ですー」
「くっ!なんと卑怯な!大体、母様みたいな素晴らしい女性に父様のようなポンコツは似合いません!不釣り合いです!」
「何だと!?ジェームズだって大概ポンコツだろうが!聞いたぞ?この前自分で仕掛けた落とし穴にハマったそうじゃないか」
「な、何故それを!」
どうやら、ルーカスはシャーロットが息子を構ってばかりで気に食わないらしい。
一方のジェームズは、完璧な貴婦人の母親に強い憧れを抱いているらしく、将来は母様と結婚すると心に決めているそうだ。
そのため、休みの日はほぼほぼシャーロットを賭けた勝負を繰り広げている。
「今日も我が家は平和ですね」
同レベルの喧嘩をするこのアホ可愛い親子を眺めながら、シャーロットは大きくなったお腹を優しく撫でた。
読んでいただきありがとうございます。
まあとりあえず、子育てを頑張る全てのママさんに幸あれです(´・ω・`)
何となくセンチメンタルな気持ちになったので書いてみました。冬は情緒が不安定になりがちですん…。
ちなみに、その弊害により作者のメンタルはただ今お豆腐状態なので、苦情は一切受け付けません←おい
あ、お豆腐の種類ですか?木綿です。1丁46円のやつ。
それでは最後に…。
毎回、私の愚作の誤字脱字を指摘してくださる方々にも幸あれです。いやほんと、ありがとうございます。
読者様に5億円あたりますように_(:3 」∠)_