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「ハナコ。起きなさい」
午前五時三十分をすぎた頃に、カオルがハナコの肩に手をかけて揺すり、起きるように促した。
ハナコは「んん」と口の中で声を洩らし、そして目を開ける。視界はもう明るくなっていて、目の前に立つカオルは既に身支度を整え、荷物もまとめ終えていた。
「あ、……おはようございます」
昨夜はすみませんでした。そう謝りながらベッドから起き上がるハナコに、カオルは何も言い返しはせず、ハナコが起きたことを確認しただけで身を翻し、自分のベッドに座ってタバコを吸い始めた。サイドボードには缶コーヒーが二本置いてあり、まだ両方とも冷たかった。
「コーヒー。目覚ましにでも飲みなさい」
「すみません、ありがとうございます」
ハナコは恐縮しながら礼を言い、それを飲む前に、まず洗面に行って歯磨きと洗顔をして、寝腐れた浴衣を脱いで服を着替えた。化粧は手持ちのポーチに入っていたファンデーションと口紅だけで済ませた。
「六時にはチェックアウトして駅に向かうから」
カオルが、だから早く支度を整えなさいと言外に伝えてくる。声は何かを抑えるように低い。そういえば起きなさいと言ってきた時も低い声だったとハナコは思い出す。カオルは何か機嫌が悪いのだろうか。昨夜酔いつぶれて介抱させてしまったからだろうか、それとも時間ぎりぎりまで眠ってしまってカオルに起こさせたせいだろうかと考え、少し不安になってくる。
ハナコはカオルが用意してくれた缶コーヒーをありがたく飲み、そして遠慮がちにタバコをくわえた。カオルも喫煙者だから、タバコに関して文句を言うことはまずなかった。時計を見ると、五時四十五分をすぎたところだった。
「あなたが一服し終わったら出るから」
カオルがそう言いながら自分でもタバコをくわえて火をつける。カオルはタバコを吸うペースが早かった。深く吸い込み、ふうっと吐き出して、あまり間を置かずにまた吸い込む。
「切符は、さっき買っておいたの。行く場所も決めてあるから」
さくさくと物事を進めようとするカオルの声は固い。ハナコは魂の抜けたような声で相槌をうつだけだった。他に何の反応も思いつかなかった。
窓の向こうでは、車の走る音が盛んに行き交っている。街はもう朝を迎えて動きだしている。
二人の行く先は、JR青梅線の青梅駅だった。そこは東京の最奥地とも言われたことがあり、東京都内とは思えないほど山に囲まれた土地で、カオルの提案した軽いハイキングコースもあった。この青梅には、吉祥寺からだと東京駅から出ているJR中央線の下り列車に乗り、立川駅から青梅線に直通するか、立川で青梅行きあるいは奥多摩行きに乗り換えて行くことになる。所用時間は一時間弱。下り列車なだけあって、上りの新宿・東京方面行きよりは遥かに乗客が少ない。
カオルは電車の中で、ほとんど口をきかなかった。ハナコはその沈黙を静かな怒りのように感じ、身を固くして隣に座っていた。これから学校や会社に行く人たちの中で、自分達は異色のように思えて、そのことの後ろめたさもハナコを固くさせていた。
電車は問題なく走る。立川駅をすぎて乗客がぐんと減る。そのために視界はひらけ、流れる景色がよく見えるようになる。青梅に近づくにつれて、高い建物がマンション以外には見られなくなり、そして東西南北のどこを見ても山の姿が影になって景色を作るようになる。ハナコは青梅という地名は聞いたことがあったものの、実際に行ってみるのは初めてだった。連なる山を眺めるうち、その山の中の一本の木に首を吊ってぶらさがる自分を想像してしまい、ぞっと鳥肌をたてた。けれど、これからそれは現実になるのだ。
そうしているうち、電車は青梅の手前の駅をすぎ、車内にアナウンスが響いた。
「御乗車お疲れ様でした。次は終点、青梅。青梅です。下り奥多摩方面へおいでのお客さまは、反対側二番線にお乗り換え下さい」
それは死刑宣告のようだった。ハナコはぎくりとして宙に視線を泳がせ、カオルは何を考えているのか気取らせない無表情で「青梅に着いたら、まず駅前のトイレに入るわよ」と言った。それは、ハナコに成人用おむつを着けさせるためだった。
ハナコは青梅で下車すると、カオルに言われたように成人用おむつを着けたものの、普通なら着けずにすむものを着けているという違和感が羞恥心を煽った。外見からは分かるまいと思いはしても、それでも歩きにくいと感じた。幸い、二人が目指す山への道は人通りが少なく、それでハナコはようやく耐えていられたようなものだった。
山へは、駅を出てすぐ左に曲がり、真っ直ぐ進んで、突き当たったところでまた左に曲がり、そして次に突き当たったところでは右に曲がって道なりに坂道をのぼっていった。その坂は思いのほかきつく、二人とも半分くらいで息が切れてきた。
その坂をのぼりきったところで道は十字路になり、左に曲がって短い坂をのぼると、そこがハイキングコースの入口だった。一般車両は通行止めになっている。二人は白く低い柵の間を通って古びたアスファルトの道に入っていった。左手には大きなグラウンドが見おろされ、右手には粘土質らしい感じの山肌が木々の根に絡まれながら晒されていた。鳥の鳴き声は、カラスも混ざってはいたが、圧倒的に野鳥のものが多かった。
道はヒビが入っていたり、部分的にアスファルトがえぐれていたりしていた。右手の下の方にあるらしい広場への階段の入口を通りすぎると、ややきついのぼり坂になる。それをのぼりきると舗装された道は終わり、第一休憩所に着いて、後は、ほぼ平坦な土の上を歩いていくことになる。それは、小学校の遠足以来、二十年ぶりに見る山の中、木々の本来の姿だった。見上げると、木々の先では薄い朝靄がかかって太陽の光を滲ませていて美しかった。ハナコは、ここのどこで自分は死ぬのだろうと思いながら広がる景色を眺め渡した。
カオルは何もかも構わないといった雰囲気で黙々と歩いていた。ローヒールのパンプスを履いているハナコと違ってショートブーツを履いているぶん、何度かハナコより一メートル以上先に進んで行った。ハナコは足許に張り出した木の根やごつごつと飛び出している岩の一部に足を取られそうになりながら、必死についていった。ひたすら歩くにつれ、周りの景色を見る余裕はなくなっていった。
第二休憩所をすぎ、第三、第四休憩所もすぎ、道が二手に分かれているところでカオルが右の方を選んで、心臓破りの坂道をのぼった。その坂が終わろうとする辺りで、左手側に矢倉台休憩所への階段とも坂道ともいえるような道に着き、二人は息を切らしながら、重く感じられる足を励ましてその休憩所に立ち寄った。そこには屋根とベンチのある小さな建物のようなものがぽつんと建っていた。山と多摩川と町並みを一望にできて、見晴しはとてもよかった。
そこでタバコを吸い、吉祥寺のキヨスクで買っておいたペットボトルのお茶で喉を潤して、カオルはキャリーカートのファスナーを全開にした。その中には必要な物が全て入っており、いつでも使えるように準備がされてあって、夜中カオルが眠れずに、仕方なく暇つぶしに準備していたことを知らないハナコは、その荷物を見おろして、その周到さに明らかに怯えた。カオルは、こんな風に、どこまでも確実に目的を果たそうとしているのかと思うと、目の前の彼女のことが、ただの殺人者にしか見えなくなってきた。そして、彼女は違う、私の目的を果たすのが彼女の目的なのだ、と自分に言い聞かせるように心の中で繰り返した。
「ここなら、適度に目立たないわね」
カオルがそう言って背筋を伸ばし、手頃な枝を探すようにぐるりと辺りを見回した。ハナコは、こくりと息を呑んだ。
いよいよ自分は殺されるんだ。ハナコはそう痛感する。カオルはキャリーカートのファスナーを一旦閉じ直し、休憩所から降りるための道へ足を踏み出した。それは、よりよい枝を見つけるための動作だと明らかに見てとれる。ハナコの足が、カオルについて行きかねて立ちすくむ。
カオルはそんなハナコの方を振り返ろうとはせず、降りる道に一歩踏み出したままの姿勢で「ハナコ」と声をかけてきた。
「ねえ。たった数日間の、それも片方が片方を死なせるような特殊な関係だもの。お互いについては知っていることが少なければ少ないほどいいと思うのよ。だけどハナコ、あんたはこれっきりだから、最後に吐き出したいものがあるなら吐き出しなさい」
「え、でも……」
何を吐き出せというのか。ハナコには何も具体的に浮かんでくるものがなかった。カオルは焦れたように語調を厳しくした。
「あんたには不満も未練もないっていうの。遺書にだって書いたじゃない。悲しいんでしょ、悔しいんでしょ。なら、何か思うことだってあるんじゃないの。そもそもあんた、お金がないならサラ金から借りてまで男に渡さなければよかったのよ。何であんたが多重債務の返済に苦しんで、お金をせびってるだけの男がのうのうと日々をすごしてトンズラしてるわけ? ねえ、あんただっておかしいと思うでしょ。男が自分でサラ金から借りればよかったんだって」
カオルの言うことは、全てもっともなことだった。ハナコは自分の心の膿を絞り取られるような気持ちになって、呆然とカオルを見つめた。
ハナコは男と一緒にいたいがために消費者金融から借りてきた。けれど、そうやって彼の要望に応えれば応えるほど、ハナコは窮地に立たされ、男はそんなハナコの傍には寄ろうとしなくなり、一緒にいられなくなってゆく矛盾があった。自分は何と愚かなことをしたのかと、その悔しさに叫ぼうと思えば、いつでも声の限り叫べるだけの激情が心の奥底ではくすぶっていた。
「ねえ、あんたは、そうまでして幸せだったの。幸せを実感できたことがあったの」
カオルの口調が、諭すようなものに変わってゆく。ハナコは「どうして」と悔しそうな声で呟いた。
「どうして。これから私は死ぬのに、あなたは」
そして、カオルの背中をにらみつける。その視線に気付いていたのかどうか、カオルは強い表情で振り返り、互いの視線がぶつかりあった。
「……そう、あんたは死ぬのね。枝の目星はついたわ、こっちよ」
その枝は、どちらかというと小柄なハナコが、腕を伸ばしてジャンプするとようやく指先が届く程度の、ちょうどいい高さに伸びていた。太さも申し分なく、適度な見つかりにくさと見つけやすさが絶妙のバランスを保っていると思われた。
カオルが改めてキャリーカートのファスナーを開けて自殺のアイテムを取り出し、ハナコの目と耳を包帯を巻きつけて覆い、手拭いで口許を塞いで、ハナコを折り畳み式の椅子の上に立たせ、ロープ代わりのバスタオルを枝にかける。それを輪にして結び合わせ、バスタオル一本分で作っておいたロープ代わりのそれをハナコの首に絡め、枝にかかった輪と繋ぐように結ぶ。そうすると、後はカオルが椅子を蹴るだけになった。
カオルはそのありさまを凝然と見つめた。
情けない姿だというのが第一印象だった。ハナコは今、何を思って膝を震わせながら立っているのだろうか。あと一瞬、カオルの一撃で全てが終わってしまう。それは、拍子抜けするほどあっけないラストシーンだ。カオルは両腕を胸の下で組み、「ハナコ」と呼びかけた。その声は、包帯越しに、少しくぐもりながら、それでも張りのある声なのだろうと推測できる程度には、ちゃんと聞こえてくるものだった。
「首に輪をかけたまま聞きなさい。私の知り合いに、ラブホテルを経営している人がいるの。大学時代の先輩なんだけどね。……そこでは、掃除係を常時募集してるのよ。体力と手際のよさが勝負の肉体労働らしいけど」
一体、何を言い出すのか。ハナコは目も口も塞がれたまま、なすすべもなく声を聞く。
「あんたが、既に借金の元本以上は支払ってきてるっていうから、もしあんたが望むようなら、いつでも話してみてやろうと思ってたんだけど。そのホテルではね、住み込みで働く人も募集してるのよ。――この意味、分かる?」
ハナコの頭脳に、何かが突き抜ける。ハナコは手拭い越しにくぐもった声をあげ、そしてその瞬間、カオルが脚を大きく振って椅子を蹴りつけた。
ハナコの首が絞められる。本人がそれを自覚すると同時に、バスタオルが、ざんと音をたてた。