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 二日目。

 ハナコは外を走る車の音が遠く聞こえてくるなか、目を覚ました。

 音は遠いまま、近づいて、ひゅうと消えてゆく。それが果てしないように何度も繰り返される。

 それをぼんやりと聞きながら、淡くくすんだ天井を見上げた。自分の部屋ではない部屋の天井。そうだ、ここは昨日カオルと出会ってカオルにリードされながら入ったホテルの一室だ。

 そう思い出すと、途端に隣から聞こえる静かな寝息が耳についてきた。規則正しいカオルの寝息は健やかな生の象徴に感じられた。彼女は今日だけでなく、明日も明後日も、これからまだ、いつ果てるか知れない未来までこの寝息を夜毎繰り返す。今日か明日か、ハナコが寝息をたてることのなくなった後も、当然のこととして繰り返してゆく。

 ハナコはそっと身を起こしてみる。僅かな動作に伴う衣擦れの音は、はっとするほど部屋に響いた。

 カーテンを透かして部屋を温暖色に染める朝の日射しは、今どのあたりまで昇っているのだろうか。そっとベッドから抜け出し、足音がたたないように裸足のまま、窓の方へ歩く。カーテンの端をめくって見おろす街は、すでに新しい一日を受け入れて動きだしている。朝日は予想していた位置より高いところにあった。

 眩しさに目をしばたたかせながら、ハナコはそれを見つめ、そして背を向けてユニットバスの洗面台に向かった。今日はカオルに連れられて買い出しに行く予定だった。ホテル代まで出してもらっている自分が彼女より寝過ごしたら失礼だ。手早く身支度を整えておこう。それが、せめてもの礼儀だ。

 歯磨きを済ませ、顔を洗ってタオルで拭きながら、そういえばこんなに静かな朝は久しぶりだとハナコは思う。ここしばらく、朝も夜も関係なく、消費者金融からの督促に追われていた。数カ所から借りてしまっている自分は、生活費をぎりぎりに削ってまで返済にあてていたものの、利子さえももう払いきれなくなり、借金が雪だるま式にふくれあがっている。今までに、いくらぐらい返済にあてていただろう。一カ所につき元本以上の金額は注いだはずだが、それでも残った額は元本を下らない。どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 ハナコはタオルを口許にあてて深く息をつき、一度固く目を閉じ、開いて、覚悟を決めるようにユニットバスから出た。ハンガーにかけてあった自分の服を取り、皺のついた浴衣を脱いで着替える。昨日カオルと話した計画によると、自分はもう自宅に戻ることはないらしい。こうなることと知っていれば、いくらかの着替えも持って来られたのにと少し悔やむ。買い出しに行くついでに、安いシャツも買わせてもらおうか。

 そう思いながら、自分の匂いが染み込んだ二日目の服に袖を通し、ホテルの浴衣を畳んでいる時、カオルが目を覚ましてごそりと身じろいだ。右手で垂れてくる前髪をかきあげながら視線をさまよわせて、そしてハナコの姿を認める。

「……もう起きてたの」

 寝起きの少しかすれた声は妙に艶やかで、ハナコはどきりと胸を騒がせながら「はい。さっき、起きたばかりですけど」と返事をした。カオルは返事に興味などなさそうな様子で半身を起こし、サイドボードに置かれたタバコを手繰り寄せて一本引き抜いた。ハナコは申し訳程度に設置されているテーブルにあった灰皿を取り、サイドボードに乗せた。

「……ありがと」

 まだ眠そうな顔をしながら、カオルが低い声で礼を言う。ハナコは、彼女からこんなに素直そうな言葉を投げかけられるのは昨日出会ってから初めてのことで、どう応じたらいいのか、どぎまぎしてしまう。そういえば昨日は、ずっとどやされてばかりだった。自分が鈍いせいもあるだろうが、それを差し引いてもカオルの機嫌はよかったと思えない。主導権を握ってあれこれと提案しながら、実は自殺をサポートするという特殊な他殺行為を前に、緊張していたのではないだろうか。

「今……ああ、もう八時近いのね。驚いた。こんな時でも、夜になれば熟睡してるんだもの」

「そうできるなら、それが一番だと思いますけど……」

「あなたは、よく眠れた?」

「まあ、一応は ……お蔭様で」

 眠れて驚いたのはハナコも同じだった。屠所に引かれる羊のような状況で、信じられないほどすっきりと眠れてしまった。その上、深く眠れてもいたのか、夜中に目を覚ました記憶もない。自分にとっては、借金の督促よりは怒りっぱなしのカオルの方がまだ気楽なものらしい。そんな自分のふてぶてしさにも驚いた。

「ハナコ。私もすぐ着替えるから、朝食は近くの喫茶店にでも行きましょうか」

「あ、はい」

 浴衣を畳み終え、帯をくるくると巻いてその上に乗せ、ハナコはテーブルに置いてあった自分のタバコを手に取った。中にはあと数本しか残っていない。朝食を食べに出るついでに、死ぬまでの分として二箱くらい買っておきたいと思い、そんな死を前提にした計算をしてしまう自分にぞっとした。

「今日も日射しが強そうね」

 そんなハナコの心の内に構わないカオルの声は、自分の状況に対して前向きに伸びてゆく。そう、カオルはハナコを確実に死なせてあげるという目的のもと、この朝を迎えている。

 

「でね、買い出しなんだけど。吉祥寺って結構、百円ショップが多いのよ。可愛い生活雑貨の百円ショップもあるし」

 まあ、今回の目的は生活雑貨じゃないけどね。そう言い足して、カオルが淹れたてのコーヒーを口に含む。朝一番で入った喫茶店には、まだ二人以外に客の姿もないから、少し安心して話ができる。

「ただ、問題はロープなのよね。手頃な太さと長さの物なんて、なさそうじゃない」

「はあ。あの、どのくらいの太さが丁度いいのかは分からないんですけど」

「私も正確には分からないわ。とりあえず、体重をかけても切れない太さってところだと思う。ロープも首も切れない太さ」

「え、首が切れちゃうんですか」

「そうらしいわ。ロープが細すぎると」

 怖いわねえ、そんな溢れる血潮なんて、見たくないわね。カオルがぶるりと身震いをして、ゆで卵に手を伸ばす。テーブルの縁でカンカンと打ち、ひびを入れて器用な手付きで殻を剥いた。

「あと、成人用おむつは、包帯を買う薬局で試供品をもらえばタダで済むと思うの」

「あの……包帯とおむつって、何に使うんですか」

 おそるおそる訊いてみると、カオルがちろりとハナコを見やり、ゆで卵にかける塩を取りながら「包帯は目と耳を覆うため、おむつは本来の用途と大差なし」と答えた。ハナコには今ひとつ理解できない。その様子がカオルに伝わったのか、彼女はゆで卵を皿に戻して説明を加えた。

「つまりね、首吊りっていうのは、体の穴という穴から、中身が漏れてきてしまうらしいの。それで、漏れたり飛び出したりする物への対策として塞ぐ物を用意するわけ。……ああ、食事時にする話じゃなかったかしら。ごめんなさいね」

「……いえ、訊いたのは私ですから……」

 しかしダメージは大きかった。ハナコはテーブルに半分近く残っている自分の朝食を見おろして手を止めた。とても、平然と食べ続けることはできそうにない。仕方なく、コーヒーだけでも飲んでおくことにした。それにしてもカオルはなぜ、こんなグロテスクなことを話しながら食事が進められるのだろう。死んだ後の姿を目の当たりにしなければならないのは、カオルの方なのに。

「まあ、吊る道具はロープじゃなくちゃならないわけじゃないしね。昨日言った通り、ロープがなければバスタオルを何本か買って、縦に切って代用すればいいと思うのよ。それなら百円ショップで売ってるし」

「……はあ」

「じゃあ、一服したら一度ホテルに戻って、開店時間に出直しましょう。必要な物は決まってるんだし、買い出し自体はすぐに終わるわね」

 さっさと食べ終えたカオルが、そう締めくくってタバコの煙を吸い込んだ。


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