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「とりあえず、これからどうするかなんだけど」
アイスティーをストローでからからとかき混ぜながら、カオルが切り出した。
「どちらかの部屋に行くっていうのは、やめた方がいいと思うの」
「はい。私も、できればその方がいいと思います」
「でしょう?」
「はい。うちだと、狭いし、借金の督促が来るし……」
恥ずかしそうにハナコが付け加える。それを聞いて、カオルはハナコがなぜ自殺志願しているのか、おぼろげに分かってきた気がした。同時に、彼女が極度の金欠状態にあるであろうということも。
カオルは、さてどうしたものかと考える。彼女のテリトリーには行くべきではない。かといって自分の部屋に連れて行くのは危うく感じられる。だからやめた方がいいと言ったのだが、彼女について一つ知った今、尚のことその思いを強くしている。彼女のテリトリーに行っては自殺の計画どころではなくなるし、督促に来た人間に自分の姿を見咎められる可能性がある。自分の部屋に連れていって金目の物を盗まれたあげく逃げられるようなことがあっては、たまったものじゃない。
だとすると、適当なシティホテルでツインルームを借りることになるが、これは今の状況だと自分が宿泊費を負担することになるのだろうか。
カオルは、なぜ自分が赤の他人のためにそこまでしてやらなければならないのかと溜息をつく。殺人罪に問われずして他殺するということは、これだけの代償を求められるものなのか。
「じゃあ、とりあえず飲み終わったら出ましょう。都心から少し離れたシティホテルに移動しようと思うんだけど、いいわね?」
「あ、はい。でも私……」
「お金のことなら、いいわよ。部屋代くらいなら私が出してあげるから」
「でも、そんな……」
「嫌なの?」
「いえ、申し訳なくて」
恐縮しきった様子でハナコが俯く。カオルはことさら気にとめない風に装って「いいから、早く飲んで行きましょう」と促した。
最初に二人が募集のチラシを見たのは、国分寺の駅前だった。つまりそこは生活圏内だから、知っている人間に姿を見られる危険性がある。そこを避けるとするなら、適度に人が出入りしている場所でいて、近くに自殺用品を買い揃えることができる店のある場所がいいんじゃないだろうかとカオルは考える。そしてその店は雑然としていて客の出入りが激しい方がいい。たとえば、大型の百円ショップのように。
二人はとりあえず吉祥寺までの切符を買って渋谷駅の改札を通り、山手線で新宿まで行って、中央線の下りのホームへ向かった。あいにく電車は行ってしまったばかりだった。次までは十分近くある。カオルはバッグからシガレットケースを出しながらハナコへ声をかけた。
「ちょっと喫煙コーナーに行ってもいいかしら」
「あ、はい」
ハナコが頷きながら自分のバッグに手を入れる。どうやら彼女もタバコを吸うらしかった。カオルは、これでタバコを吸う時に気を遣わなくて済む、と少しほっとした。
喫煙コーナーでは、数人のサラリーマンが忙しなくタバコを吸っていた。時間は午後一時四十五分。普段ならば働いている時間だ。カオルは不思議な気持ちになりながらタバコをくわえた。隣では何を考えているのか分からない表情で、ハナコがタバコに火をつけている。
電車が来ると、二人は空席を見つけて腰をおろした。電車は朝のラッシュとは打って変わって閑散としている。何だかのどかな雰囲気があった。
窓の方を見やり、流れる景色を眺める。似たようなビルや家を何度も通りすぎる。刺激のない景色は眠りを誘うようで、カオルは重くなってくる瞼を必死に開いていた。ハナコはもの思いにふけるような表情で、じっと車内の空間に目線を投げ出していた。
吉祥寺に着くまで、二人の間に会話はなかった。駅を出て、必要最低限のやりとりでホテルを決め、コンビニエンスストアで食料と飲み物を仕入れ、チェックインして二人きりになった時、ようやく会話が再開された。
「まずは方法なんだけど」
「はい」
ベッドに座り、ペットボトルのアイスコーヒーを一口飲んで喉を潤し、カオルから提案する。
「やっぱり、確実な方法は首吊りだと思うのよ」
「はあ……」
「嫌なの? 何か希望する方法があれば言ってね」
「特に、ないんですけど」
「けど?」
「苦しそうだなあ、って」
ぼんやりとした面持ちでハナコが答える。カオルにはとっさに返す言葉がなかった。本来ならばまだ続くはずの命を絶つのだ、何で苦しくないことがあろうかと思う。どんな方法をとったとしても、必ず苦痛を伴ってしかるべきなのだ。
「首吊りはね、運が悪い場合を除いて、体重がかかった瞬間にぐっと死ねるんですって。苦しむ時間は短いものだって」
「あ……そうなんですか」
「ええ。でもあなた、本当に希望する方法はないの? あれば協力するけど」
「え、……怖くないですか」
ハナコが肩を縮こまらせながら、上目遣いで見つめてくる。
「何が」
「そんな、……死なせる方法を、こうやって話しているのって」
「あんた、人をバカにしてるの」
何のための待ち合わせだったというのだ。カオルは頭に血がのぼってくるのを感じた。渋谷駅前の交番の近くで他殺だなんていう物騒な単語を平然と口にした人間の言うことなのか、と憤慨しそうになるのを辛うじて抑える。
「すみません、バカになんてしてないです」
「そう。でも、これだけは覚えておいてね。この話し合いはあなたのためのものだってことは」
他殺という自分の目的を棚に上げて、ぴしゃりとやり込める。ハナコは細く囁くような小さい声でもう一度「すみません」と謝ってきた。
「いいわよ、もう。それより方法のことを進めましょうか」
「はい。お願いします」
ここまでくると、「お願いします」とは、つまり、全部こちらに任せきろうとしているのだろうかとカオルは穿った見方をしてしまう。何しろハナコは響きが鈍い。今までどういう人付き合いをしてきたのだろうと疑問に思う。どんな時も、相手はそれなりに苛立たしい思いをさせられただろうに。
「建物の中では周辺の人たちに迷惑をかけすぎると思うのよ。やるなら山の中、それも普段着で歩けるような軽いハイキングコースのある山だと思うの」
カオルは自信をもって提案した。
「これなら、吉祥寺にある百円ショップでここ数日に必要な物や自殺の材料の大半を揃えられるわ。今日必要な物は外泊用品と替えの下着、計画の実行に必要な物は、ロープかロープの代わりにするバスタオルを数本、踏み台代わりの折り畳み椅子、包帯、手拭い、そして成人用オムツ。あと、時間は少し遅めの朝がいいわ。早朝だと、そういう山道はジョギングや犬の散歩で結構人通りがあるの。そうね、平日の七時過ぎがいいかしら」
計画はすんなりと口を衝いて出た。案外あっさりと思いつくものなのだと、カオルは我ながら驚いた。ハナコは隣のベッドに落ち着かない様子で座りながら、ちろりと上目遣いでカオルを見た。卑屈な眼差しだった。
「あなた、詳しいんですね」
低く呟くように言われて、カオルは軽いショックを受けた。自分がこうした暗い内容に詳しいことよりも、それをハナコに指摘されたことがショックだった。ハナコは気味悪そうにカオルを見ている。
「そんな、怯えた顔しないで」
カオルは声を抑えながら言った。カオル自身が驚くほど、まるで傷つけられたような声音になった。
「自殺の方法なんて本からの受け売りよ。山道のことは、私の実家が田舎で、高校生だった時にダイエットでジョギングしていたからだし」
第一、あんたが考えるべきことを考えようとしないせいじゃないの。内心でそう毒づきながら、カオルはしっとりとした表情でハナコに向き合った。カオルはいつしか、ハナコのことを自分より格下だとみなすようになっていた。そのハナコから、こんな見られ方をするのは堪え難い屈辱だとカオルは怒りを抱いた。ハナコは今、私を軽蔑しようとしているのか? 冗談じゃない。
視線が絡み合った瞬間は、時間が止まったかと思われるほど何もかもが固まっていた。ハナコは何かに打たれたような顔で、「ごめんなさい」と謝った。
「せっかく、カオルさんが色々考えてくれているのに。それが自分の死に方についてだと思うと、つい……すみません」
そう言ってハナコはうなだれた。そうだ、これから死のうとしている人間なのだから、感じやすくなっているのだとカオルは思い直すことにする。自分にとっては気分転換のための数日でも、彼女にとっては人生最後の数日なのだ。
「いいわ、もう。それより百円ショップを見て来ない? 吉祥寺には何軒かあるわよね。今日の外泊用品と替えの下着も欲しいし、明日の買い出しの下見も兼ねて」
気を取り直すように語調を切り替えて、カオルはハナコを誘った。いくら飲食物が入手済みとはいえ、明日まで二人きりでこの部屋に籠もっているのは退屈そうだし息が詰まりそうに思えた。外に出れば少しは気持ちも晴れるだろう。必要な化粧水などは今日を含めてせいぜい三日分なのだから、百円の物でも構わないだろう。下着はホテルに戻ってすぐに洗って干しておけば、夜までには乾くだろう。
「そう、ですね」
ゼンマイの止まりかけた人形のような反応でハナコが賛同し、二人は速やかにベッドから立ち上がった。