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出会いの日。
他殺志願者は有給休暇をとって、待ち合わせ場所に向かった。途中の花屋で一番安い赤バラを購入し、とりあえず、余分な茎の部分を折りとって、ゆったりしたサイズのトートバッグに放り込む。そして時間の五分前には着くよう、時計を見ながら歩いた。彼女は誕生日や何かの記念日は忘れやすいものの、時間には几帳面な方だった。
そして壁画の前に立ち、バッグから少ししなびた赤バラを取り出し、所在なさげに指先でもてあそびながら辺りを見渡した。白バラの人物はまだ来ていないらしい。目の前を足早に通りすぎてゆく人の流れは、誰もが何かの目的に向かっている。その中でぼんやりと待つだけの自分がもどかしい。それに、うしろめたい目的があるせいか、数メートル先の交番が気になってしょうがない。
早く来ればいいのに。他殺志願者は口の中でそう呟いた。待ち合わせの時間まであと二分。それにしてもサポートしてもらう立場の方が先に来ているべきではないのか、と少し不快に思う。日射しが強くて、汗が滲んでくる。紫外線はどれくらいの強さなのだろう。
華奢なデザインの腕時計で、時間を見つめる。秒針の、じりじりと刻まれてゆく時の動きに意識を集中する。壁画の傍らにある交番は静まりかえっているように見える。うしろめたいながらも、何だか涼しそうで羨ましかった。この場所は何だか居心地が悪い。
とりあえず、相手が来たら適当な店に入ってアイスティーを飲もう。どっしりしたグラスに、細かくクラッシュされた氷がたくさん入っていて、澄んだ色の紅茶が氷と混ざりあいながら光るアイスティー。そう思いながら壁画に背を凭せかける。
時計の進み方がやけに遅く感じられる。約束の時間はもう二十秒すぎた。三十秒、四十秒……一分……。
そして横から遠慮がちに「……あの」と声をかけられたのは、約束の時間を数分すぎてからだった。
「はい」
声で応えながら、他殺志願者は顔を振り向けた。自殺志願者の声は少し高めで、緊張のせいか裏返り気味だった。重そうな色のショートカット、御丁寧に一本だけをラッピングした白バラ。間違いなく彼女だろうと確信する。
他殺志願者は、ようやく現れた相方の頭から爪先までを、さっと見てみた。古びていないのに、どことなくくすんで見える服。化粧もごく普通に整えられているのに、どこかぱっとしないものがある。目許の表情が弱い。幸せの薄そうな人だと感じられる。自殺志願をするほどなのだから、薄幸なのは当然かもしれないが。
「あなた、ですか? 他殺志願なさってらっしゃる」
「とりあえずお店に入ってお茶でも飲みながら話しましょうか」
相手の外見をチェックしているうちに、自殺志願者が口を開いた。しかし何で公衆の面前の、しかも交番付近で他殺だなんて物騒な単語を出すのか。他殺志願者はとっさに話題を切り出して、彼女の言葉を遮った。これから、この人物の自殺をサポートするのかと思うと、出会ったばかりなのに気が重くなってきた。
「……あ、はい」
自殺志願者はためらいがちに頷き、さっさと歩きだした他殺志願者の傍らについて歩いた。赤バラはハチ公像の周りにある植え込みに投げ込まれた。白バラは用を果たして使い道もないまま、所有者の手に残っていた。
「――で、私はあなたのサポートをするわけだけど」
適当な喫茶店の奥の方の席につき、注文を済ませ、それが届くのを待ってから他殺志願者が切り出した。
「とりあえず、お互いの呼び名を決めましょう。簡単なニックネーム。本名を出すのはお互いのためにならないと思うの」
特に自分のためにならない、とは言わずにおき、何がいいかしらねえと唸ってみせる。自殺志願者は考えているのかいないのか、ぼんやりと向き合っている。
「私のことはカオル、とでも呼んでちょうだい。あなたは……」
「え、私は、……ええと、あの」
そこで、ハンカチを両手でいじりながら考えこむ。そのさまが見ていて何となく苛立たしく、相手には悪いが少し意地悪な気分になってくる。
「じゃあ、あと五秒で決まらなかったらハナコ、で決定ね」
声音だけは優しくしながら、ちっとも優しくない気持ちで話を進める。
「え、でも……」
「四、三……」
「あ、あの」
彼女がうろたえた声を洩らす。おそらく頭の中では焦りだけが沸きたって、自分の呼び名など浮かんではいないだろうと思われた。
「……二、一」
「あ」
「――ハナコ。これからよろしくね。ほんの数日間のつきあいだと思うけど」
他殺志願者は慈悲なく言い切って、自殺志願者の方に握手の手を差し出した。
「あ、……はい」
軽く握った自殺志願者の手はひんやりとしている。指先が細く華奢だった。
これから先は、この呼び名に合わせ、自殺志願者をハナコ、他殺志願者をカオルと表記する。