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Ending

 その時、何が起こったのか。

 首に回されたバスタオルによって枝から吊るされるはずだったハナコは、わけが分からないまま地面に転がった。頬に腕に、岩肌や枯れ枝が容赦なくぶつかってくる。それらは擦り傷を作り、泥のシミをつけてハナコの体をはねのける。

 その衝撃が止んだ時、ハナコは目と耳を覆う包帯に手をかけて引き剥がし、目を見開いて自分が倒れている地面を、周りにそびえたつ木々を、そして仁王立ちで見おろしてくるカオルを見た。

「むかつくのよ」

 バスタオルを切った裁ち鋏を掲げたまま、カオルが憤りをあらわにする。

「本当に、むかつくわ。私が怒りながらでも生きていこうとしているように、あんたも、泣きながらでも生きていきたいんじゃないのか。そう思うと、あんたの消極的に死に向かっていく姿が、むかついてしょうがなくなってくるのよ」

 まとわりつくバスタオルの切れ端や包帯や手拭いをそのままに、ハナコは、喋り続けるカオルの瞳に吸い込まれるかのように、呆けた顔で見上げていた。

 カオルはそれを、じっと見おろす。彼女の脳裡には、昨夜酔いつぶれてトイレに凭れながら、止めどなく涙をこぼしていたハナコの姿があった。

 どれだけの間、そうして見つめあっていたのか。ハナコがふと俯いた。

「……ごめんなさい」

 言葉と一緒に、涙が落ちて地面に消えてゆく。

「ごめんなさい。生きたいです、ごめんなさい」

 ハナコは壊れたレコードのように、何度も「ごめんなさい」と繰り返した。

 

   *   *   *

 

「大抵の自殺志願者さんはね、さあさあどうぞ、とお膳立てされると、却って怯んじゃうんですよ。それでも決行できる人っていうのは、まあ、よほど本気で死にたかったか、よほど義理堅いか、どちらかなんでしょうね」

「冗談じゃないですよ、こっちは三日にわたって振り回されたんですからね、出費はほとんど私持ちで」

「そうそう、あなた本当に善人ですよねえ。偉いですよ」

「あなたに言われても褒められた気になれません」

「やだな、素直になって下さいよ」

「私はいつでも率直ですよ」

「そうですか。それもまあ、良いことですよね」

「……はあ」

 げんなりと、体中の力が抜けるような会話を数分にわたって繰り広げ、カオルは受話器を置いて公衆電話を後にした。

 会社の方を三日も休んでしまっている。一刻も早く遅れを取り戻さなければ納期に間に合わなくなる。これ以上、面倒ごとに巻き込まれて、立ち止まっている余裕はないのだ。

 彼女は、活きのいいストライドでデスクに向かう。休んでいた間のことに関して同僚と話し、上司からの指示を仰いで、あとは猛進するしかない。一週間は修羅場のような残業が続くだろうが、乗り切ってみせる。

 

 ハナコはシーツ類やタオル類と部屋の備品の替え、掃除道具といった物を持って空いた部屋に入っていった。

 最初に教わった通りに窓を開け、シーツ類を全て張り替え、テーブルの上やカラオケマイク、リモコン等を片付けて次は洗面所に行き、ゴミを片付け、備品を置き換え、辺りの水気を拭い、トイレも片付け、便座を拭いてトイレットペーパーを三角に折り、トイレ用スリッパを揃え、最後に浴場へ行って同様に片付け、浴槽を洗い、水気を拭き取って備品を置き換え、湯桶を隅に置く。そして部屋を出る際には室内用スリッパを揃えておく。それらを三十分近くかけて、慣れない手付きで行なっていく。毎日、何度も繰り返し続けるこの一連の動作は、慣れれば十分程度でできるようになるらしかった。

 あの決行の日、カオルが首にかけたタオルを断ち切った後、二人は神奈川県にあるラブホテルに行った。そこではカオルの知り合いの人がいて、あらかじめカオルから連絡を受けていたらしく、顔を見るなり「この人がバイト志願の?」と訊いてきた。

 話は早かった。その日から働いてくれても構わないと言われ、所持金のほとんどない状態だったために暫く日雇い扱いしてもらえるように頼み、それから住み込みの部屋に案内された。六畳一間にミニキッチンがついていて、トイレと風呂は共同だった。住み込みしている人は、彼女を加えて三人だということだった。

 カオルからは、最後に「とりあえず五年はここに隠れていなさい」と言われた。それが消費者金融の消滅時効らしかった。本来ならば相手と話し合って返済していけと言うところだが、とにかく借りた金額以上に返済してはいるのだから相手も損はしていない、あとはもう逃げてしまえ、というのがカオルの言い分だった。

 彼女は次の部屋に入り、窓を勢いよく開け放った。

 周りに高い建物がないここは、視界がざっとひらけていて気持ちいい。流れ込む外気を吸い込み、そして清掃にかかった。とりあえず、今の目標は二十分以内に清掃を終えることだ。

 使用済みのシーツを引き剥がしながら、不意に、国分寺で見た志願者募集のチラシを思い出す。あれは今でも、国内のどこかに貼られているのだろうか。そして募集人の手引きのもと、誰かと誰かが命をかけて知り合っているのだろうか。そもそも、私たちは失敗ということになるのだろうが、あれで成功してしまうコンビもあるのだろうか?

 その答えは、彼の電話番号を控え忘れた彼女には知りようがない。


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