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『自殺志願者、他殺志願者
両者 共に募集中
詳細は 公衆電話より
下記電話番号まで』
黒い紙に太いゴシック体の白文字で書かれた、B5版のチラシ。それを手早く電柱に貼り、一歩下がって、募集人はじっと眺めた。そしてすぐに身を翻し、その場を離れる。彼は人目についてはいけないのだ。
彼が今回選んだ場所は、東京都のJR国分寺駅前だった。何度となく繰り返してきたこの募集行為では、駅から出て最初に見えた電柱に、このチラシを貼るのが通例だった。駅は大きすぎても小さすぎてもいけない。それなりに乗降する人がいること、駅構内で道に迷いそうなほどには広くない駅であることが重要なポイントだった。あまり小さい駅では見る人が少ないし、あまり大きい駅では、駅から出ることに意識が集中されてしまって、そこから出たところにひっそり貼られたチラシなどには誰も目をとめないのだ。
募集人は、心の隙間、あるいは遣り場のない気持ちに、そっと囁きかけるような方法を好んだ。インターネットの掲示板やレンタルサーバーでのウェブサイトでは無視されるか削除されるか、さもなければ不謹慎だと糾弾された。駅の伝言板では駅員に消されるか、他のまっとうな伝言によって消された。一人暮らし向けのアパートやワンルームマンションのポストに投げ入れるチラシでは、まあまあの反応を得たものの、チラシという形を残してしまうことに危うさを覚えた。様々な手口を試した結果、駅前の電柱に悪戯のようなポスターを貼って十二時間待つという、今の方法に落ち着いた。十二時間以内に両者が一人ずつ決まれば計画は実行され、決まらなければ他の駅前に移動する。これは、彼の心の隙間を埋める遊びだった。
募集人は宛先になっている自分の携帯電話を手のひらに乗せて見おろし、そして上着の胸ポケットにしまって歩きだした。あとは反応を待つだけだ。どんな人間が目をとめるだろう? 他人を殺したいと思うような物騒な人間は、たいがいの場合、普通人の外見を持っている。自殺したいと思いながら今日まで生きてきている人間は、たいがい幸せが目の前に踊っていても手を伸ばせなさそうな目つきをしている。そんな人間が一人ずつ、自分の遊びに興味を持ってアクセスしてくれればいい。そうすればゲームは始まるのだ。――成功するか否かはともかくとして。
募集人は安い喫茶店に入り、アメリカンコーヒーを注文して、クッションの固い椅子に腰を落ち着けた。携帯電話を取り出し、マナーモードにしてテーブルの上に置く。それがいつ着信を告げるかと見つめながら、スラックスのポケットからタバコを取り出して火をつける。一服しているうちに、薄くて熱いだけのアメリカンコーヒーがテーブルに運ばれる。募集人は不味いなと思いながら文句は言わずにコーヒーをすする。安い喫茶店では味など望んではいけないのだから、しょうがない。ここで払う二百八十円は、電話を待つ間の席料だ。
電話は、そうすぐに鳴るものではないと思っていた。今回はどうなるだろうかと色々予測しているうちに、募集人は自らの空想にはまってゆく。携帯電話から意識が離れる。すると、その油断を狙っていたかのように携帯がブルブルと震えだす。着信は公衆電話からだった。
「……はい」
周りの迷惑にならないように、周りの耳につかないように、声を低めて電話を受ける。こころもちくぐもった音で聞こえてくる相手の声は、まだ若そうな女性のものだった。
「ええと、電柱に貼ってあった広告を見たんですけど。あの、これってジョークですか」
はきはきした話し方だった。頭の回転も悪くなさそうだ。募集人は少し嬉しくなる。
「いえ、こちらはいたって本気ですよ。あなたはどうですか」
「ええ、そちらが本気でしたら、こちらも本気です」
「それはよかった。あなたは、どちらを志願していますか」
そう訊ねると、一拍の間を置いてから「他殺です」ときっぱり答えてきた。募集人にとっては、ますます好もしい。その決断力と意欲のありそうな声が大事なんだと声には出さずに頷く。
「でも、警察に捕まるのは、まっぴらごめんです」
「そうでしょう、私もごめんですしね。大丈夫、捕まらない方法でいけますよ。自殺志願者さんが一人申し出てきてくれればの話ですが」
「それはつまり、自殺志願者を殺すということですか」
「殺したら捕まってしまいますよ。他殺志願者さんが行なうのは、あくまでもサポートです」
「自殺のサポート」
「ええ。相手を確実に死なせてあげるわけです。自殺手段は何でも構いません。どうでしょう、やってみますか」
数秒の沈黙。相手は少し迷っているようだった。募集人はここで返答を急かさずに、じっと待つ。焦ってはいけない。誰かを殺したいと言い出すような人間の、その鬱憤を信じて待つのだ。
「……自殺志願者が出てきた場合、そちらから連絡を頂けるんでしょうか」
こいつは本気だ。ひゅうと口笛を吹きたい気持ちになりながら、募集人は声を落ち着ける。
「あいにく、この電話番号は待ち受け専門なんです。よろしければ、十二時間後にもう一度お電話頂けますか」
「それは、構いませんけど。……本当に、ジョークじゃないんですね?」
「ええ。それはお約束します。――ところで失礼ですが、あなたの髪型を教えて頂けますか」
「少し、明るめの色をしたロングヘアですけど」
「分かりました、ありがとうございます。自殺志願者の方が出た際に、待ち合わせの指示をさせて頂くのに必要なものでしたので」
「はあ。じゃあ、また夜にお電話させて頂けばよろしいんでしょうか」
「ええ、よろしくお願いします」
通話を切って、募集人は椅子の背に凭れかかった。他殺志願の彼女は、おそらく半信半疑だろう。他殺というからどんなものかと思えば、実はただの自殺手伝いかと拍子抜けしているかもしれない。しかし彼女は念を押してきた。やる気は出ているらしい。しかし人を死なせることに意欲を出している自分を、彼女は恐ろしく思わないのだろうか。まあ、こちらからすれば、そんな恐ろしさがあってはじめて成り立つゲームだが。
しかし、と募集人は気持ちを引き締める。彼女が本気そうに感じられても、油断してはいけない。真に受けたがために通報してしまう可能性だってゼロではないのだ。捕まったところで自殺幇助未遂くらいでは大した罪にならないとしても、捕まれば社会的制裁を受けるはめになる。いや、その前に自分は逃げ切ってみせるけれども。
この喫茶店には、もう三十分ほど居座っていた。仕事の書類やノートパソコンなしに男一人でこれ以上粘るのには、ある種の達観が必要だった。彼にはそれがなく、場所を変えて自殺志願者からのアクセスを待つことにした。伝票を手にして、座り心地のよろしくない椅子から立ち上がる。
さて、はたして自殺志願者は名乗りをあげるのだろうか。
年間三万数千人もの人間が自殺しているこの国だ、志願している人間はきっといるだろう。誰とも知らぬその人間が、あのチラシに目をとめてくれればいい。そして、魔がさすように電話をかけてきてくれればいい。チラシを貼った電柱の近くには、確か御丁寧に公衆電話があったはずだ。環境は整えられている。あとは気持ちひとつなのだ。
けれどこちらの立候補はなかなか出なかった。いつもなら自殺志願者の方が先にくるというのに、次の喫茶店で三十分粘っても、仕方なく一度職場に戻って働くふりをしてみても、よどんだ雰囲気が周りを疲れているようにみせる帰りの電車の中でも、募集人の携帯電話は沈黙を続けた。
制限時間は十二時間だ。残すところ、あと三時間弱。
募集人は微かな焦りを感じた。せっかく他殺志願者などという危険な人間を得ておきながら、世の中に溢れていそうな自殺志願者が見つからないなんて!
帰路はもう終わろうとしていた。次の角を曲がれば、募集人が住んでいる高層アパートに辿り着く。
胸ポケットの携帯電話がちゃららら、と着信を告げたのは、ちょうどその角を曲がる瞬間だった。