和人1
両手で握りしめている包丁が小刻みに震えている。
「ああ、よかった……」
母親が、嬉しそうに笑っている。
「何が、いいんだっ!死ぬんだぞ?」
40を過ぎた俺の母親。もう70いくつになるのか。
寿命で死んでもおかしくない年齢。
だが、まだぴんぴんしていた。
「和人……私、死ぬに死ねなかったのよ……」
何を言っているんだ。
何を。
よほど生に執着しているのか。必死に誰かの寿命をもらおうとしていたのに、人一倍死にたくないと願っていたんじゃないのか。
「知ってるんだぞ、お前が署名活動してたの……」
母親が、悲しそうな顔を見せた。
「やっぱり、お母さんとは呼んでくれないのね……」
会話がかみ合わないのはわざとなのか。署名運動のことを知られていたことを隠すつもりなのか。
ガタガタと包丁の先の震えが、体にまで伝わって来たようで、手が震える。
いや、俺が震えているから、包丁も震えているのか。
「お前を母親だと呼べって?」
無理にきまっている。
今の法律では、親は子供の寿命をもらうことはできない。
いかなる場合でもだ。
しかし一方で、親は子供の寿命をもらう権利があると言い出した人間がいる。
育ててやった恩を命で返せとは。
とんだ毒親がいたものだ。
と、ネットで情報を見ながらイライラとしていた。
親が子供に寿命をあげたいというのが普通だろう。
私はどうなってもいいから子供は助けてくださいと、命を差し出すのが親というものだろう。
子供の寿命をもらう権利があるなど、悪魔か。
だけど、ある日見つけてしまった。
母親が、その悪魔の署名活動をしているのを。
「俺が、ニートだからかよ……引きこもりで、働きもせず家にいるからかよ」
そんな子供なら寿命をもらってもいいって考えてるのかよ。
「そうよ。あなたが24歳で仕事をやめてから……40になるまでずっと引きこもっていたから……」
母親が、シワシワになった骨ばった手を俺の方に伸ばしてきた。
「包丁を貸しなさい、あなたは手をしっかり洗って。テレビで言っていたわ。大根おろしで血の反応は出なくなるってああ、そう、遺書を……」
母親の言葉に、急に心の中が冷えて行く。
俺を殺そうとしていたんだ。俺の寿命を奪おうとしてたんだ。
だから、母親じゃない。悪魔だ。
殺さなければ、俺は寿命を奪われて殺される……。
だから、包丁で刺した。
俺は、悪くない。正当防衛だ……。
ガタガタと震えが大きくなり、ぺたりといつの間にかしりもちをついていた。
「スマホ……」
母親がスマホを操作して、声を録音している。
「働かない息子の世話につかれました。死にます」
「な、なんだよ、それ……俺の世話に疲れたって……」
母親が俺の手から包丁を取り上げ、すでにひどく血が広がっているシャツで俺の指紋をぬぐって自分の指紋をつけている。
「遺書……、これで、私は誰が見ても自殺……。ああ、よかった……」
母親の両目から涙がこぼれ落ちている。
「何がいいもんか!お前は、俺の世話がしたくないからって、俺を殺そうとしてただろ!寿命を俺の寿命を奪うために、法律を変えさせようとしう署名活動をして」
何で泣いてるんだ。何がいいんだ。
死ぬんだぞ?
殺されるんだぞ?
「和人は、お母さんがいらないんだよね……必要ないから、包丁を向けたんだよね……よかった」
意味が分からないことを言い出した。
そして、嬉しそうな顔をして、母親は死んだ。
「はっ、死んだ。ざまぁみろ。俺を殺そうとするからだ」
知らない間に、小さくなった母親。
動かなくなってしまうとよけいに小さく見える。