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湖上の美女

作者: 吾妻 英二

 絹伊湖は、市街地からやや離れたところにある小さな湖である。森に囲まれていて、人の訪れはほとんどない。その水面は、春は桜、秋は紅葉を反映し色を変えながら、さざ波一つ立てずに静まっている。

 この湖には一つの言い伝えがある。昔、この湖の近くの村に、美しい娘がいた。村人の間では大層な評判で、言い寄る者も少なくなかったが、娘はその全てを退けた。娘は純潔だった。ある夜、寝付けなかった娘は、冴え冴えしい月の光に導かれるように、家の外にでた。気もそぞろに、夜道をふらふらしていると、いつの間にか男の集団が自分を取り囲んでいた。男の一人がニヤリとしたのが見えた。逃げようとした時にはもう遅かった。身体も心もひどく傷つけられた娘は、そのまま湖へと向かった。よろめきながら、涙をこぼしながら、娘は森の中を歩いた。森を抜け、視界が開いた時、湖は目の前にあった。水面には月の光が映っていた。娘は一切迷うことなく、湖に身を沈めた。それを見て哀れんだ湖の神様が、沈んでいる娘の身体を水面から浮かび上がらせるため、湖の中央に小さな島を作った。以来、毎年娘の命日の夜になると、湖の中央にその島が浮かんでいるのが見えるという。


 その日は、その娘の命日とされる日だった。当時中学生だった私は、言い伝えを確かめるため、友人のT君とI君を伴い、絹伊湖に向かっていた。夏の暑い夜だった。私達は森の中を歩いていた。夜なのに少し明るいのは、木の枝々の間からさし入る月の光のせいであった。穏やかな虫の音と川の流れる音が遠くに聞こえた。

「ねえ、やっぱりここなんか不気味だよ…。引き返さない?」

 I君の声がした。

「バカ言うな。ここまで来て戻るわけにいかないだろう。一年に一度のチャンスだぞ。もしかしたら死んだ女の幽霊にも会えるかもしれないしな」

 T君が答える。

「ええ、幽霊!やだよそんなの、帰ろうよお」

「うるさいなあもう!」

 二人がやり取りする間、私はずっと黙っていた。絹伊湖行きは私の発案だった。それは単なる好奇心からだった。その時の私の気持ちは、レジャー感覚で心霊スポットに行こうとする人達の気持ちと、それほど違いはなかった。ところが、湖に近づくにつれて、進もうとする私の足は、だんだんと重たくなっていった。あたかも踏み込んではいけない領域に踏み込んでいると警告するかのように、足は私の意志に抗った。私の心中は嫌な予感で満たされた。I君の言う通り、引き返すならば今かもしれない…。


 森を抜けた。私達の目の前に広がる絹伊湖は、底のない穴が大きな口を開けているようだった。しかし、何かがおかしい。周囲を木々で囲まれたその深い暗闇は、中央に一点の光を宿していた。私達は目を凝らした。

「島だ!島があるぞ!」

 T君が叫んだ。あるはずのないその島は、前方に鳥居を構え、その後ろに松の木々を茂らせ、湖の上に浮かんでいた。島は絶えず光に満ちていて、神秘的な雰囲気を備えていた。

「まさか、本当にあるなんて…」

 I君の声は震えていた。私達はしばらくの間、言葉を交わすことも忘れ、湖を挟んだ向こうにある幻の島にただ見入った。島は私達の視線を物ともせず、自若として光を放っていた。光の威力は凄まじかった。私達は恐怖を感じた。それは私達をこれ以上寄せつけまいと、威嚇しているかのようだった。しかしそれ以上に、その光には説明し難い魅惑があった。島は私達を突き放しながらも、一方で私達の心を掴んで離さなかった。私は決意した。

「行こう」

「行こうって?」

 T君とI君が同時に私の方を向き、首を傾げた。私は決然たる調子で続けた。

「島へ行こう」

「島に行く?どうやって?」

「ここから泳いで湖を渡る。せっかく言い伝えの島を見つけたんだから、どんなところか確かめたいじゃないか」

「ええ、それって大丈夫なの?めっちゃ危なそう…」

 I君は不安げだった。T君はそれと対照的な反応を示した。

「面白そうだなそれ。俺は賛成するよ」

「駄目だって!勝手に入ったりなんかしたら、神様が怒っちゃうよ」

「大丈夫だって」

 悶着の末、私達は島まで行くことを決めた。嫌がるI君を、半ば強引に連れて行く形となった。私達はTシャツとズボンを脱いで、湖に足を沈めた。冷たさに身体が震えた。岸から離れ、島に向かって泳いで進んだ。島の鳥居はだんだんと大きくなり、松の枝葉の輪郭はだんだんと鮮明になった。いつの間にか、抱いていた躊躇いの気持ちは消え去った。私の行く手を遮るものは何一つなくなった。私の心中にあるのは、未知に対する、計り知れない強大な力に対する、憧れだけだった。


 鳥居をくぐると、そこには女がいた。女は全裸で目を瞑り、芝生の上に横たわっていた。女を包む光は、芝生を、周囲の松の木を、夜空を、そして私達を照らした。私達は呆気にとられていた。

「これが、言い伝えの、娘?」

「多分、そうだろうな」

「生きているのかな…」

「死んでる風には、見えないな」

 濡れた身体で、私達はその女に近づき、取り囲んだ。女は美しかった。艶のある白い肌、整った顔立ち、滑らかな黒髪、腕と脚のなよやかさ、薄く開いた紅色の唇…。

「これ…やばいよな」

「すごい身体…」

 女の美しさとその光は、私もT君も、I君さえも、欲望の虜にした。私達はもはや人間ではなくなってしまった。私達は言葉を忘れた。私達は獣のように目を見開き、鼻から熱い息を漏らし、口から涎を垂らした。そして、とうとう堪えかねて、女の身体に、手を延ばそうとした。

 その時だった。島に突然嵐が起きた。松の枝葉が倒れんばかりにびゅうびゅう揺れた。湖の波が激しく岸辺にぶつかった。頭上にものすごい勢いで黒い雲が集まって、ゴロゴロと危なげな音を鳴らした。

「うあああああ」

 I君が悲鳴を上げた。見ると、I君の腕には巨大な蛇が巻き付いていて、噛まれた指からは血が噴き出していた。

 ブウウウウン…。異様な音が耳に響く。頭上には大量の蜂が集まっていた。そして足元には、無数の蜈蚣が群がっていた…。


 それから後のことはあまり思い出せない。私達は必死に走り、泳ぎ、なんとか逃げ帰ることができた。三人共あの日の出来事は、先生にも、友人にも、家族にさえ話していない。しかし、娘の命日になると、思い出さないわけにはいかない。今日がその命日。絹伊湖に行き再び島を目にする者が、いないことを祈るばかりである。





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