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批判精神の重要性(と金融緩和解除)について ~自然科学と社会科学の視点から

 一口に自然科学の起源と言っても様々な観点がある訳ですが、そのうちの重要な一つに“帰納主義”があります。

 実験や調査などを行い大量に情報を集め、そこから法則などを見出していこうという思考を帰納的思考と呼ぶのですが、これを重視しようという主義が哲学の分野で誕生したのですね。

 例えば、あの有名なガリレオ・ガリレイは、帰納主義者の一人に数えられる場合もあり、実験科学の基礎をつくったなどと言われています(ただし、その研究スタイルは思弁的思考中心だったとも言われているのですが)。

 恐らく、「実験や調査を行うのが科学研究の基本のスタイル」と考えている人が多いと思いますが、この帰納主義はそれに直結しています。

 もっとも、当時のそれは完全に今と同じって訳でもなくて、先入観の排除がより厳密に求められたり思考実験に否定的だったりと、現代の科学的手法とは異なっている点も多々観られます。

 つまり、帰納的思考に対する科学者達の態度は変わっていったって事です。

 

 ――では、どうしてそういった変遷を遂げたのでしょうか?

 

 これは僕の個人的な予想に過ぎないのですが、帰納的思考は理論の構築よりも、どちらかと言えば“検証”としての役割の方が大きかったからではないかとも思うのです。

 その理論が本当に正しいのか、実験や調査を行って“検証”する。その作業こそが自然科学を前進させた可能性が高いと僕は考えているのですね。

 「それでも地球は回っている」

 地動説を唱えたガリレオが、宗教裁判にかけられた際に発したとされる有名な言葉ですが(いや、ま、ガリレオがこれを言ったのは俗説だって言われていますが)、どうしてそもそも彼が宗教裁判にかけられたのかと言えば、その地動説が中世スコラ哲学(アリストテレスの哲学とキリスト教が結びついて生まれた哲学)において何千年も正しいとされていた天動説に反するものだったからです。

 もちろん、知っての通り、ガリレオの“地動説”の方が正しかった訳ですが、このように、人間社会では学説が権威化し社会的に守られてしまった結果、誤った説が何千年も“正しい”とされて生き残るなんて現象が科学登場前までは普通だったんです。これが変わったのは、実験や調査による検証が当たり前になってからなんですね。

 そして、もちろん、これは学問が急速に発達するようになったことを意味してもいます。既存の学説が“間違っている”と証明される、或いは“疑われる”からこそ、新たな学説が誕生し、かつ社会に認められるからです。

 生物の進化は、適応的ではない生物が淘汰され、より環境に適応した生物が生き残る事によってもたらされますが、これはちょうどそれに似ているでしょう。

 そのような方法によって、近似解を求める計算方法は“遺伝的アルゴリズム”と呼ばれていて、情報技術の分野で既に応用されていますが、学問は「“検証”という淘汰圧を手に入れることで、遺伝的アルゴリズムを活用するようになった」と表現する事ができるのじゃないかと思います。

 科学が発達していくと科学自体を研究対象とするメタ的な分野も成長するようになったのですが、その中で“反証主義”という考えが生まれました。これは平たく言ってしまえば“検証できる構造を持った理論を科学と呼ぼう”というもので、非常に重要視されています。

 その理由も科学が“遺伝的アルゴリズム”を活用しているからでしょう。検証できなければ正しいのか間違っているのか分からないままで永遠に生き残ってしまいます。それでは遺伝的アルゴリズムの原理を活かす事はできませんから。

 これを実現する為には、社会体制も充分に整っていなくてはなりません。当然、仮説を検証する立場の研究者も必要ですし、その検証結果を受け容れ易くする為に仮説の提唱者への個人攻撃なども抑える必要だってあります。また、自分の仮説が間違っていたと証明された際にその人物がそれを素直に認めたなら、その態度を「立派だ」と高く評価する必要もあるでしょう。

 こういった観点は、自然科学というものが社会とも深く繋がっていて、決して全てを客観的に評価されている訳じゃない事を物語ってもいます。

 そして、だからこそ、“自然科学”という体制が確立したかに見える時代においても“権威にしがみついて批判を退ける”という行動を執ってしまう科学者…… 或いは、科学集団の存在もあるんです。

 最近の例で有名なのは“湿潤療法”ではないかと思われます。

 “湿潤療法”というのは、文字通り傷口を湿潤に保つことで治療を行うのですが、その手法がそれまでの“傷口を消毒して乾燥させる”という治療方法を否定するものだった為、数多くの医師達(医学界?)からの反発を受けたのだそうです。

 (個人的な体験ですが、僕は皮膚がカラカラに乾いてボロボロになってしまう皮膚病に罹ってしまった事があるんです。その時、ただの保湿効果しかないワセリンを塗っただけで治ってしまいました。

 その後でこの“湿潤療法”について知ったのですが、正直、「なるほど。だから治ったのか」って感心しましたよ)

 このエピソードを、先ほどの社会体制の話に照らすのであれば、

 「“今までの定説が間違っていた”という点については責められるべきではないが、それを医師達が認めなかった点は責められるべきだ」

 という事になります。

 一応書いておくと、この態度は反証主義にも反しています。

 湿潤療法を早期に認めなかった所為で、社会的損失ももちろん発生しています。研究が遅れ、医療コストが増え、何より患者の負担を増大させてしまいました(因みに、特に火傷の治療でこれは顕著だったそうです。もし火傷に苦しんでいる人がいたら、湿潤療法を検討してみることをお勧めします)。

 これが問題だっていうのは簡単に分かると思います。この湿潤療法のエピソードに政治的な要素は低めです。だからこそ、逮捕者が出るなんて事件は起こらなかったのですが、歴史を振り返るのなら、自然科学の学説と政治思想・権力が結びついてしまった非常に厄介なケースもあるのです。

 旧ソビエト連邦に多大な被害をもたらした“ルイセンコ説”って知っていますか?

 

 旧ソビエト連邦の生物学者で農学者だったトロフィム・ルイセンコは、獲得形質が遺伝するという“ルイセンコ説”を提唱しました。

 もし仮に、彼が政治権力と結びつかなかったのなら、このルイセンコ説は話題になったとしても珍説の一つに数えられる程度の影響しか社会に与えていなかったでしょう。が、不幸にも“獲得形質が遺伝する”というその主張が共産主義的思想と親和性があるという事で支持を受けて保護をされ、旧ソビエト連邦などの農業政策に取り入れられてしまったのです。

 このルイセンコ説に反対をした学者は追放されてしまい、その暴走を止めるものは誰もいませんでした。

 そして、結果としてそれは旧ソビエト連邦の農業生産に多大な被害をもたらし、多くの餓死者すら出したのです(その実情は隠されいたそうですが)。

 当然ながら、これは旧ソビエト連邦の自滅を促進させました。

 

 ……こういったケースは何も自然科学の学説に限りません。例えば、中国の大躍進政策では、スズメを“米を食う害鳥”と見做して大量に駆除しましたが、スズメは害虫を捕食してくれる益鳥でもあった為、それによって害虫が大量発生し、甚大な農業被害をもたらしてしまいました。

 因みに、この大躍進政策全体での餓死者は1000万人から4000万人とも言われています。

 (余談ですが、最近の中国の発言・政治体制がこの頃に近付いてるなんて話も耳にします。なんか不安になってしまいますね)

 自然科学の反証主義の要点は、「反論は甘んじて受け入れるべき」なのだろうと思うのですが、こういったケースを考えるのなら、それは社会科学的な領域についてもそのまま当て嵌めるべきではないかと思うのです。

 

 社会科学の領域で、この「反論を甘んじて受け入れるべき」ということを考えた場合、真っ先に思い浮かぶのは“批判精神”ではないかと思われます。

 マスコミにとって批判精神は重要だと言われていますし、小説の価値を評価する際の重要な要素の一つでもあります。が、“権力の抑制”という点ばかりが強調されて、“チェック機能”の方はあまり注目されないような印象を受けます。

 ですが、実はそれはとても重要なのじゃないかと思うのです。

 何が違うのか分かりませんか?

 確かに厳密に言えば、この二つの境界線を定めるのは非常に難しいとは思います。ですが、それでもこの二つを分けて捉える必要があるのは確かだと思うのです。

 何故なら、“権力の抑制”は、何らかの団体、或いは個人に対する攻撃ですが、“チェック機能”は攻撃どころか有効なアドバイス…… つまり“協力”にすらなり得るからです。

 ソビエト連邦がもし仮に“ルイセンコ説”に対する批判を受け入れていたなら、農業生産にダメージはなかったはずです。餓死者だって出なかった事でしょう。中国のスズメ駆除でも同様ですね。だから、それらは“攻撃”ではなく“有効なアドバイス”だと捉えるべきなんです。

 数は少ないですが、これを実践している人もいます。

 ニュース解説者の辛坊治郎さんは明らかに自民党を支持していますが、(かなり柔らかい表現ではあるけど)経済政策については、自民党を批判していますし、自民党の名こそ出していませんが、原子力政策についてもやはり批判しています。

 (もし仮に批判者自身に協力の意志がなかったとしても、それがアドバイスになっている点は同じです)

 が、しかし、特に政治的な話題では、批判を有効なアドバイスだと捉える発想を持っている人は少ないのではないでしょうか?

 攻撃する為に批判しているものだから、有効な指摘かどうかは二の次で、受ける側もただただ反発をするのみで反省をしない。だからなのか、冷静に考えてみると従来からのその人達の主張を考えるのなら、むしろ賛同しなくてはいけないような事まで批判し、そして、議論の本質には関係のない人格攻撃なんかもし始めてしまう。

 これでは議論ではなくただの口喧嘩でしょう。

 民間人の間だけでこんな状態だというのなら、まだ救いがあるのですが、政治家達も似たような状態なのはテレビで流れる討論の様子を観れば明らかです。

 これでは“国民の政治離れ”が進むのも無理はないと思いませんか?

 より優れた政策を決める為に必要なのは、口喧嘩ではなく、建設的な議論であり、その為には今まで述べて来た通り、“チェック機能”としての批判を“有効なアドバイス”として受けとめる文化的な土壌が求められます。

 もちろん、その為には、“単なる攻撃を目的として行われる批判”を区別できなくてはいけません。

 そこで、全ては無理ですが、そういった批判を見分けるポイントを幾つか書いておきます。

 

 一つ目はもちろん“個人の人格批判”です。これは取り分け説明しなくても容易に判断が可能でしょう。

 間違っているのなら、論拠と証拠を提示して正々堂々と反論すれば良いのです。個人の人格批判をし始める時点で、議論としては既に負けを認めているようなものです。

 二つ目は、“論点とは異なった点の批判”です。

 ネットでの議論を観ていると、何故か議題とは違う点を挙げて、議論を他に誘導しようとしているかのようなものが散見されます。

 まるで「その点を話題にされては困る」といった感じで。

 意図や目的は分かりませんが、混乱するので建設的な議論を阻害してしまいます。

 三つ目は、“わざと難解な表現や言い回しを使っているようにしか思えない批判”です。

 “サイエンス・ウォーズ”と言われる論争の中で一人の科学者があるイタズラをやりました。その科学者は哲学的な雰囲気のある如何にも高尚そうな論文を雑誌に発表したのですが、実はそれは“単なる見せかけだけのパロディ”だったのです。

 編集者はそのイタズラを見抜けず本物だと思ってしまった訳ですが、これと似たような事をインターネット上で行っている人達がいるんです。

 「本当に意味があるのか?」と首を傾げたくなるような難解そうな表現を使って、議論に無理矢理勝とうしているかのような。

 本当にそれを理解しているのなら、平易に分かり易く表現できるものです。

 だから、難しい表現を使っている批判などを見つけたなら、警戒した方が無難でしょう。それには意味なんてないのかもしれません。なんなら「もっと分かり易く書いてください」と返してみても良いかもしれません。

 

 余談ですが、批判を“有効なアドバイス”として受けとめる文化的な土壌が現代社会で最も整っているのは或いは民間企業かもしれないと僕は思っています。

 いえ、一口に民間企業と言っても星の数程ありますから、全ての企業でそんな文化があるとは言いません。中には“上司の命令には絶対に服従”なんていうブラック企業ももちろんあるでしょう。

 ですが、情報技術エンジニアとして様々な企業の開発現場に派遣されて働いて来た僕の経験から言わせてもらうなら、批判を受け入れるどころか、むしろ積極的に批判する事を求められる場合の方が圧倒的に多かったです。

 「この方法で何か問題がないか意見を言ってくれないか?」

 という感じで。

 もちろん、指摘すれば感謝されますし評価も上がります。言うまでもなく、それは企業が生き残り発展する為に実利を追及しなくてはならないからでしょう。

 政治的な議論でも、これくらいのレベルを目指すべきじゃないでしょうか?

 いえ、そもそも真っ向から競合する関係にある場合はかなり難しいでしょうが……

 

 ――はい。

 なんて事をつらつらと書いて来たのは、ちょっと前に政治的な話題でその必要性を僕が身を持って深く実感したからです。

 一応前もって断っておくと、僕に支持政党はありません。政治信条も理想もありません。資本主義的であろうが、共産主義的であろうが、世の中の住み心地が良くなってくれさえすればそれで良いと思っています。

 そしてだからこそ、政策の評価を考える場合は証拠…… つまり、実績重視です。資本主義的だから反対、或いは共産主義的だから反対なんて態度は執りません。こういった実績がある。だから、こういう政策も上手くいくのじゃないか? って考え方をします。また、今までに参考になるケースがない政策なら、実験的に試みてみる価値があるかどうかを演繹的に予想して判断します(ただし、飽くまで実験なので、直ぐに方向転換できるような柔軟性を求めもしますが)。

 これは、政治的な批判をする場合は、政策単位だったり、体制の一部だったりというのが基本スタイルだという事も意味しています。仮に批判をしていたとしても、その政権の全てを否定する気は更々ないのですね。

 指摘した問題点さえ改善してくれるのなら、どの政権だろうが「別に良いか」って思っています。

 (更に書いておくと、僕の場合、世間で充分に騒がれている事柄に関してはほとんどスルーしています。重要なのに、何故か世間での扱いが低い話について積極的に書く方針にしています。

 ま、例外もありますが)

 だからこそ、問題点として取り上げる価値があると思った場合はどんな政党のどんな政策でも批判してきました。もちろん、政策を決めるのは与党ですから、必然的に与党に対してのものが多くなってしまいますが、だからといって別に与党だけを目の敵にしている訳じゃありません。

 (政策単位に評価する場合、その当時の政権に縛られない長期間での効果が論点にできるので、メリットがあります。

 ちょっと前に話題になった共謀罪なんて、ほとんどの人が自民党政権の事ばかり考えていて、後の政権がそれを悪用する可能性は無視していました。ちょっと問題なのではないかと思います)

 要するに、僕の場合、よほど酷い何かがない限り、“チェック機能”としての批判って事です。

 そして、ちょっと前に書いた“量的緩和政策の出口における困難について”というエッセイは当にそれでした。

 これはタイトル通り、量的緩和政策の出口が困難な点について書いたものです。

 

 量的緩和政策について軽く説明すると、日本銀行(政府の銀行です)が、金融市場に通貨を大量に供給する事で、景気を刺激しようってものです。

 金融緩和政策の一種ですね。

 (一応断っておくと、現在行われているのは正確には“量的・質的金融緩和政策”ですが、僕のエッセイではその違いまでは扱わないので、意図的に“量的緩和政策”としています)

 が、先にも書いた通り、この金融緩和は解除する(出口に向かわせる)のが中々に難しく、しかも何の策もなしに実行し続ければ、最悪、財政問題が悪化して「増税か? 悪性の物価上昇か?」なんて事態にもなりかねないんです。

 もしも、そんな事態になれば日本社会は大きなダメージを受けるでしょう。そして当然、その責任を自民党は追及されるはずです。野党側からすれば自民党の自滅ですね。政権の座すらも危うくなるでしょう。

 ですが、慎重に準備をして早めに金融緩和解除をし始めれば、その影響を比較的穏やかに留める事が可能なんです。

 日銀が金融緩和の解除を中々明言しないのは、この政策のそもそもの目標が“物価上昇2%”だからでしょうが、達成する必要のある目標なのかと問われるのなら大いに疑問ですし、仮に達成しないままで終わらせたとしても野党などから多少責められるくらいで、政権基盤にはほとんど影響を与えないでしょう。

 (民主党政権時代に対する低評価に支えられた自民党政権への支持ははっきり言って盤石です。数々のスキャンダルで安倍政権が倒れたとしても、自民党政権自体は相当な事が起きない限り存続し続けるのじゃないでしょうか?)

 金融緩和をし続けるのは、非常にリスクが高い。が、早い段階で解除に向えば、リスクは少なくなる。

 どうするべきなのかは明らかですよね?

 早い段階で解除した方が、自民党にとっても都合が良いんです。

 

 ここで一点断っておきます。

 勘違いをしている人も多いですが、金融緩和の出口の為の計画の作成を求める、或いは計画を示す事を求める、のと金融緩和政策批判は全く違います。

 何故なら、金融緩和政策に賛成していても反対していても、その出口の計画を練らなくてはいけない点は同じだからです。いずれ金融緩和には限界が来てしまうんですよ。

 金融緩和は主に国債を金融市場から買い入れる事で成り立っているのですが、国債の買い入れには限度があり、無限には買い続けられません。

 例えば、IMFの研究員は以前、「このままでは2017年から2018年までに、日本の金融緩和は限界を迎える」といったような警鐘を発しました。これを読んで“外れているじゃん!”って思った人もいるかもしれませんが、外れてはいないんです。

 この警鐘は飽くまで“このままでは”って条件付きです。つまり、日銀はそれから国債の買い取り額を減らし、金融緩和を弱めたのですね。実際、国債金利は少し上昇しています(金融緩和政策というのは、金利を低く抑える政策でもあるんです)。

 これがその警鐘に従った結果なのか、それとも日銀自身も国債買い取りの限界を理解していたからなのかは分かりません。それに、本格的な金融緩和出口に向けた歩みではなく、単なる時間稼ぎに過ぎないという可能性だってあります。

 がしかし、どちらにせよ、限界が迫って来ている可能性が非常に高い事を示してはいるでしょう。

 つまり、既に金融緩和政策の解除に向けて動き出さなくてはいけない状況に達してしまっているんです。

 そして、それを裏付けるように最近(2018年6月現在)、金融緩和政策を巡る動きに気になる点が出てきました。

 キーワードの一つは増税です。

 

 金融緩和を解除する時、財政危機に陥る可能性が高く、それを回避する為には税金が非常に多くかかります。

 軽くその辺りの仕組みを説明します。

 先にも述べた通り、日銀は銀行などの金融機関から国債を買い取ることで金融緩和政策を行っていますが、それでいきなり金融市場に通貨が供給される訳ではありません。通貨は日銀にある金融機関の口座に振り込まれるんです。

 ところが、その日銀の口座に預金されている分に関しては金利が発生してしまうんです。日銀(国)は金融機関に対して利子を支払わなくてはいけないのですね。

 つまり、実質的にはこれは“国の借金”と同じです。借金が“国債”という形から、“日銀当座預金”に姿を変えただけなんです。日銀が買い取った国債が償還期限を迎えると、日銀と国との間で相殺されて、まるで借金が消えたかのように思えてしまいますが、実は消えた訳でもなんでもなくて、“日銀当座預金”にほぼそのまま残っているんです。

 「自民党の金融緩和政策で借金が減った」と主張している人達がいますが、恐らく、これを勘違いしているだけなのじゃないかと思われます。

 もっとも、金融機関が日銀当座預金を引き出して使いさえすれば確かに消えます。が、その為に必要な通貨の使い道……、金融機関の投資先をつくるような事を自民党政権はあまり行っていません。

 断っておきますが、この程度の事は自民党政権も理解していて、ちゃんとアベノミクスでは規制緩和などの改革を行って“投資先をつくる”と言っていたんです。ところが、実際には目立った動きがあったのは農業改革だけでした。

 だから、安倍首相が「アベノミクスは道半ば」と言っているのは正しいと言えば正しいのです。

 当初の約束を果たしていませんからね。

 ここで「改革を行いたいが、抵抗勢力があってできない。国民の皆さん、力を貸して欲しい」とでも主張してくれたなら応援だってしますが、そんな主張はなく問題は放置され続け、結果として日銀当座預金は増え続けたんです。

 ……まぁ、仮に上手くいったとしても、数百兆円にも及ぶ日銀当座預金を充分に使わせる事ができるかと言えばかなり疑わしいですが。

 そして、金融緩和政策を解除すると、この日銀当座預金の金利が上昇してしまうんです。すると、当然、日銀が金融機関に支払わなくてはいけない利子も増えます。

 日銀の長期国債保有額が300兆円に達した2016年春の時点のラフな計算で、仮に2%にまで金利が上昇した場合、利子は年間で6兆円にもなるそうです。もちろん、400兆円以上に達した現在は更に増えています。

 これに備えて日銀は積立金を始めていますがはっきり言って足りません。また、日銀の純資産も、4兆円程度しかないのです。

 常識的に考えるのなら、増税で賄うしかないでしょう。

 そして、2018年度に注目すべき増税がありました。それは1000万円以上の年収を持つ高齢者年金への増税です。

 

 1000万円の収入がある高齢者は20万人程だそうです。また、増税と言っても極端にかかる訳ではありません。

 この程度であるのなら大した額であるようには思えないかもしれません。が、こういうのは一度始まると徐々に拡大していくのが普通ですから、他の高齢者の年金も将来的には増税の対象になる可能性が大いにあります。

 断っておきますが、僕は裕福な高齢者への増税には大賛成です。そもそも今の日本の年金の世代間格差は犯罪的で、これからの若い世代が損をし過ぎています

 現役世代で貧困問題が起こっているのに、その現役世代を犠牲にして、ただでさえ裕福な高齢者達が、自分達が支払った保険料の何倍もの年金を貰えるなんてどう考えても馬鹿げているって思いませんか?

 それに、経済政策としても高齢者が抱える“莫大な死蔵された貯蓄”を活用する事の意義は大いにあります。

 物価下落デフレーションは大きな経済問題ですが、その原因は実に様々です。そして現在の日本の物価下落の原因の一つに、実は“超高齢社会”があると言われているんです。

 (詳細は『デフレの正体 藻谷浩介 角川書店』を参考にしてください。明確なデータを根拠に述べられています)

 高齢者は消費意欲が低いです。その消費意欲が低い高齢者が、莫大な貯蓄を抱えている。通貨が循環してこそ経済は発展するものですが、高齢者の貯蓄となって死蔵されている通貨はその循環を阻害してしまっています。

 ところが、現在日本では消費意欲が高いどころか消費する必要のある“子育て世代”から年金保険料として通貨を徴収して、消費意欲の低い高齢者へと回し、これを更に悪化させてしまっているんです。特に裕福な高齢者の場合が酷くて、年金は貯蓄に回るだけで新たに消費が増えるような事にはならないでしょう。

 だって、そういう人達は、既に何かを買えるだけのお金を充分に持っているんですから。更にお金を貰ったところで使い道がそれほど生まれるようには思えません(これは経済学的には、限界消費性向と呼ばれています)。

 もしも、そういった“死蔵された通貨”を貧困問題すら起きている若い世代へと回せたなら、消費が増えて経済に好影響を与えます(もちろん、物価も上昇します)。教育や子育ての為に使えば、とても有意義でしょう。

 だから、自民党が決めた高齢者年金への増税は正しい判断だと僕は考えます。

 (因みに、共産主義系の新聞社がこの増税を批判していましたが、裕福な高齢者に対して増税するのだから、これは発想的には共産主義的なものでしょう。むしろ賛成しなくてはいけない気がするのですが。

 “敵を攻撃すること”が、目的になってしまって、思想信条と行動がかけ離れてしまっているように思えてなりません)

 が、しかしですね。

 憲法を変える事を悲願として掲げる自民党が、当にこれからそれを達成しようとする時期に、超高齢社会のこの世の中で、高齢者を敵に回すような増税を行ったのは、少しばかり不可解ではありませんか?

 もちろん、不利になると分かっていながら、それでも日本社会全体にとって好影響を与えると考えられる政策を執った点は褒められるべきなのかもしれませんが、同時に、それだけ追い詰められているのではないか?という疑念も消えません。

 医療費や公務員への給与、節約すれば資金を捻出できそうな分野が日本にはまだまだありますが、年金はその中でも有力候補の一つです。

 だから、

 「この年金への増税は、今行われている金融緩和…… 量的緩和政策のその出口で、財政が危機的状況下を迎える事を想定し、それに備えようとしているものではないか?」

 と、つい僕は想像してしまうんです。

 いえ、それがなくても日本の社会保障を巡る財政事情は、年々悪化し続けているので、何かしら対策を執らねばならないのは明らかなんですがね。

 

 金融緩和政策の解除に伴う財政危機を回避する手段という意味では、実質的には増税と言われているマイナス金利政策も見逃せません。

 先ほど説明した通り、金融機関の国債を買い上げても金融機関に支払われる通貨は日銀の当座預金に入るだけで、それがいきなり市場に供給される訳ではありません。そのままでは意味がないので、なんとか金融機関に通貨を使わせる為、日銀の当座預金の一部にマイナスの金利をかける…… つまり、利子をもらうのじゃなくて逆に日銀に対して通貨を払わなくてはならないようにした、というのがマイナス金利政策の概要です。

 が、この政策、金利を下げる事でローン金利も下げてしまうので、物価下落効果もあるって指摘されているんです。相殺し合うとどっちの効果の方が上になるか分かりません。つまり、日銀の物価上昇目標と矛盾してしまうんですね。

 そして、金利が上昇した際にこのマイナス金利政策は、日銀の負担を抑える効果が際立つんです。

 だから、真の目的は、実は金融緩和解除時の財政危機を和らげる為に、金融機関に負担を求める事ではないか? なんて疑いも出て来るんですね。

 なお、今現在、日銀(自民党)は金融緩和解除に進むと宣言してはいませんが、これを信用していない人も大勢います。

 それは先に述べた通り、実際に日銀が金融緩和を弱めているからでもありますが、それだけじゃありません。

 それまでも日銀が“サプライズ”で政策を実施する事は多々あったのですが、このマイナス金利政策の時は特に酷くて“実施する気はない”と直前まで述べていたんです。それを信じて何の準備もして来なかった企業は損害を受けました。

 結果として日銀は信頼を失ってしまった訳ですが、或いは皮肉にもそれが金融市場を安定させている可能性はあるかもしれません。

 「日銀は金融緩和解除を行うとは言っていないが、また嘘だろう」

 そのように皆が思う事で、金融緩和がハードクラッシュを起こすという不安を低下させているのかもしれない、とも思うのです。

 

 さて。

 先ほどまでの話は、要は

 “財政危機に対応できるよう、予め増税をし始めておく”

 という事です。

 或いは、こう聞くと違和感を持つ人もいるかもしれません。

 どうして、予め増税する必要があるのか?と。

 ですが、実は金融緩和は日本だけではコントロールし切れないんです。世界(特にアメリカ)の金利が上がり始めれば、日本単独で金利を低く抑える為には、より多くの国債を買い入れる必要があり、そうなれば金融緩和の限界は自ずから早まってしまう。だから、事前に準備しておく必要があるんです。

 経済に興味のある人なら、何回か自民党がアメリカやヨーロッパの国々に向けて、世界的に協調して金融緩和を行い続けるべきだと説得しようとして失敗しているのは知っているのじゃないかと思いますが、それにはこういった事情もあるんです。

 (もっとも、日本ほど酷くはありませんが、日本と似たような問題を抱えている国は多いので、簡単に金融緩和解除は進みはしないでしょうが)

 因みに、最近、その失敗を受けて円高になりましたが、これはそれで日本は金融緩和をそう長くは継続できないと予想した世界の投資家達が円を買ったからでもあります(アメリカの経済政策の影響もあるのですがね)。

 金融緩和で円安に向ったのだから、当然、その解除の時には逆の事が起こって円高になるのですよ。

 日銀の黒田総裁が国会で「2019年度を目途に金融緩和の出口を考えている」といったような発言をした時も円高に向いましたが、それも同様の理由によります。

 ただし、後に黒田総裁はこの発言を訂正していて、物価上昇目標が達成されるまで金融緩和は続けると言っています(もっとも、それでも円安にはなりませんでしたが)。が、ならば金融緩和を強化・継続するつもりなのかと言うと、それも怪しい。何故なら、それから日銀は物価上昇の達成目標時期を削除し、更に続けて自民党が財政健全化目標時期の延長を発表したからです。

 これを素直に解釈するのなら、“無理な金融緩和を行うつもりはなく、金利上昇時の財政難を予想している”と取れます。

 

 ここまで金融緩和の出口における問題点ばかり書いてきましたが、ここ最近になって、僕は少し考え直した点があります。

 日本政府(財務省?)は10年以上の長期国債を発行しています。これはそのまま借金の償還期限が10年以上って事を意味していて、もちろん、問題の先延ばしという意味ではとても効果的なのですが、そうなると借金を負担するのは、将来世代という事になってしまいます。

 今の財政問題の責任が最も重いのは、高齢者世代なのに、そのツケを子供や孫の世代が払わねばならないのです。

 ですが、金融緩和で日銀はこの長期国債を大量に買い取りました。

 これは、実質的に長期国債の短期化です。

 もちろん、その所為で直ぐに財政負担が重くなってしまうのですが、高齢者達もそれを負担する可能性が高くなりました。

 或いは、負担を子供や孫に押し付ける事でじわじわと衰退し続けるよりも、長い目で見ればこの方が良いのかもしれない、可能性もあるような気がします。

 

 もっとも、それでも自民党はその責任を追及される事になるのでしょうがね(だから、自民党を支持しているのなら、もっと慎重に政策を行うよう求めるべきだったんです)。

 

 実は少し前まで、僕は自民党に金融緩和をソフトに終わらせるつもりはないのでないか?と疑っていました。

 暴走し続けて、ハードクラッシュを迎えてしまうのではないか?と。

 何故なら、日銀が金融緩和を弱めたタイミングで、金融緩和に対して慎重な姿勢を取る人達を外してしまったからです。

 ですが、その後、再び金融緩和を強化するような動きはなく、それどころか出口を模索するような発言や動きが観られるようになってきました。

 もっとも、決して充分ではなく、それでも失敗してしまう危険性は多分にあるのですがね。

 一部、「日銀(自民党)は国民には内緒で金融緩和を出口に向かわせている」と主張している人達がいるのですが、この考えが実は正しいのかもしれません。

 だとするのなら、“金融緩和の出口”での自民党の罪は、正直に現状を告白しない点…… という事になるでしょうか。

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