能面
「君は本物だよ」
理系の彼女は僕に対して、無表情を装った表情で、精一杯感情を表に出さないように、無機質な笑みを浮かべて言った。
「君を、君たらしめる水素原子60.3%はすべて君の物だし、その酸素分子25%だって君を形作っている。時として害になりうる炭素分子10.5%だって必要悪だし、あってもなくても同じ窒素分子2.4%がなければ君はどうなってしまうんだろうね。とまあ饒舌に語っちゃったわけだけど、この4種類の元素98.9%の他にも残り25種類の元素があるんだが知りたいかい?」
「うるさいなあ」
僕は目の前のハエを追い払うように、しっしと手を振った。
そもそもどんな話をしていたのか、まずもって論点を忘れてしまっている時点で論外だが、僕はそれを悟られまいと顔をしかめた。普段から無表情を装った表情を浮かべているのは僕とて例外ではなく、大学の講義を受講し終え、こうして最寄りのカフェでお茶をしている時でさえ、その仮面は決して外さない。
その仮面に色彩を添えようというのだから、表情筋が引き攣ってしまっていたとしても仕方がないと思う。
「どうしたのかな、能面みたいに画一的な顔面を歪ませて気持ち悪いなあ」
どうやら僕のしかめ面は彼女にとっては不愉快だったらしい。
まあ彼女ではなくとも、顔をしかめられて気分の良い人間はおそらくいないだろうが、それでも同じ無表情仲間なのである。唯一無二の無個性を分かり合える者同士なのだから、その仲間がノンバーバルコミュニケーションに取り組もうとしている時は笑って見守ってほしいものだ。あの無機質な笑顔で。
「死体が笑っているみたい。エンゼルメイクってやつ?」
「君には僕が死体に見えているのか?」
僕は無表情のままこぶしを振り上げ、いかにも"怒っていますよ"といった雰囲気を演出した。彼女は無表情でそれを見つめている。お互いに相好を崩さない。無表情を崩さないと言った方が、より正鵠を射ているかもしれないくらいだ。
ステンレスのトレイを持った店員が駆けてきた。痴話げんかだと誤解されたのだろう。
「ご注文をお伺いします」
違った。注文するために挙手したものだと思われたらしい。僕は無表情で珈琲のお代わりを注文した。彼女も無表情でそれに倣った。ウエイターだけぎこちない笑顔であった。
「私には君が生者に見えているよ。だって死体は微生物によってたんぱく質が分解されて強烈な腐乱臭を放つもの。君の体臭が、新陳代謝を停止したために生じているものだとしたら、動く死体として優秀なサンプルになれるのに残念ね」
「ああ、残念だ」
ちっとも残念そうなそぶりを見せずに僕達はお代わりの珈琲を受け取る。
感情の起伏を表に出せない僕達は、果たして人間なのだろうか。
時々自分が、"人間として"本物なのか、偽物なのか、わからなくなる。
「君は、"自分が人間として本物なのか偽物なのか知りたい"って言ったけど」
彼女は黒い珈琲をずずっと飲み込み、
「君が君であるということだけは本当だよ。得てしてクローンである可能性までは、否定できないけどね」
唇の端っこをつまんで引っ張り、
「ほうふれば、わらっへみえるれひょ」
笑顔のような物体を僕に見せつけた。
それを笑顔と呼称していいものかどうか迷ったけど、表情を作る努力をするあたり、僕達は人間臭いなあとなんとなく頭を掻いたのだった。