マタ・ハリとカナリス
二十代半ばの青年は、小首をかしげてから煙草に火をつけると視線を走らせる。
パリで知り合った女は大きな瞳が魅力的だ。どこかオリエンタルな印象を受ける踊り子。もちろん、踊り子などという浮ついた職業がそれだけを生業としている場合など少なくない。
現代社会で女がたったひとりで身を立てることなど困難に等しい。
少し前の世間と比較すれば、ずいぶん、女性の社会的権利が認められるようになったとはいえ、そうしたところで男たちと同様に権利が認められているわけではない。
踊り子であり、ステージのストリッパー。
彼女はその美貌と肉感的な魅力故に、多くの観客たちを魅了した。
「ハーイ」
そう気安く声をかけられて、カナリスは顔をあげる。
現在のヨーロッパ情勢と言えば戦火が渦巻くきな臭さがきついにおいをたてた。
彼よりもいくぶんか年上の、魅力的な「彼女」はにこりと笑ってから厚めの唇でほほえんだ。
「今日もかわいらしい」
長い睫毛をあげてからそうつぶやくように告げたヴィルヘルム・カナリスに、女は相変わらず魅力的な笑みをたたえながらオープンカフェのテラスのいすに腰を下ろす。その美貌と、年齢を感じさせない肌の美しさに誰もが目を奪われた。
「ありがとう」
互いに名前を呼ばないのはわかりきった互いへの礼儀だ。
もっとも、互いが同様に自分を尊重しているなどとは間違ってもどちらも思っていない。
カナリスはドイツの諜報部員であり、彼女――マタ・ハリはフランスのスパイだ。もちろん、カナリスは「彼女」が二重スパイであることも知っている。
ストリッパーとしての表の顔を持つ女が、身持ちが堅いなどと思ってもいないカナリスは、彼女が女であるゆえにそのやり方も多かれ少なかれ理解しているつもりだった。
「この戦争は、多くの人々を不幸にするだけよ。それに、もしかしたらもう状況は決しているのかもしれないわ」
「……軽はずみな台詞は、自分の身を危険に晒しかねない。そう思わないか?」
「それもそうね、口を慎むわ」
クスクスと笑う女は特に反省した様子もなく、口元に手を当てると両の手で頬杖をついてから組んだ指の上に顎を乗せて支えると、年下のドイツ人の諜報部員の青年をじっと見詰めた。
彼女は危険を承知しているはずだ。
諜報活動に関係することは、二度と表の世界に戻ることを不可能となることを意味している。
諜報部員は誰も彼もそれを覚悟して生きなければならない。
二度と日の下の明るみなどに戻ることは許されない。
「はたしてそうかな?」
「どういう意味?」
小首をかしげて言葉を綴る彼女は首をすくめるが、その声に毒もなければ棘もない。単純に心の底からどういう意味かと問いかけているに過ぎないのだろう。カナリスは言葉を返すこともせずに視線を冬の差し迫るパリの空の向こうに投げかける。
フランスとドイツの戦いは、泥沼と化して多くの被害を世界中にもたらした。
「あんたはなにを考えている?」
「さぁ?」
クスクスと彼女が笑っている。
「ところで、今夜もいつもの店でショーがあるのよ。わたしのかわいい彼氏さん」
一回りも年上の恋人の言葉に、カナリスは煙草を灰皿に押しつけてから大きな息を吐き出した。
「ストリップ?」
「そうよ」
いたずらでも思いついたような瞳で笑う彼女は、年齢よりもずっと魅惑的でかわいらしくて、それが多くの男たちを虜にしてやまなかった。
政治家や軍人、文化人。
ありとあらゆる男たちと彼女が体の関係を持っていることも、カナリスは知っている。
「ドイツの若い坊やは、際どいショーがお好きなんじゃないの?」
「その手のいかがわしいショーはハンブルクにだっていくらでも毎夜行われている。別に珍しくない」
特に慎重になるわけでもないが、相手のドイツ人に対する印象を損ねないように応じたカナリスにマタ・ハリは片肘をついたままで両のまぶたをしばたたかせる。
「だが、君が招待してくれるなら、ぜひ鑑賞したいな」
甘くささやくようにカナリスが告げると、マタ・ハリはほほえんだ。
夜のベッドの誘いとセットであることは、ふたりとも理解している。互いに諜報の世界で生きているのだから。
「お姉さんの魅力を教えてあげるわ」
ラテン・ヨーロッパの人間は、どうしてこうも男も女も性的な意味で情熱的なのだろう、と思ってからカナリスは考え直した。彼女がカナリスに向けるそうした一面ですら、諜報部員としての顔の一面であるということを忘れてはならない。
「ドイツ女にはない情熱を教えてもらおうか」
女は愚かだ。
ベッドで諜報活動ができると思っているのだから。
意識を快楽へと捕らわれるのは女の方で、男は大概、最初から最後まで冷静でいられることのほうが多い。
セックスの現状ですら、男は支配者になるというのに。
いずれ、この女は自らの軽率さ故に命を落とすことになるだろう。
だが、それを今更のようにマタ・ハリに教えてやる義理もない。
椅子から立ち上がって青年の横に移動した女は、そっと腰をかがめるようにしてから唇をカナリスの頬に口づけを落とした。
「今夜、十一時待っているわ」
肉感的な色気を振りまきながらコートの胸元をかき合わせたマタ・ハリは、口元でにこりとほほえんでから背中を向けてハイヒールのはいた足で歩き出した。