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李枝に唄うた天虎の噺  作者:
一章 檻の虎
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 考えていてもどうしようもない、と彩香は首を振った。どちらにせよ件の青年には向き合わなければいけないのだ。同じ廊下を戻ると、ドアノブを握り、躊躇のあとに開け放つ。数々の調度とは決して相容れることのない武骨な檻が部屋の隅に置かれているのを見て目まいを覚えた。

 そろそろと檻に近づいて、傍らに正座で腰を下ろす。桐がぎょっとするのが見えたが気付かないふりをした。一方で檻の中の青年はおやと目を丸くして、彩香と向かい合うように体の方向を変える。その姿があまりにも堂に入っているので、檻に入れられているのはこちらの方なのではないかと勘違いしそうになる。

「あの……あなたは、さっきの?」

 先ほどから口をつぐんでいたけれど、まさか華の言葉を喋れないということはあるまい。青年はひとつまばたきをして、彩香と桐を眺めやる。考えた末に、ぽつりと、「俺は口を開いてもいいのか?」と尋ねた。それに対して目を剥いたのは桐だ。

「お前、お嬢様になんて口のきき方を……!」

 彩香は詰め寄ろうとする彼を両手で押しとどめ、いいから、と言い聞かせる。それから壁際を指さした。控えることを渋々了承した桐だが、依然として青年をきつく睨み据えている。彼のほうを窺って、青年はふむと息をついた。

「お気に召さないか」

「いいの、そのままの喋り方でかまわないわ。あなたはここの使用人ではないんだから」

「それは助かる。堅苦しいことはどうにも嫌いだから」

 けろりと言って、彼はひとつ伸びをする。曲げられたままの指先が檻の天井を擦った。それがいくら大きな檻であるとはいえ、大の男をひとり入れるのには無理があるのだろう。

「……ごめんなさい、こんな檻なんかに」

 天虎は蛮族で、檻から出せば逃げるかもしれない。そう平然と言ってのけた父は、おそらく華の外に住まう者たちを人間とすら見なしていないのだ。彩香の命を救ったのがこの青年であると告げて、なおも顔色一つ変える様子を見せなかったのだから。

 やるせない怒りと申しわけなさに、彩香は檻の格子を握る。しかし青年は不思議そうに首をかしげた。

「俺を檻に入れるように頼んだのはあなたなのか?」

「そ、そんなことしないわ!」

「なら」檻の格子に背を預ける。「あなたが謝る必要はないだろう。堂々としていてくれてかまわない、あなたは俺の故郷の人間ではないのだから」

 お返しだ、とばかりに突きつけられた言葉に、彩香は絶句する。

 生まれた会話の間を切り裂いたのは、壁に手を叩きつけて青年に詰め寄った桐だった。その檻を揺らさんばかりの勢いで鉄の格子を握る。

「一体何様のつもりだ? ご温情を受けたからといって、調子に乗っていいとでも思っているのか」

「桐!」

 叱りつけても桐は檻から離れない。説得のやり直しかと彩香が息を吸い込んだところで、檻の中の青年が体を起こした。ゆったりとあぐらをかいたまま、大儀そうに桐を見上げる。

「これはまた随分と噛みつく番犬殿だな、うん? 檻の中の猫に主人が取られるとでも思っているのか」

 空気が凍った。その中で、言った本人だけが頬を掻いていた。桐が口の端を引きつらせたのに気付かないわけでもないだろうが、青年は小さく鼻を鳴らす。

「牙を抜かれた相手に粋がるのはやめた方がいいぞ、せっかく隠した小心を晒すだけだ」

「貴様、言わせておけば……!」

 桐が腰元に手をやる。彼が常時そこに下げているのは護身用の短刀だ。傍仕えの任に着くときは得物も装飾過多なそれ一本に限られているが、彼の太刀筋に狂いのないことを彩香は知っている。

 柄と鞘のあいだに現れた銀色の光に、しかし青年は冷笑した。

「厄介なことに、腕の悪い料理人ほど包丁を握りたがる」

 盛大な金属音がした。桐が怒りに任せて蹴り飛ばした檻が、衝撃に耐えきれず床へと倒れこんだのだ。短刀を抜き払った彼の姿を見、いくらか遅れて「おお」という小馬鹿にするような青年の声を聞いた瞬間、彩香の中で何かがぷちんと切れた。

「――いい加減にしなさい!」

 一喝に動きを止めたのは桐だけだった。一度倒れた檻は部屋の中をゆっくりと回転し、やがて重心の移動によって元通り器用に起き上がる。その中身が彩香のひと睨みに肩をすくめた。

 完全に音の止んだ自室で、彩香は腹の底の濁った空気をすべて吐き出す。ふたたび吸い上げた空気は、自分でもよくわかるほどに冷えていた。手始めに桐へ視線を向けると、彼は肩を震わせる。

「桐。私は、喧嘩をさせるためにあなたを連れている訳じゃないわ。その短刀も容易に手をかけるものではないでしょう。弁えなさい」

「ですがお嬢様、奴は」

「返事」

「……申し訳、ありませんでした」

 未練の宿った小声の謝辞を、彩香はよろしいと聞き届ける。それから反対側へ顔を動かし、悪びれない表情でいる青年を見下ろした。

「あなたもあなたよ。いたずらに彼を刺激しないでちょうだい」

「それは飼い主殿からの言いつけか?」

「そういうことではなくて……はあ、もう、桐」

 今にも臨戦態勢を取ろうとする桐が視界に入り、彩香は呆れて首を振った。これではいつまで経っても会話にならない。硬い表情のままで耳を傾けた彼に、「出ていなさい」と部屋の扉を指さして言った。

「お嬢様!?」

「何度でも言うけど、私はあなたに喧嘩をしてほしいわけじゃないの。こらえられないなら外に出ていなさい」

 何か言いたげに口を開閉させた桐であったが、挑発に耐えきれなかった部分を自省してもいたのだろう。渋々うなずいて部屋を出ていく。もちろん、扉を閉める一瞬で青年を睨みつけていくのを忘れなかった。

 あれでは本当に番犬と変わらない。深くため息をつき、彩香は青年に向き直った。

「ごめんなさい、彼も気が荒いわけではないのよ」

「いいや、こちらも煽りすぎたところがある。若い衆をからかうのは年寄りの楽しみのひとつだから」

「かさねがさね失礼を……そうだわ」

 彩香は居ずまいを正し、絨毯の上に両手の先をつく。きょとんとする彼の前に深く頭を下げた。

「先ほどは、命を救っていただきありがとうございました。このご恩は一生忘れません……と言って、あなたを檻から出してあげられないのは本当に心苦しいのだけど」

 彼のものに限らず、蒐集した獣たちの檻の鍵を持っているのは、その所有者である知治だ。どれも彼の部屋において一箇所にまとめられている。青年の入った檻が彩香の部屋に置かれたとはいえ、彼の生殺与奪は依然として知治の手の中にあるのだ。何を言っても檻の鍵が彩香に譲られることはないだろう。

 父親がこの新たな獣に飽きてしまうのを待てども、彼は一度手にしたものを手放すことを嫌がる節がある。屋敷に珍品や珍獣が増え続けるのはそのためだ。

 彩香が考えあぐねていたとき、唐突に「ここは?」と問われた。彼が何も知らないまま連れて来られた可能性に思い至って、彩香は我に帰る。

「八華連邦の一、梅の紋が治める町、菅流すがる……そう言って通じるかしら」

「梅の紋。それなら虎風山には近いのか、一応」

 そうねと言って首肯した。

 広大な領土を治める八華連邦であるが、離島を除いた全ての領土はひとつの団子状にまとめられている。その団子を八等分に切り分けたものがそれぞれの紋の領地にあたるため、梅の紋は八華のうちで最も虎風山に近い位置にある。

 しかし、それもあくまで他の紋と比べた場合の話だ。両地は茫漠と広がる平原と、何よりも華の内外という壁によって隔てられている。彼の故郷である虎風山が帰ろうと思って帰れるような場所にないのは確かなのだった。

「お父様はああいう人だから、すぐにあなたを帰してあげることは難しいと思う。でも、いつかは必ず故郷に帰すわ。約束する。居たくもない所に……それも檻の中なんかに、居る必要はないもの」

 いつになるかも分からない話をするのも心苦しかったが、彩香にはそれ以外に発する言葉がないのである。決意を固める意味で口にすると、青年はうなずき、ふと優しい顔をした。そのことにいくらかほっとして、彩香は相好を崩した。

「申し遅れました、私は朝妻彩香。梅の紋を預かる朝妻の当主の娘です」そこまで言いきってから間を置いた。「あなたの名前を訊いてもいいかしら?」

「ラウだ。天虎族の長をしていた」

 それは無意識のことだったのだろう、ラウは首の後ろに手をやった。

 動作につられてそちらに目を向けた彩香は首をひねる。遠目に見たときは短いだけだとばかり思っていた黒髪だが、よくよく見れば不自然な伸び方をしているのだ。散髪屋が華の外に存在するかまでは彩香にも知り得ないが、前髪はきれいに切りそろえられているのだから、後ろ髪だけを散切りで済ませるようなことはしないだろう。

 そのことを何の気なしに問うと、ああ、とラウが後頭部を叩いた。

「元は三つ編みにしていたんだ。天虎ではそれが長の印だった」

 息を飲む。少し迷ったあとに、そっと切りだした。

「それじゃあ、もしかして、連れて来られるときに切られて」

「ん? ああ、いや、切るように頼んだのは俺の方だ。しばらくは帰れないと思ったから」

 長が不在にしているわけにもいかないだろうし、と、失敗談を語るかのように軽々と言ってのける。けれども彩香の顔が見る見るうちに青くなっていくのに気付いたのだろう。困ったように眉を寄せてから、彼は妙案をひらめいたとばかりにうなずいた。

「切ってもらえないか」

「え?」

 言うが早いか、ラウは滑らせるようにして体を反転させる。

 目の前にするといよいよまばらな毛先だ。もともと癖のある髪質なのか、短く切られたせいで毛の束がそれぞれに好きな方向へ跳ね返ってしまっている。戸惑う彩香をよそに、彼はあごを引いた。自然後ろの毛が持ち上げられる形になる。

「目に余るなら切りそろえてほしい。俺は」言って、腰の横から手錠を掲げる。「こんなありさまだから。あなたなら綺麗に切ってくれそうだ」

「わ、私、人の髪を切ったことなんてないわ」

「揃えてくれればいいから」

「揃えるだけ、が難しいんでしょう! もう、必要なら専門の人を呼ぶから。しばらくじっと……」

「彩香」

 立ち上がりかけた彩香が動きを止める。見れば、首だけでふり返ったラウが不思議そうな顔をしていた。

「俺は外に出ないのだし、見栄えはあなたが気にすることだ。それなら別の人間に切ってもらうまでもない。俺はあなたに頼んでいる」

 髪に言及したのが自分である手前、彩香も引き下がれない。結局ため息とともに首を振ることになる。仕方なしに了承すると、彼は嬉々として首を戻した。

 棚から適当なはさみとちり紙を見繕ってくると、そろりとラウの髪に刃先を入れる。自分が切られる時はどうされていただろうかと思い返してみるけれど、そもそも自分の髪は彼のものほど短くはないのだった。少しずつ髪を切り、落ちた毛をちり紙の上に落としていく。揃えるとはいえ、一直線にはさみを入れればいいというわけではないだろう。ああでもないこうでもないと苦心していると唐突にラウの肩が震える。

 笑っているのだ。彩香はむっとしてはさみを止めた。

「……なにがおかしいの」

「なに、毛を刈られる犬はこういう気分なのかと思って。新鮮でいい」

「やめてちょうだい、こっちは真剣なんだから」

 ちり紙を取り換えて、ふたたび手を動かす。睨みつけるように髪だけを見つめていると、なにが良い出来なのかも分からなくなる。湧いた不満は別の形で口をついた。

「あなたって、本当、変だわ」

「変?」

「お父様にも私にも怒ったりしないし、境遇に対して文句ひとつ言わないし。相当懐が広いのでなければ変わり者よ。華の外じゃそれが普通なんてことはないでしょう」

 ある程度見栄えの良くなったところではさみを止める。凝り始めればきりがないし、変にこだわって身目を良くするのも避けたかった。ちり紙にまとめた髪をくずかごに捨てると、檻の中でラウが笑っている。今度はなに、と唇を尖らせると、彼は肩をすくめた。

「いや、なに、俺は天虎でも変わり者だったと思ってな」


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