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李枝に唄うた天虎の噺  作者:
終章 李花咲いて
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 日の光に染まった淡い緑を見上げていた。

 穏やかな風に木の葉は移ろい、耳に心地良いささやきを奏でる。寄りかかるには頼りない幹も、大地にくっきりとその影を落としている。彩香がそんな木陰を読書の場所に定めたのはつい最近のことだった。春から梅雨の時期へと移り変わるこの季節、日差しは苛烈に頭を焼こうとする。家にこもったところで、そのまま蒸し焼きにされてもおかしくないとあっては、落ちついて本を開いてもいられないのだった。

 撫でるような風を浴びながら、彩香は本を閉じた。そよ風の音に足音が混じる。傍らに座るような相手は決まっていた。

「暑くないか」

「大丈夫。風があるから涼しいぐらい」

「そうか」

 金の眼が波打つ平原を見つめる。その穏やかなことにラウはうなずいた。

 彼の頭の動きに合わせて、後ろでくくられた髪が小さく揺れている。まるで野を跳ねる兎のように見えて、彩香はこらえきれずに笑いを漏らした。ラウがたちまちに不可解そうな表情を浮かべる。

「なんだ」

「いいえ、ふふ、少し髪が伸びたかしらと思って」

 ラウが自分の後頭部に手をやって、尾のような髪の束に触れる。

 髪を下ろせば肩につくまでの長さはあるとはいえ、まだ三つ編みにするには足りなかった。証のない長の存在を憂慮したイェンロンが自らの三つ編みを一刀のもとに断ち切ったときには里じゅうが湧いたものだが、当のラウは短い髪のことをさして気にする様子もないのだった。示しが付かないからとひとつにまとめるのみに留め、伸びていくのを気長に待っているという。

 彩香が何の気なしに彼の髪に触れると、その上から腕を伸ばしたラウが彩香の毛先をさらう。こちらにも以前のようにとはいかない長さの髪があった。

「あれだけの髪を切ったのか」

「なんだか今さらね。前のほうが良かった? すぐに伸びると思うけれど」

「そういうつもりはない。ただ、さぞ思い切りが要っただろうと思ってな」

 髪を伸ばすことにさえ、別段深い理由は無かった。そうして切る機会も理由もなく漫然と伸ばしていた髪を断ち切ったのが、偶然目の前にはさみがあったから、などと言えば驚かれるだろうか。彼への想いを諦めるためだったなどと言えば顔をしかめられるだろう。くるくると変わるラウの顔を頭に思い浮かべながら、彩香はそうねと相槌を打った。

「お揃い。あなたが髪を切ったから。私の髪とあなたの髪じゃあ、価値の重みが違うことぐらいは分かっているけれど……ラウ? どうしたの」

 ラウが唐突に膝を抱えて顔を伏せるので、不審に思って瞬きをする。くぐもったうめき声が聞こえてくるのを確かに聞いた。

「そういう、ことを、言う」

「おかしいことを言ったかしら」

 いまいち腑に落ちない。もういいと顔を上げた彼はふてくされた表情をしていた。

「それなら、俺がまた髪を切ればあなたも切ってくれるのか」

「あら、駄目よ」

 ぴんとラウの髪を引いた。それが幾分かの痛みを生んだのか、彼は微かに顔をしかめる。

「あなたは長でしょう。元通りに伸ばしてくれないといけないわ。そうしたら私に編ませてちょうだい、ね」

 ひそかな夢を口に出すと、ラウは面食らったように呼吸を止めた。ややあって肩をすくめる。金の瞳が静かな輝きをたたえているのに気付いて、彩香はほっと息をついた。

 ふいに平原に影が落ちた。山を越えてゆく鳥の群れが、隊列を作って空を舞う。その羽ばたきを頭上に見上げて、ふと視界に入ったものに気が向いた。そういえばと言葉を添えて木の幹に触れる。

「これ。李の木なんでしょう」

 ラウが首肯する。彼がかつて口にした、山際に咲くという李の花のことをすっかり忘れていたのだ。すでに葉を茂らせている木の枝には、今や小さな青い実がいくつも揺れているばかりである。無念に思って見つめていると、ラウは彩香の頭に手を置いた。

「来年を待てばいい。あなたはそのときも、里にいるんだ」

 欲しい言葉をもらった。胸の奥にじわりと広がった温かさに、彩香は笑みを浮かべる。

 また花が咲く頃には、ちょうど天虎の里のひととせを彼らと共に過ごしたことになるのだろう。その頃には里に馴染めてもいるだろうと彩香は頭をめぐらせた。彼女が持ち合わせている、ささくれのできた指と筋肉のついた腕、脚でも、一生をここで過ごしてきた娘たちには到底及ばないままだった。

 それまでには酒にも慣れておこうと心に誓う。白く一閃をかたどる月と共に李の花を眺めれば、金目の青年はまた酒が欲しいとこぼすのだろう。酒類が苦手と自覚する彩香でも、一年を越えてまだ酒の肴でいるつもりはない。

「……さて」

 ラウが大儀そうに腰を浮かし、彩香の手を取って立ち上がらせた。

「ユフェンが呼んでいる。女性の支度には時間がかかるんだろう?」

「そうね」

 うなずいて笑う。家に戻れば、ユフェンが精魂込めて作ったと豪語する婚礼衣装が待っているのだ。

 婚儀の朝早くにも普段と変わらず読書に出ていった彩香を、ユフェンは「夫婦はよく似るものですね」と笑っていた。とはいえあまりにも遅くなれば揃って叱られてしまうだろう。彼女自身もやがて来る婚礼を控える身なのだから、彩香とてわざわざ心労の種を増やしてやりたいとは思わない。

 衣の裾を払って体を起こすと、李の枝が大きく揺れた。若草をさらった一陣の風は、山の向こう側へと駆け抜ける。虎風山のまとう雲がそれを受け入れるように流れていくのを、彩香は微笑みで見送った。

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