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李枝に唄うた天虎の噺  作者:
終章 李花咲いて
26/27

 完全に呼吸を止めた知治が、およそ十秒を数えるかという頃になって乾いた笑いを漏らした。

「はは、は、そんな……そんな、馬鹿なことがあるか。私はあなたの顔など、一度も」

「もう年も年、普段はせがれを代理に立たせているゆえ、な。身の証ならば、ほれ、この通り」

 苑がこともなげに手荷物から持ち出したのは、紺の鞘におさめられた短刀だ。よもやと顔をひきつらせた彩香であるが、危惧に反して短刀が鞘から引き抜かれることはなかった。

 その柄と鞘には桃の花をかたどった白塗りの紋が描かれている。かつて名だたる武家として華の印を受けた桃の紋の者たちは、代々その短刀を門の守護者の証として受け継いでいるという。苑の持つ宝刀が本物であることは、その紋の印の揺るぎなさと、それを持つ彼の泰然とした態度が示していた。

 水を打ったように静まった部屋で、「桃の、紋」と知治はつぶやいた。はっと息を飲み目の色を変える。

「まさか、婚約の破棄もあなたが仕組んだのか」

 父の言葉につられ、彩香は苑を仰ぎ見る。彼は否定することもなく、ふむと息を漏らすにとどまった。

 朝妻との婚約を打ち切った相手方の母親は、息子の婚約相手として別の娘を桃の紋の者から選び出した。一通の文をもってそれを知治に伝えたのも苑自身である。無言で視線を返すばかりの老爺に対し、知治はぎりと奥歯を噛みしめた。

「連邦の議長だからといって、こんなことが許されてなるものか! 紋の自治性の侵害だ!」

「……残念だがな、知治。そうもいかんのだよ」

 ゆるゆると首を振って、次に彼が取りだしたのは一枚の書類だった。議決書と銘打たれたそれを知治の目の前にちらつかせる。

「ここに連邦議会の議決がある。梅の紋を預かるお前の不徳を非難するものだ。先回、お前の欠席した会合にて議決されたものでな。どうやらお前の集める獣の中にはきな臭い代物があるらしい」

 苑の視線が一度彩香を見る。そこで理解が追いついて、彩香は両手を口元にやった。正体を隠して朝妻の屋敷に潜りこんだ彼は、知治の娘である彩香の口から直接、彼の行ってきた蒐集活動の全貌を聞き出していたのだ。

「品物の流通、雇われた人間、お前の私兵の動きを手繰って調べたところ、いくつか法に触れるものが見つかった。……たとえばその」ぐるりと首が向けられた先は、金目の青年。無言で成り行きを見守っていた彼が不思議そうに老爺を見つめ返す。苑は目を細めて言葉を継いだ。「華の外の青年。わしの記憶が衰えていなければ、華人による人身の取引は禁止されておったな?」

「人身売買など、私は」

「お前の雇った人間が彼を誘拐し、品物としてお前に渡した。そこに金銭の取引が発生しなかったと、誓って言えるのかね」

「……き、詭弁だ、そんなものはただのこじつけに過ぎない!」

「そのこじつけが通るほどのことをしたのはおまえだよ、知治。そこに重ねて紋の証を破損したともなれば、罰を与えるには十二分。議会の決定は下された――朝妻家から梅の紋を剥奪し、新たな主を立てるまで、紋の領地は連邦議会の共同統治下に置く。それから知治よ、お前には少し説教が必要なようだな?」

 彼が扉の外に合図を送ると、それに応えて二人の男が姿を現した。簡素なズボンとシャツに、暗い色のベストを重ねている。それは八華連邦の本部組織に勤める者の制服であるのか、規則正しく嫌味もない。

 しかしそれを纏う彼らの顔に見覚えのあることに気付いて、彩香はあっと声を上げた。二年ほど前から、彼らは朝妻の使用人服に身を包んで、素知らぬ顔で屋敷に勤めていたはずだ。

 すまなそうな顔で目配せされるので、否が応にも気付かされる――彩香からの告発が得られなかったとしても、知治の所業は遅かれ早かれ彼ら密偵によって暴かれていたのだろう。

 男たちは知治の脇を固め、彼の同行を促す。そのまま退出しようとしたが、息を切らせて部屋へと駆けこんだ人影を見て足を止めた。

「旦那様!」

 叫び、叩きつけるかのような勢いで扉に手を置いた桐は、信じられないという目を知治に向ける。

「どういう、ことですか。旦那様、これは、一体」

「……桐、か」

 知治は桐の顔を見やると、皮肉げに笑う。自分で歩けると告げて左右の男たちの手を振りほどいた。

 乱れていた着物をいなし、背筋を伸ばして羽織を整える。凛とした佇まいを取り戻した彼の横顔には微かな諦めと矜持が見て取れた。瞳を揺らす桐の前を、男たちを伴って横切っていく。

「……苑老師、お父様は」

「なに、申し上げた通り、我らで叱ってやるだけですよ。八華の連中は頑固者が多いですゆえ、父君の身には少しばかり堪えるかもしれませんなあ」

 それより、と声を低くして、苑は彩香の顔を覗きこんだ。

「彩香殿。あなたはもう梅の紋という後ろ盾を失っておられる。朝妻の当主たる父君もしばらくは謹慎の身、ともなればこの家もやがて没落するでしょう。……さて、困った。どこにも身のやり場がなくなってしまいましたな?」

 そう言って両の目をいっぱいに開くと、わざとらしく困った困ったとくり返す。

 彩香は束の間言葉を失って、ついには老爺の茶目っ気に肩の力を抜いた。身にのしかかっていた重荷が転げ落ちてしまった状況に実感がついてこなかったが、彼の手によって救われたことだけは確かであった。ラウとの間に視線を交わし合うと、揃って苑の前に深く頭を下げる。

「ありがとうございます、老師――いえ、楊苑様。親子共々、あなたが桃の紋の方とはつゆ知らず、申し訳ございませんでした。どうか今までの数々の非礼をお許しください」

「おや、何をおっしゃいますかな。私はただの老いぼれ。少なくともあなたの前では、かつての師でしかない男です。迷える教え子の悩みを聞いていただけのこと、そうでしょう」

 にっこりと笑みを返した苑は、続いて桐の名を呼んだ。勢いでふり向きこそすれ、所在なさげに目を左右させるばかりの彼に問いかける。

「あなた方はどうなさる」

「私たちは」間を置いて、うつむく。「旦那様のお帰りを待ちます。どんな方であっても、旦那様は仕えるべき主人ですので……意志ある者で、屋敷を守り続けます。あの方が、お帰りになるまで」

「ふむ、それもよい」

「桐!」

 彩香は足の横できつく握られたままの桐の手を取った。虚を突かれたのか、彼はびくりと体を震わせる。

「いつか、いつかでいいわ。もう一度天虎の里へ来てちょうだい」

「……お嬢様、ですが」

 弱々しく首を振るのも当然のことだ。桐が里に薬を撒いたことも、抵抗したラウを痛めつけたことも、天虎たちの記憶には未だ生々しいままで焼きついているに違いない。それでもと彩香が握った手に力を込めると、桐は唇を引き結んだ。

「歓迎は、できないかもしれないけれど。それでもあなたには見てほしい。屋敷だけが、八華だけが、世界じゃないって知ってほしいの」

 若い目に映る視界が狭められる必要はない。華とその外とが隔てられる必要はない。山から吹き下りた風が里に触れ、平原を駆けて八華の元まで届いてゆくのなら、それを止められる者はどこにもいないのだから。

 桐はなおもうろたえる様子を見せたが、とうとう彩香の表情と言葉に根負けしたのか、「いつか」とうなずいた。

「いつか必ず。ですからお嬢様、お嬢様も、いつでもここにお越しください」

「え?」

「ここがお嬢様の家であるよう努力します。……天虎の里、が、お嬢様の帰る場所になったとしても」

 ラウの顔を見上げようとして、桐は途中で目を背けた。それから彩香に向かって苦笑する。抜けきれないわだかまりを抱えても、やがてはこの屋敷もまた代わり始めるのだろう。散った花を悼んで足を止める時間はもう過ぎたのだ。ほのかな安心を抱いて、彩香はひとつうなずいた。

「約束するわ。……お父様にも、いつかまた伺いますと」

「ええ、お伝えしておきます」

 握手を終えて空になった彩香の手は、元のように下ろされる前にラウに引かれた。戸惑う彩香をよそに彼は桐を一瞥し、それから苑に向けて一礼すると、彩香を引き連れて部屋を出ていく。

 引き止める間もない。着物の彩香が追えるだけの歩幅ではあるが、その足取りが大股であることには変わりなかった。ぐんぐんと廊下を抜け、階段を下りきると、一階に飾られた梅の紋のタペストリーの前を横切って玄関をくぐる。

 久方ぶりに浴びた太陽の日差しは、薄闇に慣れた目を焼いた。彩香は眩しさに何度も瞬きをする。

 眩む白光の中に確かな視界が浮かび上がるより前に、野太い歓声が耳に入った。それが本邸の前に待っていた天虎たちの上げたものだと遅れて気付き、言葉に迷う。

「ご、ご心配をおかけしました。ありがとうございます……」

 おろおろと頭を下げると、彼らは顔を見合わせ、どっと沸いた。

「何言ってるんだ先生! 俺たちゃただ暴れたかっただけだからよ!」

「いやあよかったよかった、これでガキどもにも顔向けできらあ」

「なあラウ、よかったなあオイ! 長にもなって美人な奥さんも戻ってきて!」

「……おい待て、まだ婚儀は終わらせていないぞ。なしで済ますようなことはしないからな」

 盛り上がる面々に冷静に訂正を入れるラウだが、彩香の興味はすでにそこには無い。耳にした言葉に間違いがないことを確認すると、言い争いを始めかけた彼の手を強く引いて停止をかけた。おっと、と体勢を崩した彼に詰め寄って顔を見上げる。

「ラウ、長ってどういうこと」

「うん? ああ、聞いての通りだ。ここに来る前にイェンロンを下してな」

「聞いての通り、ってあなたね、どうしていつもいつも、そんなに重要なことをけろりと……!」

 彩香の言葉は続かない。馬を一匹引き連れたエンとユンが、屋敷へと続く坂道をそれぞれの馬で駆けのぼってきたからだ。計三頭の馬が高らかに馬蹄を鳴らして乗りこむので、仕事にいそしむ屋敷の者たちが何ごとかと外に顔を出す。

 しかし注目を浴びた当の本人たちはそれに気付いていない。荒い息をくり返し、額に滲んだ汗をぬぐった。

「六人で行くんじゃ一匹足りないだろ馬鹿! なんでみんながみんな馬に乗って行くんだよ! 先生の乗る馬はどうすんだ、馬鹿、鳥頭!」

「目的も忘れるなんて、ほんと、これだから野蛮だって言われるんだよ」

 なにい、といきり立った天虎の手を双子は馬の上で器用にかわし、ひょいと手綱を引いて彼らを馬に蹴飛ばさせようとする。怒声と悲鳴の混じり合うその騒ぎを見ていれば、ラウを叱る気もいつしか失せてしまっていた。彩香は小さくため息をつく。

 それを目に留めたラウが、目をしばたかせながら彼女の顔を覗きこむ。飼い主の様子を伺う猫のようなそれに思わず笑ってしまうと、彼はほっと息をついた。

「もう怒らないのか」

「この騒ぎじゃあ、ね。なんだか馬鹿らしくなって」

「それはよかった。知っているか彩香、小言を言うと老けて見えるんだ。ばば様のようにな」

「なっ……」

「安心していい、俺の花はしおれても干からびても間違いなく綺麗だ」

「そ、そういうことじゃないの!」

 気が付けば天虎たちの騒ぎもぴたりと音を止めている。彼らがにやりとわらい、少年たちが渋い顔をしているのを目にして彩香はさっと顔面を青くした。ふと視線をやった屋敷の廊下では、使用人の女性たちが目を丸くしている。

 なおも会話を続けようとするラウを突きとばして距離を取り、両耳を塞いで大きく首を振った。手と耳のすき間からはやしたてるような指笛を聞いてしまい、恥ずかしさに叫び声をあげそうになる。

「……あのさあ。どうでもいいけど、先生、その恰好じゃ馬乗れないじゃない」

 こぼしたユンの言葉が救いになった。自分の身なりを確認した彩香は、天虎の服がまだ屋敷の箪笥にしまわれていたことを思い出す。すぐに着替えてこようと踵を返したところで、その腕をラウに引かれた。

「俺の馬に乗ればいい」

「え、」

「はあ!?」

 彩香の戸惑いと少年たちの声が重なった。ラウは屋敷の前に繋がれていた自身の馬を引いてくると、問答無用で彩香を横向きに乗せる。その後ろに軽々と飛び乗って、動きを止めた天虎たちを見下ろした。

「どうした、帰るぞ」

 彼が手綱を器用に操ると、馬はいなないて屋敷に背を向ける。そのまま進みだした彼の馬を見て、はっとした男たちが自らの馬を解き放つ。大の男がそれぞれに馬を走らせるので、双子は動揺もあらわに周囲へ目を走らせた。

 びゅう、と強い風が吹き、彩香の髪をすくって踊らせる。

 その背中で、俺たちの苦労は――!? と叫んだ少年たちの声が高い空に吸い込まれていった。

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