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李枝に唄うた天虎の噺  作者:
五章 金の瞳に焦がれ
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 桐に連れられて彩香の部屋に現れた苑は、彩香の姿を目にするや、おや、とひとつ声を漏らした。

「変わられましたな、彩香殿。以前よりお美しくなられた」

 整えられたばかりの髪は、首筋をなぞってくすぐったい。ありがとうございますと彩香ははにかんだ。

 授業のためにと運び込まれた机を挟み、彼と向かい合って座る。苑の包みから愛用の筆と硯が取りだされたのを見てほっとした。

「老師はお変わりなく」

「腰が曲がってどうしようもありません。まったく歳には敵いませんな」

「それでもお元気そうで安心しました。……本当に」

 ちらついた面影は天虎の老婆のものだった。目をそらせば消え去ってしまうような儚い場所を、老いた者たちは歩み続けているのだ。

 二人の様子を伺っていた桐は、彩香の和らいだ表情を目にして肩を下ろした。

「お嬢様、苑老師、それでは失礼致します。時間になったらまた参ります」

「ええ、ありがとう」

 彩香の言葉と苑の会釈を受けて、桐は一礼の後に部屋を出ていった。

 硯に水が落とされ、苑の手で墨が擦られる。石の硯をこする音は木々のざわめきのように耳に優しい。間もなく匂い立つ墨の香りに、彩香は自分の背筋がぴんと伸びるのを感じた。とろみを帯びたところで苑は手を止め、墨の水分を拭い取る。そのまま筆を取るかに思われたが、彼の両手は膝の上に落ち着いた。

「髪を切ることに、人は古来より意味を託してまいりました」

 背中に届かない彩香の髪を見据えて、苑は穏やかな表情で口を開く。

「髪を断ち切る潔さに、未練を断ち切る思いを込めて。想い人を諦める、そのために髪を切る乙女は数多く。今日あなたを一目見たときは、もしやと思ったものですが――どうやら違うようですな?」

 彩香は眉根を下げて苦笑した。どうやらこの老爺には、千里眼が備わっているらしい。興味がわいて「老師の目にはどう映りますか」と問うと、苑はにっこりとしたまま二度三度とうなずく。

「この三月で、あなたはまるで変わられました。目指すものを知らなかったあなたはもういない。先ほど私は美しくなったと申しましたが、それはなにも髪だけを差したものではありません」

 筆を手に、苑は慣れた手つきで枝と蕾を描いた。李だ、と彩香はたちまちに理解する。桜と梅が似た花芽を付けるとも、彩香の頭に思い浮かぶのは庭に咲き誇る李の蕾以外になかった。

「日を、見つけられましたか。彩香殿」

 その問いは、恋をしたのかと問うことと同義。

 感極まって何度も首肯した彩香を、苑は初孫を見るような表情で嬉しそうに見つめていた。

「太陽、だけれど」言葉を切って、彩香はゆるやかに息を吸う。「月のような人でした。……いいえ、虎。金の瞳を持った、虎のような」

「天虎ですか」

「……はい」

 それはいい、と目元にしわを寄せて苑は笑う。対する彩香は心のうちに影が差すのを感じていた。曇った彼女の顔を見た苑は、その言葉を待つように目を細める。

「彼に連れられて、外へ出たんです。華の外へ……虎風山にある、彼らの里へ。華の者たちが蛮族と言って蔑む人々は、そこにはいませんでした。大きな月と、厳格な山と、どこまでも広がっていく平原と、温かな人たち――私が初めて見た、世界でした」

 ためらうことなく笑えば、声は天へと昇っていく。そんな場所だった。

「ですが、彼らにはもう会うこともできそうにありません」

「……理由をうかがっても?」

「私が朝妻の娘だから……梅の紋の後を継ぐ者、その妻になる娘だから、です」

 彩香が屋敷を出る前に、知治は娘の婚約を進めていた。相手は菅流に住む片親の青年。三ヶ月が過ぎ、その話が流れていたとしても、父親は新たな婿を探すだけなのだろう。

 梅の紋が彩香の後ろについて回る限り、屋敷を出ることは許されない。忘れかけていたのは、家出にしては長すぎる時間を外で過ごしてしまったからだ。

「あなたの蕾は、まだ開きませんか」

 かこん、と軽い音を立てて、苑が筆を置いた。彩香は首を振る。

「初めから、無かったのだと思います。蕾なんて」

 そう口にした瞬間、胸の奥に鉛の塊が落ちる。

 なおも答えようとするのは、身を縛る重りを増やすことと変わらなかった。

「私はここにいなければいけなくて、ここを守らなければいけない。半ばで亡くなったお母様よりも、もっと長い時間を朝妻で過ごして、子を為し、死んでいかなければならない。なのに」

 吐き出すたびに体が震える。胸が詰まって声にならない。苦しい思いをしてもなお彩香が口を開くのは、ただひとつ自分の中に明らかなものがあるからだ。

「外を知ったことを、老師、私は後悔することなんてできないんです。いくら焦がれることになっても、初めから知らなければ良かったなんて思えない」

 鼻の頭がつんとして、気付けば涙が頬を伝った。

 束の間の自由であったとしても、風の中に身を置いた日々は今も彩香の中にある。若草の芽吹いた里を、木々が新芽を伸ばす時期を、そして平原に風が光ることを知っている。それらを後悔するならば、山裾に生きる彼らを侮辱することになる。

「老師」

 涙をぬぐい、姿勢を正して彩香は問うた。

「花咲かぬ身であっても、芽を育むことはできるでしょうか」

 話をしようと思っていた。

 やがて朝妻の名を継ぎ生まれてくる子供に、風薫る地平の彼方に生きる人々のことを伝えたい。屋敷や華の壁の中だけが世界でないことを教え、彼らが解き放たれるよう願いたい。わが身の解放が許されないまでも、子供に夢を与えることは自由だろう。

 一度目蓋を下ろした苑は、しかしその問いにうなずくでも首を振るでもなく彩香を見つめた。

「日に焦がれ、光に焦がれ、どうして花をほころばせずにいられましょうや?」

「……老師?」

「あなたは素直な方だ。そしてそれゆえに思い違いをなさっておられる。……花たらぬ者などおりません。無論花たりて後、芽を育めぬ者はおりません」

 最後の教えといたしましょう。

 厳かに紡がれる言葉が彩香の耳に滑り込む。

「花が日に焦がれずにいられないように、日もまた昇らずにはいられない。それは月とて同じことだと、この苑は考えております」

 苑がにこりと笑むと、しんと沈黙が降りる――かに思われた。しかし余韻は外の動乱にかき消される。顔を向けたとて部屋以外の何が見えるわけでもないが、彩香は思わずぐるりとふり返っていた。屋敷の表がにわかに活気付く。何者かの怒号がくり返し響き、力強い馬の足音が大地を震わせた。

 呆然とまなこを見開いた彩香の前で苑は手早く荷をまとめ、両手に抱える。

「彩香殿、あなたに問いを残して、私も師としての務めを下りますかな」

 驚きを隠せないままの顔で仰いだ先に、苑は背筋を伸ばして立っていた。

「……春を呼ぶのに、必要なもの。今のあなたならば分かりましょうな?」

 言葉を切り、軽やかに笑声を上げる彼は、謎かけを楽しむばかりの老爺の顔をしていた。

 背を向けた彼に、彩香は両手をついて頭を下げる。足音が聞こえなくなってしばらくした頃、満ち満ちる思いと共に顔を上げた。

 彼の導きに与えられたものは数知れず。されどどれも芽吹かせなければ価値のないものだった。

 ゆるりと立ち上がる。去り際の苑は扉を閉めていかなかった。廊下に続くそこに、もう彩香を阻むものは無い。心を決めると、胸の奥は凪いでいった。

 春を呼ぶのに必要なもの――それは木の蕾を撫で、大地に命を芽吹かせる、風。

 風が吹くならば遅い春も来るのだろう。冬を越えたまま時を止めた、この屋敷にも。

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