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李枝に唄うた天虎の噺  作者:
五章 金の瞳に焦がれ
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 人に会わず、触れず、思い出したように行われる会話は桐に用事を言いつけるときのみに限られる。彩香が菅流に戻ってきてからちょうど一ヶ月が経った今、ほぼ元通りの生活が戻ってきていた。屋敷の玄関すらまたげなくなったことを些細な問題とするならば、世界の狭さは以前と変わりのないものだった。

 誰の顔も見なくなった日々は緩慢に過ぎていく。このまま春を越えれば、やがてうだるような湿気をまとった梅雨の季節が訪れるだろう。着物を身につけて寝台に横たわり、それを憂鬱に思う。着物を鬱陶しいと感じたのは久しく無かったことだった。

「お嬢様、失礼致します」

 湯呑みと急須を運ぶ桐が、寝転がったままの彩香を見て目をしばたかせる。「しわになりますよ」と困ったように言いながら台の上で茶を淹れた。くゆった渋い香りに導かれ、彩香はのろのろと起き上がって台の前に落ち着く。

 茶をすすると、鼻の奥に甘さが香り立つ。一口だけ喉に通して湯呑みを置いた。

「桐、お父様の呼び出しは?」

「未だございません」

 お嬢様のお体をいたわっていらっしゃるんですよ、と桐は言葉を添える。

 小さな切り傷や手荒れ、皮の剥けた足。里で暮らしていたころの傷はまだ治らないままでそこにあった。白かった肌は畑仕事のために日に焼け、ほんの少しの筋肉が腕を太くしている。箱入りの令嬢と呼ぶには丈夫すぎるふうのある見た目が、彩香の過ごした二ヶ月を物語っていた。

 一年もすればすっかり元通りになるだろう。そうして彩香は、外の世界など知らない娘に戻るのだ。

「……お父様は、どうして私を連れ戻したの」

 顔も上げずに問いかけると、桐は急須から両手を離した。

「それは、どうか直接お伺いください。私にはなんとも申せません」

「お目にかかることもできないのに?」

 追及する形になった言葉は鋭く響く。

 漫然とした日々に苛立ちが募らないわけがない。笑うことも怒ることもなくただ生きるだけの毎日は、彩香から少しずつ、確かに表情を奪っていった。そうして残ったのは焦燥と不安。このまま年老いていくことへの、ぼんやりとした恐怖だった。

「外に出られない、人にも会えない。これじゃあまるで軟禁よ。前より酷くなっているじゃない」

 桐は戸惑いを見せ、言葉に迷う様子のあとに小さく息をつく。呆れるようなそれが癇に障って睨みつけると、彼は呟くように言った。

「お嬢様は、変わってしまわれましたね」

 背筋をなぞられるような感覚があった。湯呑みに触れたままの指先が急速に冷えていく。

「以前のお嬢様は、外に関心を抱くようなことはなさいませんでした。朝妻のよき後継ぎになられるべく、懸命に勉学に励んでいらっしゃった」

「……変わった、って――」

 胸のうちにぞわりと沸いた感情に歯止めが聞かなかった。勢いのままに淀んだ空気を吸って、黒々としたものを吐き出すように彩香は笑う。

「ねえ桐、変わるのはいけないこと? おかしいのは本当に私の方なの? いつまでも変わらないでいられるだなんて、本当にあなたはそう思うの?」

 李の梢から見た平原は、途方もなく広大だった。

 しかし今の彩香は、その向こう側にも人が住んでいることを知っている。

「間違っているのよ。喪った人は戻ってこない。代わりなんてどこにもいないの」

「お嬢様」

「李の花を庭に植えたって、動物や器を屋敷に集めたって、お母様の代わりになんかならない。空しくなるだけよ。永遠に手の中にあるものなんてどこにもない、誰にも手に入らない」

「お嬢様!」

 ひときわ大きな声が彩香の耳朶を叩いた。彼女の射るような視線にひるんだ桐は、しかし重々しく首を振ってみせる。

「もうお止め下さい。いくらお嬢様とはいえ、過ぎた侮蔑は旦那様のお怒りに触れます」

 朝妻知治は、言うなれば小さな城の王様だった。

 恩情と財力で兵士を集め、裏切れなくなるまで教え聞かせれば、それはいつまでも自らのものだと信じている。首輪や紐でくくりつけることを疑問にも思わない。頑なな彼らは、自分たちがいかに滑稽なのかも気付かないままに朽ちてゆく――彩香もまた、同じように。無意識に噛んでいた唇の端がぷつりと裂けた。

「お父様に会わせて。できないのなら教えてちょうだい。私は一体何を求められているの、何のために連れ戻されたっていうの。たくさんの犠牲を生んでまで、取り戻す理由がどこにあったの」

「……どうか、旦那様がお話しになるのをお待ち下さい。私には、何も」

 堂々巡りになった会話は、彼の頑なな態度を示す。彩香はとうとう言葉を失って顔を背けた。

 湯気の立たなくなった湯呑みを引き戻し、桐は無言でうつむく。しばらくしてそそくさと片付けを終えると、「苑老師が」と切り出した。

「今日、お嬢様の元へいらっしゃいます。先ほど旦那様がお許しになりました」

「老師が?」

「ええ。お嬢様を書院までお連れすることはかないませんので、こちらまでいらして頂くようお伝えしてあります。午後には部屋にお通し致しますので、それまでにお支度を」

「……ええ」

 誰に見せるでもない縹色の着物は、先ほどまで寝転がっていたせいか形が崩れていた。苑と顔を合わせるならば、かんざしや帯飾りも抑えた方がいいだろう。花のかんざしを引き抜いて髪を下ろすと、長い髪は波打つようにこぼれ落ちた。

 桐が部屋を出ていったのを確認してから化粧台に寄り、べっこうの櫛で髪を梳く。くり返し、くり返し、歯を通すたびにうねりは収まって艶を生む。それを無心で見下ろしたあとに、ふと化粧台の上に残されたはさみに目を落とした。

 無茶な要求を受けて青年の髪を切ったのが三か月前のこと。その頃より伸びた彼の髪は、不格好ささえ気にしなければ紐でくくれるほどの長さになっていたはずだ。話には三つ編みにしていたという彼の姿を想像することは叶わなかったが、その髪を編んでみたいと考えたことは幾度もあった。

 手慰みに自分の髪を編み込んで、毛先に届いたところで気力を失う。細かい網目を形取った髪が異質なものに思えて目を逸らす、その先には銀色に輝くはさみがあった。

「……そう、ね、ええ、そうだわ」

 ひとりごちて、うなずいた。幅広のそれを右手に、束になった髪を左手に。刃先を開いてあてがう。今になって決意は要らない。

 しょきん、と音がした。

 わずかな手ごたえと舞い散った髪が身と心とを軽くする。刃を動かしては髪を断ち切り、肩ほどの長さに切り揃えたところではさみを置いた。簾のような毛の束を捨てると、化粧台の中の自分はやけにすっきりとした面持ちをしていた。

「うん」

 彼のように、とまではいかないが、結いあげなくてもいいほどの長さにしたのは初めてのことだった。

 度を超えない限りは髪形や化粧には自由を許されている。このままにしておけば、やがてやってきた桐が仰天しながらも散髪師を呼ぶことだろう。手元の確認もしないまま切った毛先はまばらになってしまっていたが、切りそろえれば見られる外見にはなるはずだ。

 櫛を用いて残った毛を払い落す。あっけらかんと途切れる手ごたえは新鮮だ。首筋に指先で触れ、感じる髪は軽い。

 それを揺らす風の吹かないことだけが、惜しいと思った。

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